往復書簡

2009年9月18日 (金)

批評家の卑しさについて

Filed under: 往復書簡 - 横道仁志 @ 4:39:33

拝復

岡和田様

 お返事ありがとうございました。

 お忙しい中、非常に丁寧な説明をいただいて、とても嬉しく思います。

 そして、岡和田さんのお返事を受けて僕は謝罪しなくてはいけません。岡和田さんの記事のおかげで、自分の振る舞いに軽率な点、考えの至らない点が多々あったことに気づかされました。そのひとつは、批評家であるかどうかを商業性を基準にして区分することに問題があるということです。これまで僕は、批評家が自分の批評にリスクを負うかどうかの分かれ目に、重点を置いて話をしてきました。たとえば、僕が漠然と思い描いていたイメージはこんなものです。《ある人が、ブログで書評を書いている。ところが何か問題のある記述を掲載して炎上してしまった。しかし彼は、当該の記事を削除すれば、あるいは、そのブログ自体を店じまいすれば、また別の場所で心機一転してやり直すことが簡単にできる》。こういう意味で、アマチュアと、自分の名前を賭けて商業誌に記事を投稿する批評家とはリスクの負い方にかけて区別した方が良いのではないかと考えていました。しかし、岡和田さんのおっしゃるとおり、そういう考え方は、市場からこぼれた批評家、同人活動や非営業で頑張っている批評家の方の存在をないがしろにするどころか、愚弄するものでさえあります。謹んでお詫び申し上げるとともに以前の見解を修正いたします。むしろ「責任を負う批評家」と「責任を負わない批評家」という言葉で線引きすべきでした。ところで岡和田さんは、その前後で、商業性の有無が批評の価値まで規定するというのが僕の意見だとお書きになっているようでしたので、その容疑については否定しておきます。色々と丁寧に説明いただいたことを手短に片付けてしまうのは気が引けるのですが、別に僕は市場原理主義に加担しているわけではないと思います。僕が批評の価値と商業性を同一視しているように見えたとしたら、それは上に述べた通り、僕の注意が批評家の責任問題にしか行っていなかったからです。むしろ、商業性が生む権威は、読者の模倣的欲望を誘発する危険があるという意味で、いくら注意してもし過ぎることはないと考えています。というのもこの権威は、批評それ自体の内容や価値とは異なる次元で作動するという意味では実体を欠いていて「まやかし」と言ってさしつかえないものの、現実に模倣的欲望を喚起するという意味では非常に具体的で、触知可能と言って良いくらいですから。ちなみに、商業誌に発表した批評家が権威を獲得するという記述も、彼が模倣的欲望の中心になる危険を否応なく負わざるを得ない、という意味で書きました。お答えになりましたか?

 それともうひとつ、岡和田さんと、それに渡邊利道さんに謝らないといけないことがあります。岡和田さんの記事で言うと、ちょうど真ん中のあたり、《責任を放棄した批評が「暴力」と化す時》と題された項目で言われていることです。岡和田さんとのやり取りでの二度目の記事「岡和田さんと藤田さんへの返答」にて、僕は、渡邊さんから質問を受けました。岡和田さんが指摘されている通り、そのときの返答で、僕は最初自分のことを「批評家じゃないのに批評家をけなす」人と名乗っていました。なぜそんなことを言ったかというと、単純に、自分が批評家を自称するのはおこがましいと思ったからです。しかし、岡和田さんのおっしゃるとおり、それは逃げ口実だと思い、また渡邊さんにも失礼だと思って、そこの箇所を削除訂正しました。しかし、本当に批評家として書く覚悟があるのなら、自分の間違いをも甘んじて受け容れるべきでした。ひとつの間違いを隠すため、もっと卑怯で大きな間違いをしでかしたことについては、謹んでお詫び申し上げるとともに、岡和田さんと渡邊さん、それにこの記事を読む読者の方々のご容赦を願います。そして、二度とこのようなことはしないと約束します。

 ひるがえって、岡和田さんに申し上げたいのですが、前回の記事で述べた僕自身の意図のことは、ごく素直に、そのままの意味で受けとって下さい。僕がこうして記事を書いているのは、岡和田さんのためです。申し訳ないのですが、あなたを措いて他に斬るべき相手なんていません。またまた不用意な発言になってしまうかもしれませんが、岡和田さん以外の批評家が、他の場所で、どれだけ下らない批評を書いたり、危険なプロパガンダを広めたりしていようが、僕には関係のないことです。僕は世直しを目指しているわけではありません。それに、僕が埒のあかない批評を書き散らかすよりは、岡和田さんがより良い批評を書いてくれる方が実り豊かだと、僕自身は思います。もっとも、これは勝手な言い草ですね。しかし、勝手ついでに言えば、岡和田さんが僕の記事について的外れだという気持ちをますます強めているのとは裏腹に、僕自身はいよいよ自分の直観が正しかったとの確信を強めています。

 岡和田さんは、先の記事で、僕の要約が暴力的な理論操作で、議論の全てを「批評」と「作品」の二元論に還元して、岡和田さんの記事をねじ曲げているとおっしゃいました。岡和田さんはそのオルタナティヴをこそ目指しているのに、というのです。しかし、岡和田さんの議論が二元論に還元されてしまうのは、岡和田さんがどうしようもなくこの論理の悪循環にはまりこんでいるからです。僕が唱えた異論に対して、結局、何ひとつ有効な打開策を打ち出せないまま、従前の主張を繰り返すことしかなさらなかったことが、何よりもそのことを雄弁に示しています。「作品」と「批評」が混じりあって見分けがつかないというのなら、どんな批評も(そして、どんな作品も)現実にはそうです。しかし、「作品のため」と「批評自身のため」、あるいは岡和田さんの言葉を使うなら小説の内部性と外部性という二種類の理念を同時に完全に充足する理想的批評というのは、論理的に不可能です。批評家は、作品の内部と外部を統御する美学を追求しなくてはならない。この言葉を口にしたのは、僕でも他の誰でもなくて、岡和田さんご自身です。そこで僕は、岡和田さんの言う批評家の使命が、どれほど厄介な困難を秘めているかを説明してきました。岡和田さんは、せめてご自分の言葉に責任を持たなくてはなりません。つまり、ご自分の理念の問題点を、正直に真正面から見据えないといけません。もし僕の言葉が信じられないのならそれはそれで仕方ありません。でも、幸いなことに、この件では、海老原さんからもきわめて明快なご説明をいただきました。ですから、この問題に関して言えば、岡和田さんはもはや知らんぷりはできないのではないのでしょうか。

 もっとも、岡和田さんも、そのことはうすうす気づいておられるのだと思います。おそらく、だから僕の議論を「殺す批評」だとおっしゃったのでしょう。しかし、前からちょっと不思議だったのですが、僕のスタンスを徹底すれば「書かないでおくこと」につながるというのはどうしてなのですか? どうして岡和田さんは、ことあるごとに僕の意見を「書かないでおくこと」とか、「伝わらないであろう言葉を切る」ことだと解釈なさるのですか? たぶんですが、僕は今までの記事の中で一度も「書くな」とは言わなかったと思います。それどころか、今までの僕の議論を一語で表すならば、それは「書け」ということになります。二語の許しが与えられるならば、「不可能だけど、書け」です。この「不可能だけど」という逆接表現は、「書け」を否定するのではなくて、むしろ完成させるものです。岡和田さんは、僕の記事を赤ペン先生の添削と同列に見ているみたいですが、むしろ僕としては、それだけはしたくないので、最初から岡和田さんの前提となる立場そのものに的を絞ってきました。すなわち、批評家自身が作品の内部と外部の通路となる、という理念です。岡和田さんとは目的がずれるとはいえ、それは僕自身の理念とも一致します。しかしそれは、海老原さんがおっしゃったように論理的な不可能事です。ならば、批評家は、既存の論理を超えようとするところから出発しなければならないのは自明です。けれども、失礼ですが、今の岡和田さんにそれは無理です。今のあなたは、既存の狭い論理に安住して、前提を疑うことを知らないからです。まさか、小説を読んでその感想を書くだけで批評家は通路となれる、そう岡和田さんがお考えだとはさすがに僕も思っていません。しかし、岡和田さん、おそらくあなたが暗黙裏に信じているように、単純に知識を積み上げていけば批評がすぐれたものになるという信念は、幻想です。

 前々回あたりの記事だと思いますが、僕はこんなことを言ったはずです。批評家は作品から思想を汲み取れば良いだけだから、何も苦労はない。この言葉に対して岡和田さんは反発を覚えたことでしょうし、それは当然です。批評家が知識を磨くこと、それを批評に結実させること。苦しくないわけがないからです。しかし、挑発的な書き方こそしましたが、僕は自分の意見を間違いだとは思っていません。単純な書く行為の苦しみとは別口で、批評家のためには、特別の苦しみが用意されているからです。この後者の苦しみを欠いていては、知識は、いくら積み重ねられようと無意味であるどころか、かえって有害ともなりかねません。僕は一貫して、この苦しみについて、批評家が自らを卑しくすると表現してきました。

 僕は、先日、野阿梓先生についての評論をSFマガジンに掲載してもらいました。岡和田さんからは高い評価を、また荒巻先生からはわざわざ独立の記事までいただきましたので、これについてひとつだけお話しします。この記事をお読みの読者の方は、どうかお許しください。僕が、あの評論で本当に言おうとしたのは、たったひとつのことです。すなわち、《野阿梓の小説を読む人間は、男を犯す悦びを味わい、男に犯される悦びを味わい、しかもなおそのことから目を背けてはならない》ということです。その他の全ての記述は、これを言わんとするための前準備であり後片付けです。確かに、傍からは些細な葛藤に見えるかもしれません。でも僕自身にとっては、自分の中の同性愛的な要素をかき立てられ、自分の男性性を揺るがされる経験は、非常に耐えがたく、目を背けたい出来事でした。しかもそれを筆に起こして公に発表するというのは、とても恥ずかしいことでした。しかし同時に、この経験を書くということ自体にかけては、全く迷いませんでした。なぜなら、この一点こそ、野阿先生が作品で描こうとしたことだと信じたからです。これは、直観です。僕という人間以外に何の保証も裏づけもありません。本当は作品が訴えているのは全く別のことで、全て僕の空回りだという可能性は、常に存在します。それもまた、批評家が負わねばならない責任のひとつです。これは、批評家が自らを卑しくする努力の、ほんの端緒に過ぎません。

 批評家がいつもこういう経験をする、というわけではありません。岡和田さんが必ずこの通りにしなければならない、ということでもありません。しかしひるがえって、こういう心構えを持たずにいては気づかれることすらないままに、やすやすと見落とされる作品の昏さというものが存在することも明らかです。それは、岡和田さんがこれまで看過してきたかもしれないし、これから向き合わなければならないかもしれない昏さです。いやそれよりも何よりも、今まさにこの瞬間に、岡和田さんは、この昏さに背を向けたまま通り過ぎようとしているのです。

 記事の表題にもあるように、前回、岡和田さんは、僕のトラルファマドール人の解釈につけ加えて「われわれみんな」というのは「541番」でもないといけないとおっしゃられました。申し訳ないのですが、それが何を意味するのか、岡和田さんが何をおっしゃっているのか、僕にはまるでわかりません。僕にはこの「541番」というのは、どうしようもなく意味不明で、滑稽に思えるほどナンセンスな数字に見えます。もしかすると、岡和田さんは、「われわれはみんな、どうしようもなく意味不明で、滑稽に思えるほどナンセンスである」とおっしゃりたいのでしょうか。だとすれば、それは僕自身の意見とまったく一致して、いささかの齟齬もありません。しかし岡和田さん、そのときには、あなたの意見は藤田さんの意見とも一致して、いささかの齟齬もないのです。僕の意見につけ加える、とおっしゃるからには、岡和田さんはある程度、僕の解釈を認めて下さっているのでしょう。しかしひるがえって、僕の解釈は、藤田さんの解釈と矛盾するどころか、補いあうのです。藤田さんの解釈抜きでは僕の解釈もまた成立しません。われわれみんなが、伝達のために自分のいのちを賭けて苦闘しなければならないということと、そのメッセージの内容が、ひいてはその苦闘自体がどうしようもなく滑稽で、他者に対して暴力的で、非倫理的だということとは、同じひとつの現実の表と裏です。そもそも、トラルファマドール人という形象を非倫理的に解釈したからといって、それで何もかも台無しになるほど『タイタンの妖女』という作品が脆弱な作品だと、本気でお考えなのですか? いくらなんでもそんなことはないでしょう。たぶん、売り言葉に買い言葉でひっこみがつかなくなっただけだと思います。しかしそれならば、岡和田さん、あなたはそんなつまらない意地の張り合いのせいで、『タイタンの妖女』という作品の解釈可能性を、決定的に取りこぼそうとしています。だから、あなたが本当に『タイタンの妖女』を受け容れようとするならば、何よりも先ず、あなたが侮っている藤田さんの解釈をこそ、どんなに腹立たしかろうと受け容れなければならないのです。何度も言いますが、僕の解釈は、藤田さんの解釈を土台にして生まれたものなのですから。

 それとも、僕や藤田さんとの議論では、批評家同士のやり取りだから妥協しないが、作品を読むときには本気を出して、作品の全てを受け容れるとおっしゃるのでしょうか。いいえ、とても信じられません。それは、聖人にすら不可能な道です。最後に読んだのはもう何年も前で、ほとんどうろ覚えですが、チェスタトンのブラウン神父シリーズにこんな話があったのを思い出します。義賊フランボウが、パーティの会場から宝石を盗み出しました。しかしそのために、パーティの客のひとりがあらぬ疑いをかけられたのです。ブラウン神父は、フランボウを説得するためにこう言い聞かせます。今まさに君は「一歩」を踏み出そうとしている。君は他人の幸せのために盗むはずなのに、今こうして犠牲者を生み出そうとしているからだ。もしその一歩を踏み出してしまえば、もう一歩、また一歩と君は道を踏み外していき、やがて最初の目的をも見失って、たんなる犯罪者へと堕落するだろう。一歩を踏み出すか、踏み出さないか。それが境界線だ。この境界を超えれば、もはや踏み止まるべき限界はどこにもない。

