評論

2010年4月24日 (土)

「私にとって評論とは何か」を考えてみました

Filed under: 評論 - 増田まもる @ 0:54:14

*宮野由梨香さんが昨年の9月27日に投稿された評論が消えていましたので、管理人が再投稿させていただきます。

宮野由梨香です。

私は今まであまり「評論とは何か」ということについて、深くつきつめて考えたことがありませんでした。今回、皆さんのやりとりに触発されて考えた結果、次のことを「発見」しました。

「私にとって「評論」と「生け花」は同じものだったんだ!」

 どのように「同じ」なのかを申し上げておきましょう。

 生け花は、切るという美的否定、自然そのままでなく、根から切り離された、もはや自然そのものとはいえない植物を素材に、生けるという行為によって、自然の生命の表現を高め、新しい自然の形成をなしとげようとするものです。……中略……自然の心―その本質を生かしとどめて、自然本来の造形を完成する姿勢、もし桜が物言うなら「私こそ桜」と微笑するほどに、桜の生命と融合することによって歌い上げる桜の自己表現のうた……自然の心の歌でありたいのです。(安達曈子「花芸への道」(講談社)18頁)

「評論」は「作品」という「自然」にとっての「生け花」なのだと、私は今まで自覚することなく考えていたようです。

 私は高校生の時に「花芸 安達流」の作品に接して、ひどく心に魅かれるものを感じ、それまで属していた流派を辞めて、そちらに移りました。入門に際してまず誓わされたのが「花を切る時はゴメンナサイと言うこと」でした。

 そう、作品を「引用」する時の心の痛みは、花を切る時の心の痛みに似ています。それが生きている全体性の中から切り離して無理やりに自分の支配下に置こうというのですから、とんでもない陵辱です。しかも、自分がいかに「下手」かは自覚しています。それなのに、なぜやるのかと問われたら「ごめんなさい」と謝るしかないです。 その上で「そういう衝動にかられてしまったから、そして、その衝動を否定することは、生きながら死ぬのを認めることで、それは今まで私を生かしてくれた生命たちに対する裏切り行為だから、私にはできません。許して下さい」と言うしかないです。 そして、せめて少しは「上手」になるように、日々心がけていくしかないですね。

  私は、19歳の時(1980年)、大学の学園祭での「講演」を通じて光瀬先生にお会いしました。2度とお会いする機会などないだろうと思った私は、それまで疑問に感じていたことを、いろいろとお尋ねしました。 まともなお返事は全く戴けませんでした。

「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」の中にある経典の話の出典ですか? 今、ちょっと思い出せないけれど、ちゃんとありますよ。経典はたくさんあるんですから、どんな話でもあるものなんですよ」

「転輪王と天輪王は違うのかって? 字が違うんですから、当然でしょう。あなた、同音異義語ってわかる?」

 すべてが、こんな調子でした。 その後、 その年の「共通一次テスト」のことが話題になりました。『ロン先生の虫眼鏡』の「あとがき」が問題文となった年でしたから。「正答に疑問がある。試験問題に関する「時効」が成立する四年後に、このことについて書こうと思っている」という意味のことを光瀬先生はおっしゃいました。 この時、私は次のように申し上げました。

「作品を仕上げた後は、作者といえども単なる読者のひとりです。「読み」において、何ら特権的な位置にはいませんよね」

 言いたいことが、あまりよく伝わらなかったと思った私は、その後、光瀬先生に手紙を書きました。
「「解釈」とは常に行為である」……そういう意味のことを書いたと思います。 「解釈」とは「作品を読むという行為そのもの」であって、「行為の結果」ではない。まして、「結果を書きとめたもの」ではない。「書き留めたもの」にはまた「読むという行為」で接するしかないから、どんどんズレていく……。そういうことです。 その後、連絡をいただいてお会いした時にも、そういった話をしました。

「だから、「読み」は決して「作品」そのものに追いつけないし、まして「評論」は「読み」にさえ追いつけない。それを承知の上で、私は「光瀬龍論」を書いてみたい。でも、それについて、あなたの助力を得ようとは思いません。あなたの存在は、私が「評論」を書く上ではむしろ邪魔です。「敵」と言ってもいいくらいです」

 そのことについて、次のような説明をしたことを覚えています。

「この世界は神のものではない。我々のものだ!」  (萩尾望都版『百億の昼と千億の夜』中の阿修羅王のセリフ)

 これをもじって言うと、次のようになります。

「作品世界は、それを作り出した神である作者のものではない。それを読む我々読者のものだ!」

 これは、「評論」=「生け花」という考え方と矛盾するものではないですね。 「神」が「こう生けるのが正しい」と言ったって、そんなことは聞きません。聞きいれたら「世界(=作品)」に対して失礼です。その上で、「世界」とは「神の意思の顕現」なのか、それともそうではないのかについて考えたいと、今は思っています。(これはかつては「考える必要がない」と思っていたテーマでした。 「可能なのは「作品論」だけである」という立場を取り続けていましたから。 なのに!  何なんだ、あの「受賞作」は?  あれだけ「評伝嫌い」だった私が、どうして「評伝」を書かせられてしまったんだよぉっ)

 当然ながら、これはあくまで「私にとって評論とは何か」ということです。考えるきっかけを与えて下さった皆様に感謝いたします。

コメント (3)(コメントのアーカイヴ無し)

2009年9月27日 (日)

