転載

2010年4月 8日 (木)

【野阿梓さんの日記より転載】SF評論賞設立の経緯

Filed under: 転載 - 藤田直哉 @ 21:21:02

 以前、SF評論賞の関係者が参加させていただいているspeculative japanで、横道仁志氏と岡和田晃氏とを中心に、海老原豊さんや、少しだけ僕も参加する論争があった。その内容自体は、SFセミナーでの「若手SF評論パネル」での討論を無意識に引き継いでいる、評論の方法的な部分、態度的な部分にこだわった論争であったために、重要ではあるものの、内輪的な内容なものであった。一応参照のために始まりの部分のみアドレスを貼っておく。(個人的には、このような方法的問題を議論しつつも、もっとSFの地盤固めや、SFというものの価値、面白さの本質、文学との関係の問題、など、そういう大きな、外部に向けた話がしたいという気はするが、それは僕が大雑把な人間だからかもしれない 笑)

http://speculativejapan.net/?p=105

   その後、その論争に関して、『兇天使』などの傑作を発表されているSF作家の野阿梓さんが、横道仁志氏の野阿梓論「恋の秘儀伝授」、及び、岡和田晃氏と僕が作家の樺山三英氏に行ったインタビュー「ハムレット・スリップストリーム」http://speculativejapan.net/?p=125および上記の議論に異議申し立て、あるいは触発される形で、一連の日記での応答が存在した。

   その際に行った記述について、野阿さんが訂正をしたいとのことであり、内容に関してはSF評論賞というもののお陰で文章を世の中に出させていただけた者として知っておかなければならない内容であると思ったので、野阿さんの希望に従って、日記全文を引用させていただくことにした。なお、このような内容を公にすることの是非は当方には分からないが、転載した以上、その責は藤田が負うこととする。

   などなどと硬く書きましたが、これから応募する人にも読んでほしい、胸の熱くなる、奮闘秘話です。改めまして、この賞のお陰で文章を世の中に発表できるようになった人間の一人として、皆様に感謝をすると同時に、役に立つことを、設立の理念に恥じない仕事をしていけたらと思います。なお、文中に登場する「万里」とは、野阿梓氏のHNです。

   では、以下、引用です。

私は、2009年10月25日付のmixi日記に、以下のことを書いた――、

>>横道氏が第1回受賞者となった「日本SF評論賞」は、もともと笠井氏の

>>提案で始まったものだ。当時、「クズSF論争」によって、混乱していた

>>日本SF作家クラブを再建するために、召喚された笠井氏は、久しく無か

>>ったSF新人賞と同時に、SF評論新人賞の設立を動議発案したのだ。かな

>>り時間がかかったが、前者は徳間書店を、後者は早川書房をスポンサー

>>ドに、設立された。政治結社での理論/武装闘争を経験している氏は、

>>オルグの大切さと同時に、「革命は金がかかる事業である」ことを熟知

>>していた。

しかしながら、先日のパーティの後で、何人かの関係者から、万里の認識は間違っている、根本的なところで事実誤認がある、との指摘を受けた。

調べ直してみると、確かに、その指摘通りだったので、以下に訂正する。

日本SF作家クラブ(以下SFWJ)の外部の人にとっては、しょせんコップの中の嵐に過ぎないことかも知れないが、事実は事実として、キチンと正しておきたい。もとより、意図的に誤ったことを世間に流布する意思はないし、このようにクローズドな場での発言であっても、大宮さんの引用などで、当方が、最初に企図した以上の披見に数が及んでいると思われるため、いささか時宜を逸している憾みはあるが、ここに、訂正文を記す次第である。

特に、若手の批評家(ないし、それたらんとしている人たち)は、この意を汲んで、訂正されたほうの「事実」を受けとめてほしい。

ゆえに、この件に関して、引用は自由であり、特に断りは不要とする。

(特にマイミクのじこはさんなどは、知ってる限りにコピペを頼む(笑))

さて、当方が間違ったという記述は、「日本SF評論賞」についてである。

その当時、この案件の近くにあった人の話によると――、

「日本SF新人賞に関しては、確かに、笠井潔さんの力が大きかったし、それを提唱したのも笠井さんだったが、評論賞は事情が違う」

――というのである。

一応、SFWJの総会は秘密会ということになっているので、詳しい議事録などを公開するわけにはいかない。また、私は、自分が出席した総会の議事録は個人的にとっているが、出ていない会議は、重要な案件があった場合だけ、後で複数の人から聞く、という方法で補っているため、間接的にならざるをえない。

いずれにせよ、詳細な日時や発言者の発言内容を記すことは出来ない

この点は、あらかじめ、ご承知おき願いたい。

で、「日本SF評論賞」についてであるが、これは、2001年初頭に、SFWJの、ある臨時総会において、提案された由である。だが、あいにく、私はその会議には参加していない。