 岡和田さんが、藤田さんの意見を認めることができるかできないか。それが「一歩」です。踏みとどまるなら、そこに道はありません。なぜならそこに広がっているのは、岡和田さん自身が道となり、通路となって、この先の未来を血まみれになって切り開いていかなければならない茨の野だからです。しかし、もし一歩を踏み出してしまうなら、そのとき岡和田さんの前には大きな道が開けているでしょう。さくら草の咲きこぼれる、広く快適で、悲惨きわまる下り道です。その終点には、藤田さんが呈示されたもうひとつの「トラルファマドール人」の解釈が待っています。すなわち、もう誰も耳を傾けてくれる人のいない、自分で自分に語りかけるだけの自閉的妄想の世界です。自分で自分に語りかける、というのは、彼は自己賛美しか口にしないからです。自分で自分を聞く、というのは、彼には自己賛美の言葉しか耳に入らないからです。

 その兆しはすでに現われています。というのも、ジョルダーノ・ブルーノの例でも明らかな通り、岡和田さんは「批評」という言葉に手に余るほど幅広い定義を与えたために、ご自分でも収拾がつかなくなりはじめているからです。思想家でもあれば芸術家でもあるような批評家、創造者でも解釈者でもあって同時に両者の要件を完全に充足するような批評家は、あまりに全能すぎて、自分の外部に読者を必要とすることすらないでしょう。なぜなら、そんな批評家には、そもそも外部が存在しないからです。同じことは、岡和田さんが吉本隆明を引き合いに出して語られた言語の起源説にも当てはまります。というのも、岡和田さんが語られたのは、結局、デカルトからデリダまで連綿と続く言説、思考実体と延長を切り離すことによって自己と他者とを物神化する言説に他ならないからです。いわく、名指しえない水の広がりを「うみ」と呼んだ瞬間、モノを外部から指示する記号が生まれた。それと同時に、単なる物質の秩序を超えた精神、人間意識が生まれた、というわけです。この考え方、つまり記号をモノの外部に置く考え方から、記号とモノの絆は恣意的だという考え方が導出され、それが極限まで押し進められれば、記号は自己自身と一致せず、他の記号に送り返されるという考え方、いわゆる「差延」に行き着きます。そのときには言語は、言語自体の無基底性の内に自閉して、まったく外部というものを持つことが無くなります。これと背中合わせのプロセスとして、批評家が作品の外部から作品を一方的に言表するという考え方が出てくるでしょう。そして最後には、批評家は、それぞれ独自の現実に引きこもっていて、それぞれの現実はそれなりの妥当性を持つ代わりに互いの接点を持たないという結論に到達します。そうしてデリダのように、形而上学を指弾しておきながら、自分自身が誰よりも形而上学に引きこもるという事態に陥るでしょう。なぜなら彼は、記号から自然を切り離した上に、自然から後ずさりしているからです。世間一般のデリダの教科書や参考書がどう言っているかは知りませんが、僕個人の経験として、デリダ以上にメタ・ピュシカという言葉が似つかわしい思想家は読んだことがありません。そして、岡和田さんがデリダを直接読んだことがあるかどうかはわかりませんが、似たような考え方に染まっているからこそ、「僕たちは孤独の島に生きていて、同じように自分の殻に閉じこもっている」などといった話を臆面もなく口にできるのでしょう。結局それは、どんなに取り繕おうと、批評家自身を天空なる神の地位に祭り上げ、言葉を精神の力で無から創造したものとみなす所作に他なりません。

 僕の考える「うみ」の起源は、まったく違います。名もなき大いなる水の広がりを前にした原人は、彼自身、その水の広がりから生まれて地上に現われた生物だからです。汐のリズムは呼吸のリズム、鼓動と循環のリズムとなって、潮騒の響きは血潮の響きとなって、物理的に測定可能な生理学的特長として彼自身の肉体に刻印されています。しかし何より、砂を踏みしめて立つ原人は、言葉に先立って、海の水の塩辛さ、鼻孔をくすぐる磯の香り、吹き当たる潮風の爽やかさ、足の裏の焼けつくような熱さを全身で感受して理解していました。だからこそ、大空の青が白い淡いに消えていく水平線に目を凝らして、波立つ平原の無限の広漠さに畏怖すべきものの来臨を見、ひるがえって自分と自分たちの種族の小ささと有限性を自覚したのです。そのとき、彼の喉から息吹が漏れ、岩根のように硬い歯列をくぐり、唇の肉が象られることで、「うみ」という言葉が生まれました。またその声を、彼自身と仲間たち、そして世界が聞き届けたのです。つまり言葉とは、宇宙の中で、天空と大地、過去と未来、精神と物質、世界と肉、不死の神々と死すべき生物が「一堂に会する」ことで自ずから萌え出たのです。このいずれが欠けても言葉は成立しません。言葉は、主観が客観と、客観が主観と交流し、身体が世界に、世界が身体に受肉する運動の中でしか芽を出さないからです。海を「うみ」と名付けるということは、海から与えられた自己自身を海へと返すことでもあります。つまり言葉は、モノにおいて、モノとともに、生まれて育ち死んでいき、また新たに生まれ変わるのです。これを岡和田さんの言葉に直すなら、批評は、無から突然発現したわけでも、名指されるモノとは別の世界に属するわけでもありません。

 <何が違うというのか。モノが先在して、記号がそれに対して批評として発現するのなら、私の記述と何も変わらないではないか> いいえ、あなたには、モノと記号が通い合う、という視点が抜け落ちています。ご自分の記述を確認して下さい。あなたは「最初の人間が……批評意識を発現させた。それが言語の起源である」と述べています。つまりあくまで人間の精神を起源の主体に置いています。この考え方は、その背後に、批評家の精神はモノから解き放たれて、モノの外側の高みからモノを宰領するという思考を隠し持っています。これでは、批評家は自己をモノに一方的に投射するだけで、批評家の自己がモノに憑依されるという側面が見落とされてしまいます。つまり、批評家が肉を備え、常に他者とともに生きていて、感受し、交流する存在だということを忘れているのです。

 <そんなことはない。私は批評と創作のオルタナティヴをこそ目指していると言ったはずだ。だから当然、他者の存在だって考慮の上だ> いいえ、あなたはわかっていません。なぜなら、あなたが自覚的にせよ非自覚的にせよ依存している「差延」という考え方は、アイステーシス(「感受」)を決定的に不可能にする論理だからです。シニフィアンの浮遊という考え方をしているかぎり、言葉の手前にある自分自身の肉体は忘れられ、反対に、他者は絶対に到達できない彼方にいますもう一柱の神として祭り上げられる運命にあります。これは、批評家が自己自身を他者からの/への通路にするという理念を、完膚なきまでに封殺するものです。そして、アイステーシスがなければ、「美学」もまたありえません。

 確かに、この自閉的な思考にはまりこんでしまった人は、物神として崇拝しているという意味では、さも大切そうに他者の存在について語ります。しかしそれと裏腹に、彼にとって、他者との関係は、願望か、信仰以外ではありえなくなってしまいます。そこから彼が実際に他者とのあつれきに対して取る方策は二つです。ひとつは、そっちはそっちで、こっちはこっちだからお互いに干渉しあうのは止めようと懇願する。もうひとつは、どんな言説もそれなりの妥当性を持つから、自分の主張も君の主張も価値は等しい、と言うのです。一見すると、この種の議論は、唯一のイデオロギーの独占をしりぞけ、寛容の精神を示しているように見えるので、好ましく思えるかもしれません。しかしよく見ると、その実、自分の願望を正当化するだけの姑息であつかましい議論であることがすぐに露呈します。これは、或る意味で無敵の理論です。自分の願望がそのまま真理であるような議論ですから。でも岡和田さん、その無敵さはあまりにも都合が良すぎると、少しでも疑う気持ちは起こりませんでしたか? それに何より、人の数だけ真理があって、その外に真理はないという主張は、「科学」を真摯に追求する人々の精神を愚弄するものだと申し上げておきます。したがってそれは当然、サイエンス・フィクションの精神とも相容れません。なるほど、最初の内は、他者を思いやろうとしていたはずの理論かもしれません。でもそれは簡単に、いつのまにか他者を無視する自己中心的な主張にすり替わってしまうのです。科学と人文学を混同する科学主義の行き過ぎを止めようとする議論が、いつの間にか科学の言語を間借りして、どうしようもなく悪質な科学主義にすり替わってしまうのが良い例です。なぜなら、デリダ的な議論に隷従している人は、すでに「一歩」を踏み出してしまっているので、歯止めをかけるべき限界をどこにも見つけることができないからです。知の明晰性だけでは、絶対に越えようのない壁、いやむしろ、食い止めようのない転落というものがあるのです。

 言語に自然との絆を取り戻すということは、第一に、自己の中につねにすでに他者の現存を認めることです。主体と他者が交流するということは、こうして僕と岡和田さんが言葉を交わし合って、笑ったり、怒ったり、考えたりするという当たり前の経験のことを意味します。なぜならそのときには、僕が岡和田さんに、岡和田さんが僕に相互浸透しているからです。認めるにせよ、認めないにせよ。第二に、言語に身体的な基盤を認めるということは、身体が個人の身体に局限されないことを意味します。思考実体と延長、魂と肉体を切り離したデカルトの議論は、個人の人格と個的な身体の限界を寸分の狂いもなく一致させました。ここから、他者との交流を絶たれた孤独な内面というモチーフが生まれてきます。しかし、言語とは、全身体が思考して、全肉体が意味を与えるものならば、ひるがえって、身体は個人の人格に局限されるのではなくて、つねにすでに言語を通して公共化されていることになります。言語とは、社会や歴史、物理的宇宙まで含めた世界が個人と交流して、同時に個人が世界と交流する運動から生まれるからです。つまり、僕たちの身体は、孤独な個人のものであると同時に、天地開闢以来受け継がれてきた伝統的なものでもあって、いずれにも還元されないのです。オルタナティヴを標榜しておきながら、誰もかも各人の殻に自閉していると考える振る舞いが、どれほど不自然で矛盾に満ちているか、この一事だけでもすでに明らかです。そして第三に、言語が話者と交流するということから、批評家が自己の弱さを自覚することがただしく要請されることになります。なぜなら批評家の言葉は、批評家の実存と通い合っている以上、彼の全人格の表現でもあるからです。だからこそ、言語の起源の問題は、そのまま倫理の起源の問題でもあるのです。裏を返せば、狭い意味での論理にがんじがらめに縛られて知的に盲目になるのと、我欲に負けて放恣に流れるのとは、同じ一つの事柄の表裏だということです。我欲に駆り立てられた言葉が、真理を射抜くわけがない。もっとも、こうした話は僕個人の独創ではありません。真理に到達するためには、何よりも先ず我欲の浄化が必要だというのは、キリスト教の神学者たちが一致して主張することです。のみならず、以前たまたま読んだ『老子』でも、言語の起源の問題が、模倣的欲望の克服と同じ問題系として語られているのを発見しました。今はその場ではないので、詳細を語るのは差し控えますが、求められればいつでも説明する用意はあります。しかしとりあえずは、東西の文化の基底となったテクストに、そういう解釈を容れるだけの伸びしろが潜在している、という点だけ念頭に置いていて下されば、それで結構です。

 けれどもまだあります。言葉と倫理が軌を一にして生まれてくる、ということは、読者は批評の内容だけではなくて批評の行為そのものを読む、という現実をも示しているのです。岡和田さんとは別の意味で、僕もまた、読者を下には見ていません。読者は、批評の内容が整合性を保っていようがいまいが、どういう魂胆でその言葉が書かれたのか、論理を飛び超えて直観するものです。たとえば、「批評家じゃないのに批評家をけなす」という記述を抹消した僕の行為の卑怯さが、岡和田さんに簡単に見透かされたようにです。ということは、ひるがえって、岡和田さんがいくらご自身の記述を理論的に取り繕おうとも、読者はそれが、根拠があっての発言かどうか、ちゃんと見抜いているのです。考えてみれば、岡和田さんは、いつも質問者が本当に聞きたいことにはお答えになりませんでした。たとえば、「ために」の問題もそうです。レヴィナスを引用したのはなぜなのか、藤田さんを浅薄と断じるのはなぜなのか。これについて岡和田さんは、それなりに字数を費やして説明してくれました。しかし、僕は別に、そんな「なぜなのか」の答えなど聞きたくはないのです。僕が本当に聞こうとしたこと、本当に問いかけたことは、「誰のためなのか」という、ただその一点です。これは、文意を正しく汲み取れば間違えようがなかったはずです。

 しかしそれにもまして、あなたは藤田さんの問いに対して、不実な態度を取りました。岡和田さんが藤田さんに投げかけた言葉を「誤読」と言うのは馬鹿にする行為と言っておきながら、藤田さんが岡和田さんに投げかけた言葉を「誤読」としりぞけるのはなぜなのか。藤田さんが、正当にも投げかけたこの質問に対して、あなたのお答えはそっけないものでした。「それは揚げ足取りだ」。「自分は文意を汲み取っているが、藤田さんは文意を汲み取っていない」。ただそれだけです。実際のところ、これは答えにも論駁にもなっていないのは自明です。もし口ゲンカのレベルを卒業して、批評家として相手を反駁したいなら、「揚げ足取り」と言い、「発言の基礎的要素」と述べた、その根拠をこそ何よりも語るべきでした。これらの質問に今から答えて欲しい、というのではありません。答えなかった。それが何よりも雄弁な答えだからです。仮に、質問に答えることはできたけれど敢えて答えなかったのだとしても、あなたの落ち度に違いはありません。然るべき時、然るべき言葉で答えることをしなかった。それは、全面的に批評家が負うべき咎であるとおわかりのはずです。問いかけの読み損ない、答えの返し損ない。批評家の失敗です。しかも、たとえ答えを返したとしても、それは常に誤解される危険があるし、批評家は、理不尽だろうと何だろうとその危険を甘受しないといけません。これは、ここで僕と岡和田さんが語りあっている「卑しさ」うんぬん以前の問題です。当たり前の常識です。つけ加えれば、もしあなたが藤田さんの問いを受けた時点で真っ向からそれを受け止めていたなら、そもそも僕たちがこんなに長々と議論を交わす必要もありませんでした。藤田さんは、いつもながらの鋭さで、ことのはじめから、問題の要点を正しく見抜かれていたのです。

 しかし、一歩も二歩も譲って、藤田さんの批判は完全に間違いで、岡和田さんが全面的に正しかったとしましょう。それでも、あなたが藤田さんの読みを「浅薄」と言った瞬間、すべてがだいなしになります。単純に論理で説き伏せれば良いところを、相手をけなすことまでする姿勢には、はっきり言って見苦しさを感じました。僕だけではありません。よほど視野が狭窄していないかぎり、誰だってあの言いようには違和感を感じるでしょう。藤田さんの立場を少しでも思いやっていれば、とてもそういう書き方はできなかったと思います。これは、批評が手抜きせず相手を批判するとか、岡和田さんと藤田さんのどちらが正しいとかいった論点とは、次元の異なる問題です。あなたは、言葉の内容の整合性にのみ汲々とするあまり、ご自分の発言が、行為としてどういう効果を及ぼすかを見損なっていた。それはつまり、その瞬間には「藤田さんのため」、ひいては「読者のため」を見失っていたということです。言葉で他者の大切さを謳っておきながら、どうして行為で他者をここまでないがしろにできるのか。それは、あなたの前提がおかしいからです。自分の言葉が他人にどんな気持ちを感じさせるか。そんな当たり前のことに思い至らないのも、自分自身に閉じこもり、他者への思いやりを忘れた弊害の一つです。岡和田さんはけして「下手」ではありません。「思想的に間違っている」のです。しかも、その思想というのは、オルタナティヴという岡和田さん自身の理念を絶対に不可能にするほど歪なものだと申し述べてきました。

 これがRPGの批評だったらどうでしょう。藤田さんが岡和田さんにRPGの内容に関して、何か質問して、しかもそれが岡和田さんの意見とそぐわないのです。これは完全に推測ですが、おそらく岡和田さんは「なるほど藤田君。君の意見もわかるけど、でも実はこれこれこういうことでね……」と続けたのではないでしょうか。なぜなら、そのときには岡和田さんは、藤田さんとRPGの話ができるという、そのこと自体が嬉しいはずだからです。ささいな違いと思いますか? 僕はここに決定的な違いを見ます。前回の記事で僕は、岡和田さんの立場を批判しながら、岡和田さんの批評を面白いと讃えました。あれを二枚舌とか皮肉とか思われては嫌なので、あらためてここで説明します。僕が面白いと思ったのは、岡和田さんのRPG批評です。SFセミナーの際、僕は季刊R・P・Gを買えるだけ買って、あなたの批評を読みました。もちろん僕は、RPGの歴史も概念も何も知りません。ですから、岡和田さんのRPG批評の内容を、僕はほとんど飲み込めていません。それでも、面白いと思うことができるのです。僕は、海老原さんや藤田さんを尊敬申し上げています。それでも、ときとして岡和田さんのRPG批評はお二方の批評よりも面白い、と思うことだってあります。なぜならそのとき、あなたの批評には愛が溢れているからです。その熱意に浮かされて、僕もRPGに触れてみたいと思わせるだけの力があるからです。これは、暴力を誘発する模倣的欲望の連鎖とは似て非なるものです。なぜならあなたは、RPGの批評を書くことで読者に命令するのではなくて、読者を誘っているからです。だから読者もそれに応えたくなって、あなたを範型に選ぶのです。自由の範型です。

 ですから、僕が「非・私」を根拠にして、岡和田さんの「私」を否定しようとしている、という主張も間違いです。僕がRPGの批評の中に見た生き生きとした岡和田さんは、不思議なことに、仁木先生について語る批評の中にはみつけることができません。まして、藤田さんや僕とのやり取りではなおさらです。言ったはずです。自己を誇示しようとする欲望、相手を裁こうとする欲望。それは主体的であるどころか、もっとも非主体的な欲望であると。むしろそういう我欲を乗り越えるところから、はじめて岡和田さんの岡和田さんらしさが生まれて来るのです。RPGを語るときなら、岡和田さんがいつでも軽々と実現している通りに、です。もし僕の批評が岡和田さんに認められたことがあったなら、この一度だけで良いから僕の直観を信じていただきたい。それに、それができないかぎり、しっぺ返しを食らうのは、他の誰でもない岡和田さんです。

 そもそも、岡和田さんが藤田さんを浅薄だと断じたところで、藤田さんが考えを改めたり、傷ついたりすると思いますか? いいえ、藤田さんが本当にヴォネガットを愛好しているなら、恨んだりするどころか、岡和田さんの意見など鼻にも引っかけません。岡和田さんが相手を貶めるとき、本当に貶められているのは誰でもなく岡和田さんご自身なのです。同じことは、仁木先生の姿勢の評価についても言えます。岡和田さんは、僕への反論として、ごくごく素朴に仁木先生は批評に興味がないのだと主張されました。結構です。正直に申し上げれば、僕は仁木先生と直接の関わりを持たないので、仁木先生が批評をどう考えようと別段ダメージを受けません。しかしひるがえって、岡和田さんの主張は、他ならぬ岡和田さんご自身の批評の存在価値を完全に否定します。岡和田さんの言葉が正しければ、仁木先生を擁護しようとしまいと、全身で作品と批評のずれを埋めようと埋めまいと、仁木先生はあなたの努力に何の興味も抱かないでしょう。せいぜい「ご苦労さん」と声をかけていただけるだけのことです。なぜならあなたの発言は、「仁木先生のために」を禁止するからです。岡和田さんは、僕を黙らせるためにカードを切ったのかもしれませんが、それで黙らなければならなくなったのは、誰でもなくてあなた自身でした。「殺す批評」というのは、本当は、そういう言葉を言うのです。

 「殺す批評」という言い方からわかったことがもうひとつあります。おそらく岡和田さんは、このやり取りを勝ち負けの問題と見て、それにこだわっているのだろうということです。僕が岡和田さんを議論で組み伏せて、岡和田さんを従えるか。それとも岡和田さんが僕をしりぞけて、ご自身の矜持を守り通せるか。しかし、それは思い違いです。今まで誰も岡和田さんに言わなかったようだから、僕が言うまでのことです。いや、それは正確ではないかもしれません。岡和田さんと藤田さんのやり取りを見るに、以前にもこれに似た議論がされていて、それゆえの岡和田さんの反発なのかもしれません。しかし、もし僕の議論が、岡和田さんの反論をことごとく潰すように見えて、だから「殺す批評」なのだとおっしゃっておられるのなら、それも心得違いです。僕が何を言おうと言うまいと、ことこの件に関しては、はじめから岡和田さんに反論の余地などないのです。なぜなら、僕が語っているのは、僕個人の立場の問題でも妄想でもなくて、批評家が直面する現実だからです。こういう言い方をすると、僕が現実を僭称するのは暴力的だ、と憤慨する岡和田さんの声が耳に聞こえるようです。しかし信じるか否かに関わらず、もし僕が何も言わなければ、やがてこの現実が、僕とは比較にならないほど冷酷なやり方で、岡和田さんを徹底的に論駁するでしょう。そのときにはもはや、岡和田さんに抵抗の余力が残されていないことは目に見えています。岡和田さんでも、僕でも、現実を曲げることだけは誰にもできません。それとも、ひょっとして岡和田さんは、「批評のオルタナティヴが存在する」と口にすることで、言葉の魔術的な力が新しい現実を創造するとお考えですか? 冷たい言い方になりますが、僕にも岡和田さんにもそんな力が備わっているとは思えません。仮に言葉が無から新しい現実を創造することがあるとすれば、それは一部の選ばれた人々だけになしうる特権です。彼らは、一般に芸術家と呼ばれています。しかしひるがえって、言葉とモノと世界の交流が、一瞬一瞬に新しい現実を生み出しているというのなら、それは誰もがつねにすでに参加している営みです。ただし、岡和田さんがご自身の思想的立場に閉じこもっているかぎり、この営みを正しく記述することはできません。

 のみならず、「批評のオルタナティヴ」という言葉を、翻訳的批評と創作的批評の止揚として提出できる「答え」とみなすのは、真に致命的な過ちです。あなたの態度は、プラトンが第七書簡で語った挿話を思い起こさせます。それによると、僭主ディオニュシオスは、プラトンの授業を中途で投げ出したあげく、プラトンの教説、なかんずくイデアを「知っている」と言って、自分の思想として喧伝したのです。これに対して、プラトンは手紙の中で「誰も本当にイデアを知っているとは言えない」と静かに述べたのでした。同じ書簡の中で、プラトンは、イデアについてこう述べています。すなわち、志を同じくする仲間とともに、絶えざる霊的修練にいそしむことで、ある日、突然火花のように閃くと。火花です。一瞬だけ輝いて、その後はまぶたの裏にしか残らないからです。実際、あなたが「第三の批評」という理念を突き詰めて考えていたならば、あるいは批評家の卑しさというものを本当に真摯に受け止めていたならば、「第三の批評」の存在を反論の根拠として持ち出したり、「自分は現に批評家の卑しさを自覚している」と述べたりすることだけは、絶対にできなかったはずです。批評のオルタナティヴとは、批評家の卑しさとは、語ることの中の語りきれないもの、努力することの中の努力しきれないものとしてしか思いやれないからです。他者というのが、ともに生きる中の生ききれないものとしてしか思いやれないのと同じです。これらは全て、「答え」ではなくて「問い」なのです。もしプラトンの言葉が信用できないのなら、ドゥルーズならいかがですか。彼もどこかで、イデアとは問いであると述べていたはずですので。

 こういうわけですから、岡和田さんが素朴に信じておられるように、「私」を担保することから批評を始めるという考えも、同様に間違いです。「私」というのもまた、他者との分ち合いとせめぎ合いの中で、絶えず迷いながら模索していくことでしか思いやれない「問い」だからです。そうした迷いの苦しみの中で、言葉と、モノと、世界とともに、自ずから生まれて、つねに変化しつつ老いて死んでいく。それが「私」です。偶然にすがる以外に他者と関わりを持てない「孤立した島」などという考え方をしているかぎり、そんな「私」は抽象化された記号に過ぎません。そのどこに尊重すべき個性があるというのですか。批評は臆することなく新しい領域を切り開いていくべきだ。結構です。僕はあなたの言葉に全面的に賛成します。なぜなら僕が岡和田さんを批判する理由は、他者の存在に臆し、自分が傷つく可能性に臆して、問いを答えに、謎を結論にすり替えている、その態度にあるのですから。「私」に向かって上昇していくこと、「非・私」に向かって下降していくこと。この二つの運動は、本来、同一の現実の表と裏です。これは何ら神秘主義的な言説ではありません。それどころか僕の知るかぎり、これこそ真のリアリズムです。或る尊敬すべき先生は、これを《落下しつつ身を捩り振り返る》と形容されました。そして、僕は同じ考えを批評の場で表現して、批評はたたかいの中でしか真の意味を生み出さないと述べました。

 つまり、「ともに生きる」の中にも、存在者の様態に応じて種別や型が存在するのです。批評の場合、これは「たたかい」として結実して、それ以外にはありえないということをこれまでずっと語ってきました。批評家が単独で批評を書く場合でも、他人との議論の場合でも、これは、等しくあてはまります。単独で批評を書く場合、「たたかい」とは、「非・私」を受け容れるために、何よりも我欲を克服すべく努力しなければならないということです。相即して、そこから「私」が本当の生命を獲得します。そのためには、おのれの卑しさを自覚することからすべてがはじまります。もう岡和田さんも、それが自己を透明にすることとか、書かずに閉じこもるとかいった考えとは対極にあることをご理解されたはずです。批評家が自らを卑しくするとは、非常に平たく言えば、いつでも迷いながら、書けないことを覚悟して書くということであり、それ以外の何ものでもありません。他人との議論から批評が生まれるとする場合、「たたかい」とは、今こうして僕と岡和田さんがしているように、互いの意見をぶつけあう交流から、真に実り豊かなものが実現するということです。僕はその目に見える証拠として、僕たちの「トラルファマドール人」の解釈を提出します。なぜなら、今回の記事で僕たちが到達した「トラルファマドール人」という形象の解釈は、僕と、岡和田さんと、藤田さんと、それぞれが自分の解釈をぶつけ合うことで最終的に成立したのであり、この中の誰が欠けても現実には生まれなかったからです。

 話が非常に長くなってしまい申し訳なく思います。岡和田さんは、以前の記事で「総括的」という言葉を表題にされました。要するに、そろそろこのやり取りを終わりにしたいということでしょう。ですから、思いきって書くべきことをなるだけ書きました。この後岡和田さんが、この記事に反論しようとしまいと、岡和田さんのお許しがないかぎり、僕は一連の議論に関する記事を投稿しないので安心してください。僕を市場原理主義者とか、時代遅れで暴力的な形而上学シンパとか、その他好き勝手呼んでいただいて結構です。本来、そういう嫌疑は、小手先の言葉で反論するものではなく、これからの僕の批評活動そのもので応えていくべきものだからです。もし岡和田さんの指摘が本当に正しければ、遅かれ早かれ、僕も現実に裁かれて、自分自身の存在でツケを支払うことでしょう。ひるがえって、岡和田さんも当然おわかりのはずですが、あなたが僕の記事にいくら賛意を示したり、反論したりしたところで、結局、あなた自身の今後の批評そのものが、僕の問いかけへの何よりの答えなのです。時が、いずれ答えを教えてくれます。しかし、ひとつだけ言い残したことを思い出したので、ここでお答えします。岡和田さんは、たとえ話を引き合いにして、「論文の出発点の誤りを指摘されたらどんな気がするか」と質問されたのでした。もしそれが、僕が岡和田さんの出発点を否定しているという含みならば、たぶん、すでにその誤解は解けているはずです。僕は、岡和田さんの出発点、すなわち「批評家が外部と内部の通路となる」という理念を受けて、それがどれほどの困難に直面しているか、その困難を克服しようとするためにはどんな条件が必要となるか、という問題を徹頭徹尾語ってきただけです。これは理念を否定するものではなくて、理念を理念として正しく把握するための道筋です。