SFWJの総会は、大体、SF大賞の授賞式が開催される時、パーティの前に定例会が開かれ、その間に、「誰々を励ます会」などがあって、それに付随して開かれることが多い。私は、おおむね、定例会は出席していたのだが、この時の臨時総会は欠席しているようだ(当時の手帳などを探したのだが、見つからないので、正確な日時の再確認が出来なかった。大賞パーティの約1ヶ月前にホールドされた由である)。

そこで、動議発案したのは、大原会長本人だったらしい。

少し、異和感があるかも知れないが、当時、事務局長が多忙で議長職を休みがちであったため、やむをえず、会長本人が直接、議事運営に携わることが多かったのである。また、当時は、まだ「クズSF論争」の余燼さめやらぬ空気もあり、論争時には、ニュートラルではあるが、どちらかといえば「反クズ派(=つまり、われわれ寄り)」の立場をとっていた大原さんに、あえて対抗しようという勢力もなかったのだ。

発案理由としては、やはり、「クズSF論争」の影響が大きかったようだ。

すなわち、「なぜあのような論争が起きたのか?」という設問に対して、「ちゃんとしたSF批評家が少なかったせいだ=賛否両論につけ、SF批評家が沢山いたら、あんなことにはならなかったはずだ」という結論となり、「では、どうしたらいいか」という問いに対して「自分たちで批評家を育てるしかない」という解答が導き出されたということらしい。

「らしい」だの「ようだ」といった曖昧な文言は、伝聞情報によるためで、本当は大原さんご本人に直かに聞けば話が早いのだが、そもそも、こうした内部事情を明かすのは、ルール違反のような気もするし、最近、あまり会う機会もないので、聞きにくいのである(笑)。ということで、多少のunclear は、ご了解ねがいたい。一応、複数のインフォーマントから裏をとっているので、まず、事実関係での間違いはないと思う。

そこで、SFWJとしての検討が開始され、次の総会(これは、私も出席して議事録もある)において、具体的な話題となった。巽孝之氏から経過報告があり、討議がなされ、すんなり正式なSFWJの活動として、評論賞の設立検討委員会が発足し、担当幹事が巽孝之に決まった。

担当幹事というのは、会長を補佐するのが事務局であるが、その事務局の仕事を分散化し、特定の課題に対して作業部会(この場合、検討委員会)を組織するのだが、その責任者のことである。これは当時のSFWJの会則に即したものだ。

笠井潔さんは、その頃、すでに新人賞の担当幹事として、山田正紀幹事とともに、そちらの面倒を見るのに精一杯であり、また、ミステリ界の方でも、やり残したことがあるため、SF評論賞までは手が回りかねる、といった状況だったようである。

私が、このあたりの事実誤認をした背景には、まぁ、私が笠井さんのシンパであり、彼のミステリ界で行なった手法が、そのままSF界でも実行されたように思いこんだこともあって、氏の存在を過大に評価しすぎて、事実を見誤った、ということに尽きると思う。

一因は、むろん、最初の動議発案の時に、その場=会議に不在だったことが大きいが、私の中のファンタジーでは、こうした方法論は、いかにも、笠井さんがやりそうなことと思えたのだ。だが、確認すると、事実は異なることが判った。

動議発案者は大原さんであったし、その後の面倒を見たのは、巽孝之氏であった。

ただし、こうしたことは、なかなか実現には遠く見えない苦労が多い。

SF新人賞でもそうだったが、動議発案から、その実現までには、かなりの日時が費やされている。まず、スポンサーを見つけるのが大変なのだ。小説の新人賞なら、まだしも版元にメリットがあるが、評論賞となると、土台、発表の場も限られてくるし、版元のメリットも少ない。スポンサーが付かない所以である。

もともと、これらのSFWJ主催の賞に関しては、「大賞」の設立当初から、二次選考や最終選考の委員は「手弁当」というのが「原則」だった。

つまり、文字通り、まったくの無報酬である。

私も新人賞の選考会の末席を汚したことがあるが、本来、賞の最終選考というものは、ブンガク系のそれとなると、選考員には、かなりの報償が支払われることが、文壇の「常識」らしい。およそ百万のオーダーの報酬も珍しくないと云われている。私のような下っ端はともあれ、筒井康隆氏のような大御所となると、それくらいの報酬で引き受けておられると聞く。

それを、いくら文壇の番外地のSF界だからといって、無報酬で委員長になってもらうのだから、あだやおろそかには頼めないし、そこに臨むことも緊迫を孕んでいる(とか云いつつ、結構、筒井さん相手に、私ごときが畏れおおくも駁論したりしちゃったりするんであるが(笑))。

しかし、SFWJでは、委員長も委員も選考会議参加者は、二次選考、最終選考も無報酬が原則なのである。

だが、下読みや受賞式となると、やはり、それなりのカネがかかるのだ。

授賞式に関しては、副賞も含めて、会員制パーティにする案もあったが、一次選考は、ある特殊な能力が必要である。特に、小説の場合、素人の文章を読み、選別するのは、大変な労力を要する。SFWJの新人賞は長編が対象だから、その労苦は想像を絶する。