 でも問題を戻しましょう。もし僕が論文の出発点自体を否定されたらどうするか? 相手の意見を聞いて、もしそれが本当に正しいと思えば、喜んで相手にお礼を言って、もう一度はじめからやり直します。当然のことではないでしょうか。それとも、他に何か道があるのですか。岡和田さんは、批評家の卑しさを弁えている、商業ライターとして生きていく覚悟をしていると、何度も繰り返しました。そこで尋ねるのですが、その覚悟の中に、何度でも最初からやり直す覚悟とか、恥をしのぶ覚悟とかいったものは含まれていないのですか? 今まで岡和田さんは、三度、僕の批評が糾弾すべき対象は自分ではない、とおっしゃいました。どうでしょう、今でもそうお考えなのでしょうか。それに、僕の立場に「ある程度の共感」をしているとも言いました。僕が「ある程度の共感」という言葉に取り合わなかった理由はひとつです。この問題は、受け容れるか受け容れないかの真の二者択一で、「オルタナティヴ」とか、「ある程度」とかいった言葉でうやむやにする余地はないからです。あなたが藤田さんの解釈を認めるか認めないか、「一歩」を踏み出すか踏み出さないかにオルタナティヴがないようにです。しかしもし、今まで否定を重ねてきただけ自分の心を向け換えるのが難しいとお考えなら、ひとつだけ参考になるエピソードがあります。ローマ教会の基を開いたペテロも、キリストが捕縛された暗闇の夜、三度「私ではない」と否定を繰り返したのです。それでも鶏は時をつくり、朝日は昇りました。そのとき夜明けの野で流れたペテロの涙から、二千年の時を閲する教会の伝統が今日にまで受け継がれてきたのです。ペテロの心が頑なだっただけ、流れた涙の決意は固く、教会を支える盤石の巌となりました(これもまた、ひとつの通い合いです)。あなたは矛盾と言って笑うかもしれません。しかし、弱さとは力なのです。数滴の涙で世界を動かすほどの力です。恥ずべきではない、というのではありません。恥ずべきだから強いのです。けれども、夜をくぐらなければ、朝は来ないのです。

(横道仁志)

敬具

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2009年8月30日 (日)

ある批評家の悩み 批評家は読者とどう違うのか

Filed under: 往復書簡 - 海老原豊 @ 3:05:26

岡和田さん、藤田さん、横道さんの議論の熱気にあてられて、私も投稿させていただきます。第2回日本SF評論賞で優秀賞をいただき、SFを中心に書評・評論活動をしている海老原豊と申します。

SFセミナー昼の会でのパネル・ディスカッションを受けて、夜の会で横道さんが「批評とは作品そのものを指すこの指であるべきだ」と言った発言が、私にもとても印象に残っています。この発言を聞いたときに、真っ先に頭に浮かんだのは「それは無理だろう」というものでした。同時に、(失礼ながら)横道さんはどうしてそのような「楽観」を抱ける、あるいは「理想」を言えるのだろう、という疑問(憧れ、だったのかもしれません)でもありました。ただ、合宿の時もそうでしたし、またこのサイトでの「往復書簡」を読み私が強く思ったのは、批評に対するこの態度は、決して、ただの楽観や理想論からぽっと生まれてきたわけではなく、ある種の深い絶望を経て、それでもその穴に閉じこもることをしないという批評家的覚悟の末に志向している態度なのではないか、ということです。この絶望と理想が紙一枚を挟み重なり合っていることは、トラルファマドール人をめぐる藤田さんと横道さんの解釈のズレと深く関係しているとも思います。

私が「作品そのものを指すこと」を「楽観」であるとか「理想」であるとか断じる根拠は、ひとえに、作品が言語芸術であり、また作品を指す批評が言語行為であるからに他なりません。横道さんは、自身の身体を用いて、実際に手を伸ばし指を使って「指す」行為を体現しつつ、それを批評の理想といいました。横道さんの文字通りの「身振り」に、私は批評の言語‐構造的な限界を感じました。

批評の言語‐構造的限界とは何か。それは、言語とは記号であり、記号とはそれ自体の何かを指し示す「代わりの物」であることに由来しています。ウンベルト・エーコーは記号論を「贋物についての学問」といいましたが、記号は常に過剰であり同時に不足しています。記号は指し示すそのものになれず、つねに「について」のものでしかなく、それゆえに指し示したいものをより正確に指し示そうとすればするほど、するりと言語の網の目から抜け落ちてしまいます。どんなに言葉を並びたてたところで、「そのもの」にたどりつかない。言語(記号)の過剰性/不足とはそういうことです。それゆえに、横道さんは自分の身体という非言語的なものを使って――そして使うことによってしか――理想の批評を説明することができなかった。そのことに、私は勝手に絶望しました。そして、横道さんが私と同じように絶望しないことを不思議に思いました。でも、それは私の勝手な思い込みでしかなかったと今では思っています。横道さんが絶望しなかったわけがない。絶望した後に、しかし、それでも諦めることをしなかった。ただ、それだけであり、そしてそれを通じて初めて批評という行為が立ち上がってくる、今では(これも勝手ですが)そう考えています。

作品という言語芸術そのものを過不足なく批評という言語行為で「指し示す」ことは、極めて難しいことです。可能性と不可能性が一緒になってまとわり着いています。いかにしてそこからはじめるのか。これを私たちは考えていく必要があるのでしょう。という前提に立った上で、私が最近、考えていることを少し書いてみたいと思います。

批評家は読者とどう違うのか。

この往復書簡の議論にそって言うならば、この問いを私はずっと考えていると言えます。この問題の背景にあるのは、批評家の批評性の根拠をどう担保するのかということです。作品と読者の間を繋ぐ存在の批評家は、どのような言葉を紡げばよいのか。私は常に迷いながら(そして締め切りに追われながら)書いています。しかし、私の書いているものは一体、何なのだろうか。

私が書くものは、大学院で読んだ文学作品についての論文を念頭においています。それらの論文は、特定の文学作品を抽象化し(当然ですが、歴史化もします)、私の読書体験と結びつけてそれを豊かにするもの、もっと言えば私がその作品と向き合うことを助ける存在でした。これは極めて(歴史化という作業も含めて)抽象的な行為だと思います。ただ、同時に忘れてはならないのは、「私の読書体験」というときの「私」という存在が、どんなに頑張ったところで抽象化されることはないことです。

だから、ある批評はある読者の読書体験を豊かにすることはあるかもしれないが、別の読者にとってはそうではないかもしれない、ということが起こるのではないか。私が通じると判断して使った言葉が、別の人には通じない(私の意図を上手く伝達できない)のではないか。私の言葉とあなたの言葉を架橋するものは何か。あるいは架橋することが批評なのか。だとしたら、それは啓蒙やもっと卑俗な言葉を使えば洗脳とどう違うのか。これは作品(作者)-読者の関係とは異なります。作品の意図は読者の中で(作品の意図として)発現する。だから作品がその意図を読者に伝え損ねる、ということは原理的に存在し得ませんが、批評がその意図を読者に伝え損ねるということは、原理的にありえます。批評はそもそもが「についての」もの、つまりメタ言語だからです。指し示した先が、反対側を向いている可能性はあるわけです。メタ言語のメタ性を担保するのは、それがメタであるという信号をどこかに埋め込んでいるからであり、うまく埋め込むことができなかったり読み込むことができなかったりすると、機能不全に陥ります。

メタという言葉ほど、今日、使い方が難しいものはないのではと思うときがあります。メタを志向する態度は、ともすれば形式主義の極北であるシニシズムに回収され、あらゆるメタ発言が「ネタ」として消費されてしまう。あるいは、「ネタ」を回避するために、メタ言語の批評性を捨てて字義的に、つまり「ベタ」に理解しようとする。この時の「ベタ」は身体へと固着する傾向にあるように感じます。藤田さんの議論に接続するならば、メタ言語がネタとベタに分裂する場こそが2ちゃんねるなのでしょう。ただ、現実には2ちゃんねるには無数の「名無し=読者」がいるだけで、批評家が存在していないのではないか、という考えを私は(まだ)捨てられていません。

とてつもなく抽象的な言い方になってしまいますが、批評の批評性は作品に向き合うことと公共性を求めることの2点にあるように思います。作品に向き合うことは、見かけ以上に困難で、その理由の一つは先にも述べたとおりに批評が言語行為であることですが、もう一つの理由として、読者という具体的な経験に作品が回収されることで、批評の言葉が向かう先が作品ではなく読者の体験へとずれてしまうことがあります。2点目と関連してくるのですが、批評の言葉が作品ではなく読者へと向いてしまうと公共性(という言葉を、とりあえずはここで用います)が担保できず、百人読者がいれば百通りの読みがあり、そして百通りの読みがある「だけ」になってしまう。作品が百人の読者のアイデンティティへと回収されてしまうのではないか、ということです。それで良いという立場もあるのでしょうが、少なくとも私はその立場に懐疑的であると言っておきます。

私は世間的には「批評」と呼ばれるものをいくつか書いてきました。ただ、それが本当に「批評」と呼びうるものなのかどうか、判断できません。手を抜いたというわけではなく、私の中で未だに何をすれば批評なのかというところで答えが出せないでいるからです。また、答えが出るのかどうかも分かりません。ただ、考えることと書くことだけは続けていきたいと思いますし、またそうすることでしか「批評」の姿を捉えることができないのだろうと考えています。だからこのエントリは、もちろん岡和田さん、藤田さん、横道さんの「往復書簡」に触発され、かみ合っていない部分も多々あることを承知しながらそれでも大きな流れに接続できればという思いで書いたものですが、それと同じくらいの気持ちで、自分の中での未消化の部分を消化する、あるいは消化できなければ何が未消化であるのかを「指し示す」ことができればと書いたものでもあります。(あと、迫りくるある原稿の締め切りから逃れるために…)

さらに濃密な議論ができることを!

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〈speculative japan〉をスタートさせた本来の目的は、ファニッシュではないサーコン集団の育成でした。日本SF発足当時は、〃わいわい、がやがや〃のファニシュが優勢で、サーコンの育つ雰囲気ではなかったと思います。早川のSF評論賞も、詳しいことは知りませんが、どうもSF作家のほうからの要望があったらしく、早川がこれを受けたかたちで発足したようです。
思うに、ジャンルを発展させるには、評論や批評活動が必要であると、実は小生自身も作家と二足わらじですが、多数のプロは、心底、願っていると思います。この願いを満たしうる情況が、諸兄による今回の往復書簡を読みながら、生まれてきたと感じています。
小生も「卑金属は卑しくない」という小論を準備中です。なお、9/25発売のSFMバラード特集に7枚ほどの評論を書きました。お読みください。小生の立場は精神分析応用の方法です。自分なりの手法を長い間さがして勉強してきました。各自が、自分のベーシックな部分を公開するなら、小生には極めて暗号文めいて見える各位の評論も、かなり解読できるのではないかと考えます。
なお、昨日、SFM10月号入手。横道仁志氏の野阿梓論を解析中です。

コメント by 荒巻義雄 2009/8/30 日曜日 @ 11:12:20

2009年8月29日 (土)

われわれみんながトラルファマドール人でいるために

Filed under: 往復書簡 - 横道仁志 @ 9:38:58

拝啓

岡和田様

 前回の記事から、返答が遅れてしまいました。ひょっとしたらお待たせしたのではないかと思うと、申し訳なく存じます。さっそく岡和田さんの記事にお答えしたいのですが、でもその前に、お互いのあいだに大きな食い違いがあるかもしれないので、そっちを先に解消しておくことにしましょう。僕たちの話の内容というよりは、話の前提についての問題です。「批評家が自分のことを卑しいと自覚しているならただで活動すれば良い」と、僕は前回の記事で発言しました。それに対して岡和田さんは、当然、対価を受けない活動や同人活動などで批評を展開する批評家はいるだろう、とお答えになりました。それだったら、これにつけ加えて、ネット上にあふれかえっている個人の書評や批評のサイト、ブログを挙げても良いかもしれませんね。でもそういう人たちは「批評家」と呼ばれますか? 僕のイメージだと、批評家という肩書きを持つ人というのは、同人やネットの活動だけではなく、公の商業活動としての批評もやっているように見えます。でないとせいぜい「自称批評家」どまりなのでは?

 でも、まあそれは別にどうでもよい話題です。しかし、岡和田さん。あなたが、ご自身を「無償の批評家」だと名乗るのはいただけません。もし岡和田さんが、このままSpeculative japanやブログなど、ネット上で無償の記事を書き続ける立場にとどまるというのなら、それで良いでしょう。しかし、そうではなく、いずれは商業批評の道で地位を確立することが、岡和田さんの願いなのではありませんか。Speculative japanに記事を投稿しつづけるのも、アルバイトを続けているのも、ひとえにそのためではなのではないでしょうか。僕としても、その実現を信じているから、こうして岡和田さんに反論申し上げているのです。もし無償の批評家であり続けるというなら、その場合、岡和田さんの批評は、ネットというフリーな世界に数ある意見のうちの一つでしかありません。しかし、あなたの批評が商業誌に掲載されるなら、その批評はそれだけである種の権威を獲得すると同時に、本物の批評にともなうありとあらゆる困難がふりかかってくることでしょう。

 もし僕の見立てがあくまで見当違いで、岡和田さんは本職の物書きを目指してはいないというのなら、それでけっこうです。今までの僕の記事はまったく無意味だったということだし、これ以上あなたとのやり取りを続ける価値もありません。お手数ですが、ここでこの記事を読むのを止めて、「編集」をクリックしてこの記事を削除して下さい。しかし、そうでないというのなら、もう少し僕の話につき合って下さい。

 さて、今この文章をご覧になっているということは、少なくとも一つは僕たちの間に共通理解ができたということですね。それからついでに申し上げますと、岡和田さんが夢の実現を目指して、Speculative Japanや翻訳での活動を頑張ったり、今現在アルバイトを続けたりしているのは、何ら恥ずべきことではなくて、むしろその反対だと僕は思います。

 ところで、岡和田さんとはもうひとつだけ、このやり取りの前提に関して、話し合っておかないといけない問題があります。しかしそれは後回しにして、先に、前回の岡和田さんの記事で受けた問いについて返答したいと思います。あまり長くしたくないので、目についた論点に箇条書きでお答えします。ひょっとすると、とりこぼしがあるかもしれません。そのときには、改めてご質問いただければ回答いたします。

Q. 作品として成立する批評もあるのでは?

A. せっかくですから岡和田さんの分類に準拠しましょう。①「翻訳的批評」②「創作的批評」 この二種類です。さて、今まで僕はくどくどと「翻訳的批評」について説明してきました。そこで岡和田さんは、「創作的批評」というものがあって、作品に拠らない独自の価値を有するのだから、僕の批判自体が的外れだとご指摘になりました。では、僕たちのやり取り、というか僕の最初の記事が、どういう経緯から出発したのかを確認してみましょう。それは、仁木稔先生が、創作者の立場から、「批評理論」に対して冷淡に見える態度を取っている、というところからはじまったのでした。そして僕の指摘というのは、仁木先生の不満とは、批評によって作品がないがしろにされる危険があることの裏返しではないかというものでした。

 「翻訳的批評」というのは、できるできないはともかくとして、作品を自分の内に受け止めて読者へと届けることを目的としています。つまりこの場合、第一目的は作品で、第二目的は読者です。ひるがえって「創作的批評」とは、それ自体が一個の作品なわけだから、自己自身を読者に伝達することを目的としています。つまり、第一目的が読者で、第二目的が作品です。あるいは、批評対象となる作品は「手段」で、読者だけが目的だと言った方が正確かもしれません。もちろん、創作的批評が必ず批評対象を曲解するということにはならないのかもしれません。藤田さんの『非現実の祝祭』は、その美事な見本ですね。しかしひるがえって、仁木先生の懸念(と僕が解釈しているもの)が、まったく根も葉もないかと言えばそういうわけでもないと思えます。少なくとも、「翻訳的批評」が「作品のため」の批評だとすれば、「創作的批評」は「作品のため」とは、けして言えないことは明白です。なぜなら創作的批評は、岡和田さんもお認めの通り、それ自体が一個の作品なのですから。まあこのことについては、また後で一緒に考えてみましょう。

 ちなみに、岡和田さんがお挙げになった『完全な真空』や『アテーネウム断章』などの具体例も、かまわないですよね? 「翻訳的批評(=批評)」と「創作的批評(=作品)」という線引きからすれば、これら具体例は、批評ではなくて批評形式の作品、もしくはれっきとした一個の作品ということになります。創作的批評というのは、下敷きとしている原作品(あるいは、非・原作品)をもつかぎりは、翻訳的批評としても読めるというだけのことです。

Q. 解釈の枠をはみ出した批評が、元となった創作の可能性を照らし出すことがある

A. さて、この問題については、岡和田さんの言葉をいまいち理解できていないように思えるので、ちょっと整理してみることにします。“批評が、作品を論じることで、暴力でしか切り開かれない価値を呈示した”。ふむ。ではこの場合、「暴力」とか「価値」といった言葉は、誰にとっての暴力で、誰のための価値なのでしょう。 仮定一、“批評が、既存の批評では捉えきれなかった作品の新しい地平を開拓した”。この場合、批評が「暴力」なのは、過去の批評に対してであって、反対に、作品のために「価値」あることをなしたということになりますね。 仮定二、“批評が、作品をアクロバティックに解釈することで、新しい価値を呈示した”。この場合、新しい「価値」とは、批評の読者のための価値ということであり、暴力とは、作品にとっての暴力だということになります。とすると、どうやらこの問題も、結局、岡和田さんご自身が呈示された先の線引きに回収されるようです。

 それと、不勉強で、シェイクスピアが歴史上忘れ去られていたというのは初耳なのですが、セルバンテスがうんぬんというのは、聞いたことがあるような気がするので一言。セルバンテスが歴史の中で忘却されていて、それをロマン派の批評が再発見することで僕たちの時代にまで伝えたというのなら、そのときロマン派の功績については、セルバンテスの「発見」とセルバンテスの「批評」とで、しっかり区別しないといけないということです。ところが、ロマン派は、自分たちの発見を批評に託して伝えることしかできなかったというのもまた事実です。おそらく、ここにこそ、批評の最大の葛藤が存在していると、ぼくは見ています。しかし、この問題もまた後回しにします。

Q. シュレーゲルの『マイスター』批評は、作品について語らずに、作品の地平を語っている

A. そもそも、批評が作品に対して暴力的かどうかは表現や語り口とは関係ありません。おそらく岡和田さんは「ゲーテ本人が絶対に語り得ない地平」をシュレーゲルの批評が語っている点に暴力を見ておられるのだと思います。しかし、渡邊さんとのやり取りで申し述べた通り、作品の作者というのは、作品の内部にしかいません。ゲーテ本人が語る語らないは、作品への暴力の基準になりません。もし岡和田さんの基準を厳密に適用すると、それこそ文字原理主義と言うか、僕以上に過激な批評批判ができあがってしまいますよ。

Q. 批評から逸脱の可能性を取り払ってしまえば、テクストの硬直化を招く

A. もちろんおっしゃる通りです。批評から逸脱の可能性を取り払うことは不可能ですし、批評はいつでも逸脱しています。

 さて、岡和田さんの先の記事に対する返答はこれくらいで十分だと思います。実際には、ここから先で岡和田さんは、僕の前回の記事に対する批判を展開するわけですが、僕としては、それを全部認めてかまわないと思っています。もっとも、ジョルダーノ・ブルーノのことを思想家と呼ぶならともかく、批評家と呼ぶのはあんまり聞いたことないぞとか、いろいろ細部で尋ねてみたいことはありますけどね。

 しかし、そんなことよりも、先に棚上げにしていた僕の記事のもうひとつの前提を、ここで確認してみたいと思います。どうも僕の書き方が下手で岡和田さんを勘違いさせてしまったようですが、別に僕の記事は、岡和田さんに悔い改めを促して、批評家であることに劣等感や罪悪感を植えつけようとしているわけじゃありません。公開の場で岡和田さんを吊るし上げにして恥をかかせようとしているわけでもないし、岡和田さんをダシにして批評の批評をぶって、自分がどれだけ賢いかをSpeculative japanの読者に誇示しようとしているわけでもありません。

 一連の記事の目的は、岡和田さんの今後の批評を、より豊かで優れたものにすることにあります。ですから、たとえ言葉の上で僕と岡和田さんが和解を見ることがあるとしても、将来の岡和田さんの批評がより善いものへと変っていかないのなら、やっぱりこの記事は、書くだけの価値のない駄文です。もちろん、岡和田さんの個性を殺して、僕の思想通りの操り人形にするなんてお話にもなりません。それでも僕には、岡和田さんが批評家の卑しさを自覚できないでいることが、そのまま岡和田さんの批評の根本的な限界を画定しているように思えて仕方ないのです。もし「卑しさ」という言葉ではどうしても受けつけないのなら、「ために」という言葉を代わりに使うのでも構いません。岡和田さんの言葉は誰のために語られた言葉なのか、それがときどきわからなくなることがあるのです。

 それが典型的なかたちで表れているのは、むしろ藤田さんとのやり取りでのことだと思います。岡和田さんは、そこで「横道さんがジラールを援用されましたので、私はここでレヴィナスを用いておきます」と述べました。どうしてでしょう? ジラールと言えば、それこそほとんど批評家みたいな物書きです。対して、レヴィナスは、ハイデゲリアンで、哲学の本道を行く人です。どうしてジラールの引用を受けてレヴィナスなのか、いまいちピンときません。原著がフランス語だから? それとも無教養な僕が知らないだけで二人は昵懇の間柄だったから? どうか揚げ足取りだとは思わないで下さい。たぶん、ここが一番肝心なところです。それに勘違いしないでほしいのですが、岡和田さんがでたらめに引用していると疑っているわけでもありません。当然、正当な理由あっての引用だということはわかります。でもそれは誰に向けての引用でしょうか。藤田さんならおわかりになる符丁とか、現代思想の研究者なら当たり前の常識とかなのでしょうか。とすると、責められるべきは、当然の常識を欠いている僕でしょうか。でも僕は、知能においても教養においても、上ではないが下でもないと自負しています。けれどそれだと、Speculative japanの読者のおよそ半分は、なぜレヴィナスが引用されたのか理解できないことになります。いや、たとえ僕の知識が下に属するのだとしても、それで下の部類の読者が置き去りにされていいのでしょうか。だったらこれは、誰のための引用なのでしょう。岡和田さんが知識人を志向し、教養を軸に語っているという藤田さんの指摘も、この点を指していると思うのですが。

 しかし、それよりなおわからないのは、同じ記事のコメント欄での藤田さんと岡和田さんのやり取りです。「トラルファマドール人」というメタファーが、どういう意味でなら適切なのかという問題は、ひとまず措きましょう。でも藤田さんの「ヴォネガット理解は浅薄なものである」と断じた後で、その理由が、藤田さんには小説の「本質的な多声性についての目配せが不足している」からだというのはどうしてなのですか? 小説の本質が多声性であるのなら、岡和田さんの理解も藤田さんの理解も、同じようにみとめられてしかるべきです。岡和田さんにとって、藤田さんの意見を許容できないということは、もちろんあるでしょう。僕にはとてもそうは思えませんが、藤田さんの意見は「ありえない誤読」なのかもしれない。でも、藤田さんがヴォネガットを愛好しているとご存知のはずのそのあなたが、どうして藤田さんの理解を「浅薄」と断じることまでするのですか。立派な批評家になるためにうまずたゆまず努力する、その努力の大切さを誰よりも良くご存知の岡和田さんが、どうして藤田さんのことを「小説の基礎的な構成要素すら見落としている」と非難するのですか。どうか誤解しないで下さい。僕は、倫理的な是非を問うているのでもないし、高潔さを盾にして岡和田さんより優位に立とうとしているのでもありません。ただ聞きたいからです。岡和田さんが藤田さんを批判して、心を貶めることまでするのは、誰のためですか? 藤田さんのため? 岡和田さんのため? それとも、ヴォネガットのためでしょうか。『タイタンの妖女』という作品のためでしょうか。

 僕は単純な人間なので、「ために」が批評の全てを決定すると考えています。作品のために、作品を受け継いで引き渡す。それが理想の批評です。人間の言葉が、水星生物「ハーモニウム」たちのテレパシーのように「ココニイルヨ」と「キミガイテヨカッタ」という応答のための応答の繰り返しでいられたなら、批評もとても簡単でした。でも、人間の言葉はいつでも、「ヨロシク」という最初の一言=点的な存在から外に踏み出てしまいます。本当に伝えることのできるメッセージは、結局それしかないのにです。SFセミナーの部屋で、「批評というものは作品を指差す、その指でしかありえない」と僕が述べたことを覚えておられますか? 翻訳的批評が「作品のために」できること、作品を受け継ぎ引き渡すということは、本来、その指先であることでしかありえません。ところが批評は、点的であることを止めて、言葉で作品を語り出す瞬間に、自分の命と自分の主張を獲得します。「作品のために」が、相反する「批評自身のために」をはらみ始めるのです。

 つまり、翻訳的批評と創作的批評、作品の発見と作品の解釈とは、現実にはどうあっても切り離せません。その点を指して岡和田さんは、僕の話を理念、というか空論とおっしゃいました。きっと、いや、確かにその通りです。しかし批評のつまずきは、そうやって空論や虚偽をあばき立てている自分自身は、空論や虚偽から逃れおおせていると思ってしまうという、まさにその点に尽きます。僕は岡和田さんの批評の内実を語らず、その「位相」だけを論じることで、岡和田さんに「ひどくねじ曲げられている」と思わせることさえしてしまいました。「岡和田さんのため」を、いつのまにか取りこぼしていたのです。ではひるがえって岡和田さんは、仁木先生やヴォネガットの小説について語るとき、本当にそれが作品に真摯だと、「作品のため」だと胸を張って言えますか? 岡和田さんがご自分のことを真摯であると言うとき、その言葉は理念ではなくて、岡和田さん自身の真実に根づいていますか? 岡和田さんは、ざらざらした此岸に足の裏をつけることができていますか?