これは、まだ売れていない新人さんや、評論家・翻訳家などがアルバイトに傭われることが多い(らしい)が、彼らは、ジャンクフィクションの読み手としては傑出した能力をもち、段ボール箱一杯の原稿を前に、恐るべきスピードで「仕分け作業」を片付けてゆく。私は、別な機会に、実際に、それを目の当たりにしたこともあるが、とても、自分には勤まらない、と思ったものだ。なにより、二次選考でさえ、まる一月かけて、素人さんの文章を読み続けると、あと1ヶ月ほどは、自分の文章がオカシクなるのである。素人さんの文章には、それだけのインパクトがあり、なかなか慣れるのが困難なのだ。

そうしたことに抗堪するだけの強靱な精神力をそなえた見巧者でなければ、あの仕事は出来ない。当然、彼らには、無報酬で頼めない。

それはさておき――、

実際に第1回日本SF評論賞が軌道に乗ったのは、2005年前後である。

その間、会長職だけでも、大原・神林長平・山田正紀と3人も代替わりしている。結局、山田会長の時期に、早川書房がスポンサードになり、公募が決まったのだが、横道仁志氏の受賞は、次の谷甲州会長時代のことになる。

この間、歴代の会長やその事務局(局長やそれを補佐する何人かの人間がいる)は、機会のあるごとに、折衝や交渉に努めたのだが、成果が出せなかった。しかし、その時、成果が出なかったとしても、それはけして無駄でも無為でもなく、その次へと続く何かが確実にあったのだ、ということは理解されたい。

そして、一番、この評論賞に関して、無償の情熱を傾け、寄与したのは、やはり巽孝之氏であろう、というのが、一般的な見方である。

これらのことは、あまり表には出ないことであるし、また、本来的に、表に出さない方がいいことであろうことも理解しているが、最初に(勢いで書いたとはいえ)間違ったことを記述したのは、私なので、あえて、それを枉げて、ここに記しておくものだ。

各位には、もって諒とされたい。

だが、あの時、私は、「Speculative Japan」サイトに集う新人の批評家さんたちの活躍をみて、そこに展開される細やかな論理の鮮やかさには感心しながらも、大局的な視座でSF界のパースペクティヴを眺望する視点が、いささか欠けているように感じたのだ。だから、私が、そのとき云いたかったのは、もとより、誰の手柄であるとか、功名だとかとかいったことではない。

一番、伝えたかったのは、SFの新人賞も評論賞も、(スポンサードの好意はむろん承知しているし、縁の下で、さまざまな編集さんたちや一次選考員たちの努力があることも判った上で)、しかし、やはり、それはSFWJが主体となって、自分たちが、自分たちによって、自分たちの未来を切り開くために、手弁当=無償でやっているのだ、ということだった。

これは、今は「新人」でも、あと10年もすれば、彼らは「中堅」となって、自らが次代のSFWJを担うことになるはずだからである。その時に、自分たちが、いかにして世に出たのか、その背景をキチンと理解しておいてほしかったのだ。そのためには、新人賞などが、どうして設立されたか、そのアウトラインだけでも記しておくのが一番ではないか、と思われたのだ。むろん、誰の功績だとか、ましてや、そのことで、新人さんたちに恩着せがましいことを云うつもりもなかった。ただ、自分たちの立ち位置を判ってもらいたい。それだけだった。

結局、今の新人さんたちが将来のSF界を背負っていくのだから、歴史は繰り返す。彼らが、明日のSF界に資するためには、自分たちの「出自」を自覚してほしかったのである。

笠井さんの名を挙げたのは、判りやすいからであり、他意はなかった。

新人賞に関しては、その通りだったし、また、評論賞においても、笠井さんは、動議発案者でも担当幹事でもなかったにせよ、(巽孝之担当幹事の別荘と笠井宅が地理的に近いこともあり)、巽孝之氏は評論賞のことについて、笠井さん宅で会合をもった、とも証言している。そして、その後、発表の場が少ない評論部門の新人さんたちを、笠井氏が、自身の主宰する、限界小説研究会などにおいて率先して「世話」しているのも周知のことだろう。

しかしながら、実際には、動議発案は大原さんであり、一番苦労して賞の設立を成し遂げたのは、終始一貫、担当幹事として働いた巽孝之氏であった。これが事実である。

もちろん、その背後には、表には顕われない、何十人もの努力があったことを忘れてはならないにせよ。

以上――、

関係各位には、私の錯誤または知識不足による事実誤認により、迷惑をかけたことをお詫びするとともに、ここに謹んで、誤った記述を訂正させて戴き、「正史」をお伝えする次第である。

よろしくご了解ねがいたい。

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