 僕は、できていません。こうして岡和田さんを批判する文章をしたためている今このときにも、こうして批判することにかけて自分は岡和田さんより優越している、と考える意識を振り払えないでいます。自分は岡和田さんには見えていないものが見えている分、岡和田さんより優れているのだという思いが、何度捨ててもあっという間に舞い戻ってきます。尊重すべきお互いの個性なのに、それをナルシスティックな優劣の判断にすり替えてしまっています。「岡和田さんの批評をより善くする」とのたまった本人が、その言葉を言うことで、岡和田さんに勝ち誇っています。批評の卑しさを糾弾しているはずの僕が、どうしようもなく卑しさの中にいるのです。岡和田さんの批判はまったく正しい。僕の言葉はすべて空論で、絶望的に的外れです。

 ですから岡和田さんが、僕と違って、作品に対して真摯でいられるなら、それは心から誇るべきことです。批評の卑しさ、理念の空疎さから自由で「作品のため」を守りおおせるなら、それは本当に賞賛に値することです。互いの差異を認め、他者を優劣の物差しで計らずにいられることは、聖人の徳です。しかし、もし岡和田さんに、僕の語る事柄にわずかでも心当たりがあるなら、あるいはこれから先、僕と同じ落とし穴にはまってしまいそうな予感があるなら、どうか自分の殻にこもるのを止めて、僕の言葉に少しで良いから耳を傾けて下さい。もし僕に反論があるなら、「誰彼がこう言った」というような突き放した一言ではなく、万人のための平易な言葉で、じっくりしつこいくらい説明して下さい。岡和田さんの言葉を聞きたがっている人は、数で言えば、僕のような無知な人の割合の方が圧倒的に大きいのです。批評とは、所詮、作品を利用することです。だったら「利用してくれてありがとう」と作品に言わせるくらいのものをこそ目指して、精一杯すばらしい批評を書いて下さい。仁木先生を論駁するのではなく、批評作品そのもので鼻を明かして、やはり理論は必要だったと言わせてやって下さい。つくりごとではない本当の他者と、本当のタブーと向き合って、それを受け容れて下さい。そうして、これからの岡和田さんの批評そのもので僕に答えを返して下さい。そして、それが誰のための批評なのか、いつも自分に問いかけて下さい。誰のための批評なのかを忘れないで下さい。今、僕は、自分でも満足にできていないことを岡和田さんにお願いしています。しかし岡和田さんならできると信じています。それにそうすれば、今だって面白い岡和田さんの評論は、もっともっとすごいものになります。保証します。だって岡和田さんには、僕なんて足下にも及ばない学識があるのですから。

 藤田さんとは意見が分かれてしまいますが、岡和田さんが批評家の形象として選んだ「トラルファマドール人」は、批評家にうってつけのイメージとして、僕にはしっくりきます。その一員である「サロ」は、宇宙の端から端へと伝えるメッセージを開封するため、機械としての自分に与えられた命令を克服しました。言わば、自己自身という究極の殻を打ち破りました。しかし岡和田さんが言うのとは違って、サロは、ボスコーンだろうとオーヴァーロードだろうと、何の隔てもなく等しく自分のメッセージを届けるでしょう。「ヨロシク」というたった一つの、くだらなくて、ありふれていて、 でもできるかぎりのメッセージをです。そんな当たり前のことを伝えるためだけに、人は誰でも、あがきにあがいたあげく自分自身を殺すという、涙が出るほど苦しい試練の経験をしなければならないのです。伝達とは、受け継いで届けるとは、そういうものだからです。だからトラルファマドールとは、〈他者〉であるどころか、「われわれみんな」という意味だと作中に書かれています。

敬具

(横道仁志)

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2009年8月24日 (月)

2ちゃんねるはspeculative fictionか?

Filed under: 往復書簡 - 藤田直哉 @ 8:35:11

 お二人のやりとり、興味深く拝見させていただいております。そこで、岡和田さんが「2ちゃんねる」というものを大変低く評価されており、論点の一つともなっているので、僕も拙いながら、考えていることを発表させていただけたらな、と思います。
 いきなりながら、引用から始めさせていただきたいと思います。それは、横道さんと岡和田さんのお二人と同席させていただいたSFセミナーで僕がSF評論という言葉に考えている、「世界がSF化しているのだからSFを語れば世界を語ることになり、世界を語ればSFとなる」という趣旨の発言の基盤になっているお言葉です。
「そしてそれは、当初こそ新興勢力であり絵空事扱いされてきたSFが、いまや良かれ悪しかれ現在世界のそこここへ 「浸透と拡散」を遂げ、ジャンル的にも「変質と解体」を余儀なくされた半世紀に相当する」「では世界全体がSF化してしまったらジャンルSFはいかにその独自性を発揮すべきか、という新たな問題を突きつけているだろう。」
 ご存知巽孝之先生がSF評論賞の募集要項に書かれている、大変熱いメッセージであり、僕はこのような認識の元にSF評論というものにはすごく可能性があり、やっていこうと決めたという部分があります。
このような個人的なことを書いたのも、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、SF評論賞をいただいた後に、僕は「ゼロアカ道場」というところと連動して、2ちゃんねるというものをSF的に考えられないか、という思考をしていました。(その一部は、「非現実の祝祭」として講談社BOXHPで読めます。http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/youyaku/05.html)要するにここで何を僕が考えていたのかというと、かつては「サイバーパンクカウボーイ」としてかっこよく表象されたサイバースペースが、何故現実の日本ではこうなってしまうのか、SFが日常化したときに何が起こっているのか、ということでした。
2ちゃんねる、あるいはネット空間は、サイバーパンクの「本」の外に現れた子孫そのものである。そういう状況自体を分析できなければ僕は「SF」をやる意味はないと思ったのです。「ジャンルSF」の外に出て、「ジャンルSF」をどちらかというと撹乱し境界線を曖昧にすると言う、「SFニズムのハードコア」志向とも言うべき磯部さんなどとは真逆の方向性でした。
この思考をしている最中に、speculative japanの増田さんにお会いして、内宇宙に深く沈殿する過程で無意識的なものと出会う筒井康隆の作品(『脱走と追跡のサンバ』)がスペキュレイティヴ・フィクションなら、言葉遊び的なシニフィアンの戯れとも言うべき運動を繰り返しているこの2ちゃんねるというもの自体が一つのスペキュレイティヴ・フィクションと読めないだろうか、というお話をさせていただきました。この妥当性については、厳密な検討をしていないので保留しますが、アイデアとしてはそこにラインを引けるとSF史・文化史的に面白いかと思っております。
 岡和田さんはこの場所を駆動しているのが「空気」だと仰りました。それはおそらくそうでありましょう。僕の考えでも、2ちゃんねるの人たちは、名無しになってメッセージを投稿することで、集合的な存在と一体化しているような錯覚を得ている。それは極めてユング的な事態だと思っております。2ちゃんねるという抑圧から解放されたサイバースペースに、社会の無意識が、集合的無意識が現れている状況と考えてもいいのではないでしょうか。
 少し話は変わりますが、巽孝之先生が『1Q84』をスペキュレイティヴ・フィクションだと仰ったと伺いました。春樹作品は、ユング的な意匠を多く使い、集合的無意識のようなものを日本の「空気」と重ね合わせて、無意識的な「日本」の全体性を描くのが非常に巧みな作家だと思っております(それに対する批判が数多いのも知っております)。近作の「リトル・ピープル」は、大文字の監視主体「ビッグ・ブラザー」のもじりですが、個人で監視カメラを仕掛けたりする我々であると同時に、ネット上で他人のブログを炎上させたり過剰な正義感で人を攻撃している「2ちゃんねらー」そのもの寓意のようにも読めてしまいます。この作品に寓意として「空気さなぎ」が入っていると言うのもうなづけるものです。「空気」として駆動する「2ちゃんねらー」たちは、それはそれで社会の無意識を表現してしまっていると思うのです。
 僕は、この2ちゃんねるはサイバーパンクであり、スペキュレイティヴ・フィクションであると思います。しかし、かつてのように天才たちが描き、小説として素晴らしい像に描かれたような形ではなく実現してしまった、ユートピアがディストピアとして実現するような類の、無残なサイバーパンクやスペキュレイティヴ・フィクションのパロディのようですらあります。しかし、「世界がSF化した」のであれば、我々はこれをSFとして受け取らなくてはいけない。現実化したSFがこんなにも無残で失望に満ちたものであるというところからはじめないと、僕はいけないと思っておりました。その「かつての希望」としての未来が現実化した無残さへの失望感を見据えた上で克服しなければ、「未来」が回復しないと思ったからです。あるいは、こういう失望的で無残な現実と格闘することなしには、真にアクチュアルな思考はできないと考えたからです。
 「知識人」として、彼らのダメさを嫌悪し、距離を置き、啓蒙にいそしむのも構わないと思いますが、多分、この「日本人」のダメさというのは、何も2ちゃんねらー特有のものではなく、古くは丸山真男が『日本の思想』で指摘していたような、論理性や市民的主体として自立していない、日本的思想の急所そのものなのであり、可視化されたに過ぎないのではないかと考えています。
 僕はその体質を肯定するわけではないし、ろくでもないことをしているなぁ、とか、ばかだなぁ、とか、ひどいなぁ、とか、思ったりもする。一方で、単に「空気」と切り捨てるわけにはいかないある批評性を「2ちゃんねる」自体が持っていることも事実である。この場所と向き合うことなく、SFや、「未来」や、思想や、批評や、言語や、運動は、ありうるのか、僕は自問しております。その答えは未だに出ておりません。良くも悪くも、我々はこのような世界に巻き込まれてしまっている。僕はその現実から目を逸らすことなく、何かを変えるか肯定するかはわかりませんが、やっていくしかないと思っています。
 お二人のやりとりに割り込む形で、自分も自分自身のSF批評への思いを自己吐露しすぎてしまったようです。これは僕のデビューさせていただいた作品の急所ですが、素朴な抵抗もまたシステムに組み込まれる世界での抵抗はいかに可能なのか、という問いかけを、今でも僕は自分に科していて、例えば岡和田さんのように大上段に切るのではなく、ラリィ・マキャフリィが示唆するように「添い寝して刺す」を超える技はないかと日々考えております。
 批評が適切に機能するためにはつらい時代かもしれませんが、「知識人」や「教養」の権威が低下してしまった現代において、それでも何かを伝え、何かを変えたいのであれば、新しい戦略を採る必要もあるのではないのかと僕は思います。
 拙い考えなのかもしれませんが、今のところ、僕はそう考えております。

 お邪魔いたしました。失礼いたします。

2009/08/24 (月) 岡和田さんと藤田さんへの返答

Filed under: 往復書簡 - 横道仁志 @ 16:42:35

拝復
岡和田様 そして藤田様
 お二人が作成された記事を読ませていただきました。
 何と言うか、あさっての方向からの、奇襲的な意見をまともにお取り上げいただいてありがたく存じます。
 岡和田さんが独立したエントリを設けて下さったこともありますし、せっかく藤田さんにもご反応いただいたことですので、もう一度、岡和田さんのいくつかの論点に沿うかたちで、自分なりの意見をお返ししたいと思います。それが、ひるがえって藤田さんへのご返答にもなるのではないでしょうか。

《批評家は自分の卑しさを理解して仕事をしているかどうか》

 まず、岡和田さんが、批評家が自分の弱点を弁えながら仕事をするのは当たり前だとおっしゃったことに対して、考えてみます。正直に申し上げれば、これはあくまでも個人の胸の内の問題なので、外から口出しできることではありません。それに、別に僕も特定の誰かを責めているわけではなく、あくまでも自分自身の個人的な性向と経験から来る発言とお考えください。
 ただ一つ気になったのは、岡和田さんが、SF小説が卑しい(と一般に言われている)ことと、その批評が卑しいということとを同じ一つのものと捉えているように見える点です。SFが卑しい云々といった言い回しを、いまだに誰かが口にしているのかどうか、僕は時勢にうといのでよくわからないのですが、そういうことが今も言われているとしても、それと批評の卑しさとは、言葉が表面で一致しているだけで、その内実はまったく別ものだと言わなければいけません。

 SF作品が卑しいという場合、それは、SFという創作活動がタブーに踏み込んでいることへの拒否反応ととらえるべきです。あるいは、「タブー」という言葉が言いすぎでも、少なくとも社会的な良識をゆるがせにするだけの要素をもっていることに対して、周囲から攻撃的な反応が返ってきているのだと考えるべきです。
 ただしこれは、SFが社会とか科学とかに実効的な影響力を及ぼすかどうかとは、実は関係ありません。むしろ、良い年こいた大人が宇宙船とかロボットとかの空想に夢中になる、その奇天烈な行動自体が、良識ある人たちの眉をひそめさせる理由になるということです。でも、そもそもそういう逸脱の環境とか素地とかがなければ、何か本当に面白いものだって生まれるはずもありません。SFが卑しいと言われるかぎり、SFは安泰です。もしSFが子供じみたもの、馬鹿げたものじゃなくなってしまうなら、それこそ読むに値しませんよ。

 批評が卑しいという場合、これとは正反対のことを意味しています。批評が卑しいというのは、作家が許されることと許されないことの境界線で、ギリギリの苦闘に身を晒しているのを尻目にかけて、批評家が安全圏でぬくぬくとしていることを指します。
 はっきり言いまして、批評家の収入は、ほとんど不労収入みたいなものです。作家が、誰も踏み込んだことのない領域を、おのれの腕一本でかき分けていくのに対して、批評家は作品にすでに書かれていることを引き写して、有名な思想家の言葉でちょちょいとスパイスを利かせればそれで事足りるのですから、楽なものです。それでなくとも、批評家自身が、前人未到の世界に乗り込んで、社会的に抹殺される危険を冒したという話は、寡聞にして聞いたことがありません。
 もし批評家が自分の卑しさを自覚しているというのなら、お金をもらわず、ただで仕事を引き受ければよろしい。でも誰もそんなことをする気はないし、僕だってそんなつもりはありません。だから、批評家はどうしようもなく卑しいというのです。 ※

《批評理論が特権的な読みを打ち立てて、それが主流となることがはたして危険なのかどうか》
 先に確認になりますが、岡和田さんは、この問題を否定して、ふたつの根拠を提出されました。
 理由一「現代では、何か特権的な理念という考え方自体、誰も受け入れはしない。たとえ、そういう理念が打ち立てられようとしても、すぐさま横やりが入るものだ。批評だって同様なのだから、特権的な読みなんて成立しない」
 理由二「自由な読みの場というものは実は幻想で、そこには個人や少数派を飲み込んでしまう曖昧模糊とした流れや圧力のようなものが存在する。しかもこの水は、事柄の本性からして、低きに流れる傾きがある」
 この理由二から続く帰結ということで、岡和田さんは、匿名の圧力に対する対抗策として、批評理論が啓蒙の役目を果たすべきだとご主張になりました。ここで岡和田さんの批評観を整理要約すると、次のようなものになると思います。
「批評理論は、個人的な価値観が消されてしまいかねない匿名の空間に、自分の名において新しい価値観を刻み込むべきだ。しかしそれが理論の専横を招く危険はない。なぜなら、そもそも絶対的な価値観など、このご時世に成立するはずがないからだ」。
 ここから先では、岡和田さんの意見を上記のように僕が理解したという前提で話を進めます。

 まず、2ちゃんねるは、個々人の意見が自由な場所などではなく、むしろ実体のつかまえられない雰囲気に個人が押し流されてしまう空間ではないかとのご指摘ですが、まさにその通りです。しかし、もっと正確に言えば、両方あるというのが一番事実に近いでしょう。僕が先の記事で2ちゃんねるに言及したのは、それがリスクを負わない場だということを念頭に置いていたからです。
 誰も、リスクがなければ他人の意見を真面目には聞きませんし、他人の意見を聞かないならば、自分と他人の意見を比較考量するということもありません。そして、彼我の意見が比較考量されないならば、批評意識、つまりテクストの受け止め方には、基本的に優劣も善悪も、存在などしません。先の記事で、批評意識と批評理論の混同はよくないと指摘したのもそのためです。

 岡和田さんは、2ちゃんで書かれる内容なんて大抵くだらないとおっしゃられました。それはそうなんですが、そのとき下る下らないの基準になっているのは、岡和田さんご自身です。ひるがえって、岡和田さんの意見が2ちゃん内で誰かから攻撃されたとして、その誰かにとって正誤や善悪の基準というのは、その人自身以外にありません。ですから、2ちゃんねるでの攻防というのは、水掛け論にしかなりようがないんです。お互い、自分の言いたいことしか言わなくて、しかも自分の意見を客観的に裏付けるものがないのだから当たり前です。逆に言えば、論争がそういう個々人の応酬にとどまるかぎりは、本当は、意見に優劣などあるはずがありません。

 批評を理論にするということは、この意見のせめぎ合いの中で、第三者的な基準を確保するということです。自分の意見を「客観的」なレベルにまで押し上げるのであれ、あるいは出来合いの理論を他から借りて来るのであれ、とにかく、公共的な基準というものが存在して、かつ自分の意見がそれに適合していることを示せれば、それでようやく相手の論駁がなります。そうしてはじめて、彼我の意見の対立について、善悪や優劣のジャッジが成立すると言えるのです。

 しかしひるがえって、理論に先立つ段階、すなわち個人が他人の意見に好意を感じ、あるいは嫌悪を感じるにとどまる段階では、独立した個々人の自由のようなものが常に保たれているかと言えば、そうとは言えなくなる状況というものが存在します。それが、岡和田さんの指摘された「曖昧模糊な空気」というやつです。
 ただし、そういう個人を圧殺する匿名的な流れの圧力というのは、思考としての質が低劣だから生まれるわけではありません。それに、岡和田さんの主体性が失われるのも、スレッドに書き込みをした瞬間なのではありません。

 自分の意見が他人より優れていると思ってしまうとき、すでに「空気」の種は芽吹いています。人が他人の意見に嫌悪や軽蔑を感じるとき、その意見を矯正したいと思うとき、その人はもうすでに主体的であるどころか、逆にもっとも非主体的で匿名的な力に押し流されています。
 なぜかと言うと、人が他人の思考なり行動なりを低劣とみなして嫌悪を感じるということは、つまりは、他人に成り代わって、今は他人が占めているその位置を自分自身が占領したいと欲することに他ならないからです。つまりそれは、他人をモデルにして真似しようとする欲望、というか現に真似している欲望なのです。
 しかも彼は、他人に由来する自分の欲望を実現するのに、まさにその他人が邪魔なものだから、これを排除することまで欲します。それが、他人を見下す感情とか敵意とかいったものの本性であり、ひるがえって、自分を正しいと思い、善と思う気持ちの本性です。

 上の説明は、ルネ・ジラールという人の理論を拝借したものです。興味があれば、ご参照ください。でも今はもう少しだけ、僕たち自身の話題に即してこの議論を進めてみましょう。
 欲望とか嫌悪といった感情が、つねにこういう仕組みで動かされる、というわけではないかもしれません。しかし、少なくとも「批評」が繰り広げられる舞台にかぎって言えば、これはもう、絶対的に通用して、いかなる水漏れの余地もない原理だということだけは断言します。
 つまるところ、批評理論とは、固有名が不在の空間に特定の固有名の価値を取り戻すどころか、逆に、もっとも匿名的で凡庸きわまりない欲望に突き動かされているのです。
 他人を裁定したいという欲望は、他人の模倣と表裏をなしています。ということは、この欲望は、模倣に模倣が繰り返されて、いずれ雪だるま式に膨れ上がっていく傾動を秘めています。そうすれば、やがて全員が全員を模倣するという非人称的な欲望の全体傾向が生まれるでしょう。これが、岡和田さんの言う「空気」、藤田さんの言う「集合的無意識」の正体です(これは、とくに日本的なものでもなければ、未来的なものでもなく、反対にきわめて原始的で、人類に普遍的な原理だということも申し添えておきます)。
 この欲望の全体傾向は、欲望の模倣原理から醸成されたからには、必ずきっかけとなる最初の模倣があったはずですし、模倣の対象となる最初のモデルがいたはずです。この最初のきっかけというのは、事後的にとらまえようとするなら、大抵は集団性の陰に隠れて見えなくなってしまっていて、どうあっても正体を突き止めるのは困難でしょう。
 しかし反対に、批評理論というのは、いつでも「最初の石」になりうる危険を秘めているし、事実「最初の石」たらんことを欲して書かれるものなのです。 ※

 批評理論の危うさというものがおわかりいただけたでしょうか?
 批評とは、どんなに小綺麗に取り繕おうが、所詮は個人の資質からはじまって個人の資質に終わるものである以上、特定の批評が主導権を握るということは、特定の個人が主導権を握るということです。しかし、その特定の個人の意志というのは、結局のところ、その発生からして独創的でもなければ啓蒙的でもなく、反対にひたすら陳腐で原始的だと申し上げざるを得ません。ましてや、作品に忠実であろうなどとは、期待すべくもありません。
 ついでに言えば、これは歴史を学ぶことで予防できるといった類いのものでもありません。そもそも、何らかの問題というのはいつでも、その時その場所その状況で起こるものだから、歴史の知識がその解決にどれだけ寄与できるのかも疑問ですが、それ以上に、模倣的欲望というのは、僕たちがいつでもリアルタイムに巻き込まれていて、はなから脱出不可能な現象だからです。
 たとえるなら、商品について論じたマルクスの理論が商品として流通するという皮肉に似ていて、模倣的欲望とは、僕たちがつかの間逃れでたと思えることがあったとしても、間髪入れずふたたび飲み込まれてしまうような態のものなのです。

 シンプルな仮定をしましょう。岡和田さんが、仁木先生の小説についてすばらしい評論を著して、それが大いに話題になったとします。2ちゃんのSF板の仁木稔スレッドでも、岡和田さんの理論が、人々の口の端にのぼるでしょう。
 でもそのとき、彼らが語りあっているのは、あくまで岡和田さんの評論です。肝心の仁木先生の小説は、もうそのときには、忘れられてしまっています。彼ら自身は、仁木先生の小説を見ていると思い込んでいるかもしれません。でも実は何も見ていないのです。なぜなら、批評理論とは、「作品と読者の関係」を開放するものではなくて、むしろ「読者と読者の関係」を是非や優劣で切り分けることで、ひるがえって「作品と読者の関係」を閉ざすものに他ならないのですから。
 なるほど、この時世ですから、絶対的に遵奉される理念などどこにもないし、選択の自由が常に保証されているかもしれません。しかしその陰で、絶対的に忘れ去られてしまうものというのがあるのです。それも、ごく身近に。

 批評がマッチメイクだということは、作品に対して真摯な態度を保てる批評理論など、どこにも存在しないということです。
 批評理論とは、ありていに言えば、商品です。批評家が出版社からお金をいただいて、しかるべき社会常識とルールを守って書かないといけない提灯記事のことです。しかも、批評家になしうるかぎりの最上の営業的成功というのが、作品からアイデアをかすめ取って、さも自分の発見であるかのように吹聴することだというのに――批評「理論」というのは、批評家の独創であることを強調するものですから――それがどうすれば作品に対して真摯だということになりうるのか、僕にはいまいちよくわかりません。

 作品に対して真摯でいられるのは、あくまでもひとりひとりの読者です。この意味でも、プロの批評作品と読者の環境は峻別しないといけないでしょう。それができないとき、置いてきぼりにされてしまうのは、他でもない当の作品です。
 だから、無条件に優れていて感銘を受けるべきだと信ずべきSF小説という考え方も、耳心地は良くても虚像です。存在しているのはただ、愛すべきSF小説たちです。無条件に肯定すべきなのは読者と作品のひとつひとつの「出会い」であって、その外部に客観的に立証できる価値などないし、またそんな価値を引っ張って来る必要もありません。
 もし、こういったことどもを全て考えあわせた上で、なお批評理論が作品のために役立ちうる可能性が残っているとすれば、その批評理論というのは、他の批評理論を道連れにして自爆するような類いのものという以外に、考えられません。批評理論というのは、最終的に、自分自身の存在を否定して捨て去ってしまうような地点にまで行き着かないと駄目なのです。
 もしそれが自力で達成できるようなことでないとすれば、あとは、他人の手助けを借りるという手段しか残されていないでしょう。すなわち、批評家という悪者を、みせしめとして、よってたかって徹底的に叩き潰してもらうのです。そうすれば、批評という悪の否定を通じて、あらためて作品という善への道が通じるということだって、全然ないともかぎりません。
 ですから、批評家が、自分は嘘つきの道化師だと自覚するのは、方法論の選択でも努力目標でもなくて、最低限度弁えておかないといけない本当にギリギリの節度なのです。

敬具

追伸:藤田さんへ どうにもタイミングが良すぎて、本来なら必要なかったはずなのに、過分のお気遣いをいただいたようで大変申し訳なく存じます。前回の評論も、よろしければまたご投稿下さい。 (横道仁志)

コメント (7)

コメント 1

どうもはじめまして。たまに書評を掲載いただいている渡邊と申します。私は基本は軟弱な小説を書いている一介の素人に過ぎないのですが、「批評は卑しい」というのはずいぶんな極論で驚かずにはいられません。そしてその理由とされるのが、批評の書き手のほとんど精神分析的な「意識」の問題であれば尚更で、そういう「卑しさ」であれば、小説の書き手であってもまた書き手ではない編集者のような存在にあっても、わりとありがちな陥穽と言っていいんじゃないかと思います。あらゆる言語活動はファシスト的なものだ、という言葉もありました。
簡潔に言って、批評というのは、作品を分析し、その構造を記述し、文脈を仮構してその作品がどのような意味や意義を持つのか、あるいは持たないのかを判断するものだとまとめることができると思います。それが可能であるとされるのは、作品が、芸術作品である以上なんらかの技芸(技術)によって作られており、ゆえに、その構造及び効果を、技術についての一般的考察(理論)によって分析判断可能であると考えられるからです。個々の批評について述べられるべきは、その論理的な妥当性であって、批評家の思惑を「深読み」する必要はないと思います。また、理論というものが基本的には技術に関するものである以上、それに優劣がともなうのは当然の話だと思います。端的に、テクニシャンとへたっぴいの差異は、そりゃあるに決ってるじゃないか、と。というか、ごく素朴に考えて、芸術の受容はそれ自体ある特殊な技術ですよ。スタンダールだったと思いますが、絵は見るものだが、見方は学ばねばならない、と言っているわけで、それはべつに何か高邁な精神の問題ではなく、もっとプロブレマティックな技術の問題だと思います。そして、理想を言うのなら、あらゆる芸術家は、みずからの作品を一般的な言語で分析可能な批評家であるべきだし、批評家は、批評のみならず新しい作品を作るべきです。とくに文学は作家も批評家も同じ言葉を用いるものなので、音楽や絵画に比べれば、はるかに、理屈がわかっていれば書けるはずです。
少々脱線しましたが、以上のようなわけで、若い批評家のみなさんが、みずからをことさらに「卑しい」と考えるのは不健全ではないかと思ったのでコメントいたしました。文脈を飲み込んでいない余計なコメントだったとしたらすいません。今後ともみなさんの御健筆を期待しております。

コメント by 渡邊利道 - 2009/8/24 月曜日 @ 23:09:16

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渡邊利道様

はじめまして。横道仁志と申します。僕の記事にコメントを下さりありがとうございます。渡邊様の疑問は当然のことだと思うので、回答させていただきます。

まず峻別すべきラインをはっきりさせましょう。作品と読者の関係(=批評意識)と、作品と批評の関係(=批評理論)です。前者は、いわずもがな、僕たちひとりひとりがテクストと取り結ぶ内密な関係です。後者の関係、つまり作品と批評の関係というのは、実は、三項関係です。すなわち、批評理論というのは、批評→作品→読者といった具合に、作品の解明を通じて、作品の読者に影響を及ぼすことまで射程に入れています。

つまり、作品批評というのは、それが商業媒体などに載せられる時点で、すでに作品との直接的な関係を抜け出て、作品と読者の関係を操作することを目的としています。まあ当たり前ですね。むしろ問題なのは、この批評による操作というのが、作品と読者の内密な関係にどういう影響を及ぼすか、という点にかかっています。

本文で申し述べました通り、作品と読者の関係というのは、一対一の関係であって、本来そこに「他人がその作品についてどう考えているか」という意識は入ってこないものです。また、意識がこの段階にとどまるかぎりは、比較対象がないのだから、作品の読みがテクニシャンかへたっぴいかということは厳密には言えません。読者になし得るのは、ただ、自分自身と引き比べて自分の読みをより一層深めていくということだけです。そのためには、作品を何遍も何遍も読み直さないといけませんし、その前提として、読者と作品の関係が自由に開かれている必要があります。

ですから、理想的な批評というものは、硬直しがちな作品の見方に新しい視点を提供することで、読者を作品との新しい自由な関係に導き入れることでしょう。ところが、批評の難しいところというのは、そうして提供した新しい視点がドグマと化して、逆に、読者と作品の関係を固定化してしまいかねない点にあります。しかも、このことは、批評が読者と作品の関係を操作するものであることからくる、克服不能の内在的な弱点です。こういう事情からすれば、実は、「上手な批評」、「感動的な批評」の方が、作品鑑賞の自由に対して大きな脅威となりかねないのです。

そこから、批評がとるべき手段は、二通りが考えられます。

一、「批評が、自己自身のうちに自己否定的な契機を含んでいる」
二、「批評が、外部の要因(たとえば作者自身のコメント)を通じて否定される」

このいずれにおいても重要なのは、批評の否定を通じて、読者と作品の関係が解釈の運動へとゆだねられる点に尽きます。つまり、批評は、事柄の本性からして、成功するために失敗しなければならないというねじくれた状況下に置かれているのです。この点を踏まえて、僕は、批評家は自分が卑しいことを自覚せねばならないと言いました。しかしそれは、けして批評が不必要ということまで意味しません。

ついでに補足しますと、批評がたとえば、作者本人から否定されるとして、それで批評の価値が全否定されるというわけでもありません。作品の作者というのは作品そのものの中にしかいません。作品外部の作者というのは、ある程度信憑性の高い読者というだけに過ぎないのです。あくまでも大切なのは、批評が否定を被るという、その否定そのもののはたらきです。その意味では、作品の作者が作品の批評家である必要は、全然ないのです。

以上、お答えになりましたでしょうか。これからもよろしくお願いいたします。

コメント by 横道仁志 - 2009/8/25 火曜日 @ 0:04:07

コメント 3

横道弘志様。

ご回答ありがとうございます。私は批評家ではない、たまに本の感想をブログなどに書くいまどきの普通の読者のはしくれだと思うのですが、そういう人間から見ると、横道さんの提示される「読者像」にはやや違和感があります。
まず、読者と作品は本来一対一の自由な関係でなければいけない、というご意見ですが、その「本来性」は、むしろひとつの「理想状態」として目指されるべきものであり、具体的にはかなり高度な読書技術によってしか為され得ないのではないかと思います。たとえば最近村上春樹さんの新作小説が大ベストセラーになりましたが、あの作品があれほどの措くの読者を獲得したのは、おそらくは先日のイスラエル賞をめぐる報道や、その国際的な評価の高さ、といったものが影響しているはずです。また、ある種の古典、たとえばフローベールの作品を読む時に、人によってさまざまに水準は異なるでしょうが、まだその作品を一つとして読んでいなくとも、近代リアリズムの嚆矢、第二帝政、ブルジョワを憎むクロワッセの隠者、といったイメージがあらかじめその「読書」を規定する、といったことは、容易に想像されうる、というかほぼ日常的に誰もがそういう「他者(の言葉)」の媒介を受けてすべての作品を受容しているはずです。作品に関する予備知識はなくとも、ジャンルであったり(たとえばミステリーであれば人が死んでもあまり驚かないでしょうし、SFであれば宇宙人が出て来ても驚かないというような)、出版社であったり(岩波文庫と電撃文庫では違う作品が期待される)、作者の国籍であったり(西欧文学やモダニズム以降の世界文学を読む人と漢籍やイスラーム文学を読むのはおそらく違う期待があると思います)、作品を読む、ということは、作品以外の、それに関連する様々な情報を同時に読むことになるわけで、その情報をいかに整理し、まるでそれらが「ない」かのように振る舞うというのは、それ自体非常に意識的な「操作」の結果としてしか可能にならないと思います。それは私自身、つねに「良い読者」であろうと考え、あらゆることを考慮に入れ、同時にまたそれをリセットして作品それ自体を純粋に自律したものと仮構して読む、などの操作を施して何度も読み返す、と言う行為を実際に繰り返し行っているので、まず間違いない前提だと思います。そのような「読者」としての立場からいうと、批評作品というのは、そのような「媒介」の一つに過ぎません。もちろん、よくできた批評から大きな影響を受ける、というのは確かにありますが、それでその読者がその批評のいわば「答えあわせ」のようにしか作品を読めなくなったとしたら、それは、単にその人にとって本質的だったのはその作品ではなく批評の方だった、というだけのことです。作品を愛するものとしてはそれは非常に残念なことかもしれないですし、その作品に対してその人は「良き読者」ではなかったのだとは思いますが、こう言っては何ですが、人生の問題として、ある人がある作品に対して「良き読者」足りえなかったとして、それは、それほど深刻な問題だろうか、と思わざるを得ません。そして、批評家が大きな影響力を持ち、読者がその重力に引きつけられて、自由な読み方ができなくなった、とするなら、それは批評家の問題ではなく、読者の問題(読者自身がみずからの必要と思考によって影響から脱するべきもの)ですし、批評家としてそのような状況を打破したいのなら、それは批評家の態度(意識)を問題にするのではなく、個々の批評を検討し、その影響力を断ち切る批評を書くべきではないでしょうか。もちろん、みずからの影響を考慮して、批評に自己否定的な契機を入れ、読者と作品の関係を自由な解釈の運動へと誘おうというのは、それはそれでわからないではありませんが、しかし、単純にそれもまたひとつの「操作」であって、それが自由な解釈の運動へ行き着くのではなく、単に読書の恣意的な放恣にしか寄与しない、という可能性もあるでしょう。「読書」というのはおそらくは本質的にもっと面倒くさく不自由なものだと思います。「自由になれ」という、命令は、それに従えば自由じゃないじゃないか、といううジレンマを含んでいる、という話を想起しました。
あと、作者は作品の内部にしかいない、というのはやっぱり素朴に変じゃないでしょうか。作品の内部にいるのは、テクスト論的には「(非人称の)語り手」で、作者というのは、むしろ「作品」というものを社会的に構成する要素であって、フィクションとは異質の、いわゆる「現実」の存在であって、だからまあ著作権とかを行使することが可能なわけです。一般に読者が作品を受容する時に、読者は作品のみならず作品の外部も参照して読解していくわけで、作者もその参照項の一つですね。そして、読者の読み方には、たとえば作者の意図を忖度して読む、というやり方もあって、そのときには、作者がその作品について語っているメタテキストなどは非常に重要なものになるはずです。文学の基礎研究に作者の生活史の実証的研究(何年の何月に何処に行って何をしたかなどの基本的には歴史学のディシプリンに基づく研究)があるのはそのためでしょう。
私が作品の作者が批評家であるのが理想と考えるのは、そうすれば作品が理論に還元可能になって、その理論をきちんと学べば誰でも作品を作るようになることができる、というような民主的な状態を夢想するからです。きちんと数値化とかできるようになればコンピュータだって芸術できるようになるわけで、そういう未来はSF者にはやっぱり魅力的なんじゃないかと思います。
以上、本好きの一読者の素朴な意見としてお読み下さればありがたいです。

コメント by 渡邊利道 - 2009/8/25 火曜日 @ 10:57:11

すいません、名前を間違ってました。
横道仁志様ですね。大変失礼いたしました。

コメント by 渡邊利道 - 2009/8/25 火曜日 @ 10:59:35

コメント 5

渡邊利道様

お返事ありがとうございます。

まず、話の前提について渡邊様と僕との間にズレがあったことに気づかないままでいたことで、議論を錯綜させてしまったことをお詫び申し上げます。
渡邊様のおっしゃられる通り、僕の記事は、ひとつの理想状態についての話であり、現実問題についての目配りが欠けているというご指摘は、まったくその通りです。そもそも、僕の記事は、岡和田さんの批評スタンスそのものへの疑問という、メタな立ち位置から出発したものなので、議論もそこのところを引き継いでいるという点を、しっかり説明すべきでした。

それに、読者が現実に置かれている読書環境というのも、渡邊様のおっしゃられる通りで、ほぼ間違いないと思います。僕だって無限にお金を持っているわけではありませんから、前評判や信頼度で購入する書籍を選別しますし、古典にあたるときには社会背景などの解説書は手許に置くようにしています。外国語の文献を読むときには辞書は欠かせませんしね。
それに、そういった前提となる情報を踏まえた上で、読書にあたって、頭を悩ませて、情報を取捨選別する苦闘の中で、はじめてテクストの理解というのは形成されてくるものですし、本の読み方にそれ以外の方法なんてないでしょう。

しかし、批評家が自分のあるべき態度というものを考えるときには、話はこのかぎりではありません。批評家は、少なくとも、作品に対して真面目であろうとするなら、作品に対して尽くすべき義務を守らないといけません。渡邊様のおっしゃる通り、ある人がある作品に対して良き読者足りえなかったとして、常識的に見れば、そんなことは何ら取るに足りないことであって、大騒ぎするような問題ではないでしょう。ただし、作品に忠実であろうとする批評家にとっては、そこが絶対にゆずれない死線だということです。しかも、自分の批評が、作品と読者の関係に悪影響を「及ぼしうる」のであれば、いくら警戒しても警戒し過ぎるということはないのではないでしょうか。僕の話というのは、つまりは、この点について述べているのです。

実際問題として、批評家がどれほど理想的な批評を書けたとしても、その批評作品自体が読者の読みにゆだねられるのですから、完全に状況をコントロールするなどはなから不可能です。だからと言って、批評家になしうることは皆無かと言えばそういうわけでもないのであって、外部の偶然的要素を切り捨てた上でなお残る、自分自身の本質という土俵上で、できるかぎり努力すべきではないかと考えます。ですから「尽くしうるベスト」という言い方をしました。

それから、自己否定を繰り込んだ批評自体が一個の操作で、しかも放埒な解釈を招きかねないのではないかというご指摘がありました。正直に言えば、僕自身は、解釈が個人の内面にとどまっているかぎりは、いくら放埒な読みをしても構わないのではないかと思っています。しかしそれはそれとして、本当に理想的な批評作品というものを仮定することが許されるなら。その批評は、放埒どころか、自由でありながらも唯一無二という、比類なき作品解釈へと読者を誘うはずだと考えます。
おそらく、渡邊様ならご経験されたことはおありかと思いますが、本と向かい合っていると、いつしか、自分と作品とがもはや区別できない瞬間が訪れるということがあります。そのときには、読者自身と作品自体がすぐれてひとつのコトバとなるので、もはやその外に余計な言葉を一切必要としません。作者の意図だろうが、社会的背景だろうが、作品の外部の情報も、作品内部の言葉も、すべて渾然一体となって消えてしまいます。先の返答で僕が述べた「作品内部の作者」というのも、だいたいこういう意味でご理解ください。この体験は、はじめて作品を読んだときに起きることもあれば、作品を何度も繰り返して読むうちに、突然起きることもあります。この意味で、真の批評意識というのは、外部から操作して実現できるようなものではありません。これを前にしては、高度な読書技術でさえも、偶然的な付加物に過ぎないのです。
では、理想的な批評作品がどうして、そのような体験の入り口になりうるのか? それは、その批評作品が自由を命令するのではなく、自己自身で自由を体現しているからです。はたしてそのようなことが可能なのかどうか? きわめて難しいでしょう。しかしおそらく、自己否定的な契機を含むことで、批評は、少なくともその実現可能性のとっかかりくらいを手にすることはできると思います。しかし、それ以上に良いことは、批評作品と読者が共同して、作品という最初で最後の壁に立ち向かうことです。しかし、その共同作業というのは、批評と読者のたたかいであるより他にないのです。

最後になりますが、現時点で、批評家が芸術家になることがあるとすれば、それはやはり、上に述べたような、作品の魂をくぐり抜けるような経験をするより他ないと思います。しかし、それは、創作技法を数値化するという発想とは、真逆の考え方でしょう。
もちろん、芸術という概念自体、絶えず変化をつづけるものですし、コンピューターが芸術を創造するというイメージには非常に胸をワクワクさせてくれるものがあります。それが実現した暁には、それこそ、作品と批評、芸術と自然は完全に一致して、もはや見分けがつかなくなるのではないでしょうか。

コメント by 横道仁志 - 2009/8/25 火曜日 @ 20:50:29

コメント 6

横道仁志様
ごく素朴な読者の疑問に真摯にお答え下さってどうもありがとうございます。批評家の、ほとんど極限的な限界状況を設定した上での思考実験によって、批評の理念を錬磨していくコアな言葉を聞かせていただいたようで、とても興味深く、考えさせられるところが多かったです。その理念が、どういうふうに具体的な批評作品に結実していくか、刮目して待っておりますので、どうか今後ともどんどん新しい論考を読ませて下さい。楽しみにしています。
蛇足ですが、岡和田さんの時代に楔を打ち込もうとするかのような姿勢も、また藤田さんの、時代の可能性をめいいっぱい押し広げよう見極めようとするかのような姿勢も、これまでのお二方の批評の読者としてとても興味深いものだと期待しておりますので、侃々諤々の議論もよいですが、今後とも新しい批評作品を読ませていただくのを楽しみにしております。
読者は批評家に新たな作品へと誘惑されるのをいつもどこかで待っているのです。

コメント by 渡邊利道 - 2009/8/25 火曜日 @ 22:30:16

コメント 7

こちらこそ、記事を丁寧にお読みいただいて、本当にありがとうございました。
この記事は、本来なら、岡和田さんと個人的にメールででもやり取りすべき内容でしたが、いずれSpeculative japanにきちんとした評論を投稿できればと思っています。

コメント by 横道仁志 - 2009/8/26 水曜日 @ 1:49:07

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