「私にとって評論とは何か」を考えてみました

Filed under: 評論 - 宮野由梨香 @ 11:28:11

宮野由梨香です。

 私は今まであまり「評論とは何か」ということについて、深くつきつめて考えたことがありませんでした。今回、皆さんのやりとりに触発されて考えた結果、次のことを「発見」しました。

「私にとって「評論」と「生け花」は同じものだったんだ!」

 どのように「同じ」なのかを申し上げておきましょう。

 生け花は、切るという美的否定、自然そのままでなく、根から切り離された、もはや自然そのものとはいえない植物を素材に、生けるという行為によって、自然の生命の表現を高め、新しい自然の形成をなしとげようとするものです。……中略……自然の心―その本質を生かしとどめて、自然本来の造形を完成する姿勢、もし桜が物言うなら「私こそ桜」と微笑するほどに、桜の生命と融合することによって歌い上げる桜の自己表現のうた……自然の心の歌でありたいのです。(安達曈子「花芸への道」(講談社)18頁)

「評論」は「作品」という「自然」にとっての「生け花」なのだと、私は今まで自覚することなく考えていたようです。

 私は高校生の時に「花芸 安達流」の作品に接して、ひどく心に魅かれるものを感じ、それまで属していた流派を辞めて、そちらに移りました。入門に際してまず誓わされたのが「花を切る時はゴメンナサイと言うこと」でした。

 そう、作品を「引用」する時の心の痛みは、花を切る時の心の痛みに似ています。それが生きている全体性の中から切り離して無理やりに自分の支配下に置こうというのですから、とんでもない陵辱です。しかも、自分がいかに「下手」かは自覚しています。それなのに、なぜやるのかと問われたら「ごめんなさい」と謝るしかないです。 その上で「そういう衝動にかられてしまったから、そして、その衝動を否定することは、生きながら死ぬのを認めることで、それは今まで私を生かしてくれた生命たちに対する裏切り行為だから、私にはできません。許して下さい」と言うしかないです。 そして、せめて少しは「上手」になるように、日々心がけていくしかないですね。

  私は、19歳の時(1980年)、大学の学園祭での「講演」を通じて光瀬先生にお会いしました。2度とお会いする機会などないだろうと思った私は、それまで疑問に感じていたことを、いろいろとお尋ねしました。 まともなお返事は全く戴けませんでした。

「『百億の昼と千億の夜』の「あとがきにかえて」の中にある経典の話の出典ですか? 今、ちょっと思い出せないけれど、ちゃんとありますよ。経典はたくさんあるんですから、どんな話でもあるものなんですよ」

「転輪王と天輪王は違うのかって? 字が違うんですから、当然でしょう。あなた、同音異義語ってわかる?」

 すべてが、こんな調子でした。 その後、 その年の「共通一次テスト」のことが話題になりました。『ロン先生の虫眼鏡』の「あとがき」が問題文となった年でしたから。「正答に疑問がある。試験問題に関する「時効」が成立する四年後に、このことについて書こうと思っている」という意味のことを光瀬先生はおっしゃいました。 この時、私は次のように申し上げました。

「作品を仕上げた後は、作者といえども単なる読者のひとりです。「読み」において、何ら特権的な位置にはいませんよね」

 言いたいことが、あまりよく伝わらなかったと思った私は、その後、光瀬先生に手紙を書きました。 「「解釈」とは常に行為である」……そういう意味のことを書いたと思います。 「解釈」とは「作品を読むという行為そのもの」であって、「行為の結果」ではない。まして、「結果を書きとめたもの」ではない。「書き留めたもの」にはまた「読むという行為」で接するしかないから、どんどんズレていく……。そういうことです。 その後、連絡をいただいてお会いした時にも、そういった話をしました。

「だから、「読み」は決して「作品」そのものに追いつけないし、まして「評論」は「読み」にさえ追いつけない。それを承知の上で、私は「光瀬龍論」を書いてみたい。でも、それについて、あなたの助力を得ようとは思いません。あなたの存在は、私が「評論」を書く上ではむしろ邪魔です。「敵」と言ってもいいくらいです」

 そのことについて、次のような説明をしたことを覚えています。

「この世界は神のものではない。我々のものだ!」  (萩尾望都版『百億の昼と千億の夜』中の阿修羅王のセリフ)

 これをもじって言うと、次のようになります。

「作品世界は、それを作り出した神である作者のものではない。それを読む我々読者のものだ!」

 これは、「評論」=「生け花」という考え方と矛盾するものではないですね。 「神」が「こう生けるのが正しい」と言ったって、そんなことは聞きません。聞きいれたら「世界(=作品)」に対して失礼です。その上で、「世界」とは「神の意思の顕現」なのか、それともそうではないのかについて考えたいと、今は思っています。(これはかつては「考える必要がない」と思っていたテーマでした。 「可能なのは「作品論」だけである」という立場を取り続けていましたから。 なのに!  何なんだ、あの「受賞作」は?  あれだけ「評伝嫌い」だった私が、どうして「評伝」を書かせられてしまったんだよぉっ)

 当然ながら、これはあくまで「私にとって評論とは何か」ということです。考えるきっかけを与えて下さった皆様に感謝いたします。

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2009年9月10日 (木)

卑金属は卑しくない/野阿梓に関する論考

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 22:05:34

〈評論〉
 卑金属は卑しくない/野阿梓に関する論考
 ①〈卑〉について
〈卑〉という言葉の意味からはじめよう。漢和辞典ではこの字の上部は人の頭、下部は左手である。昔は右を尊び、左を卑しんだので、卑しいことを指す。いちいちあげないが、実に多くの熟語がある。中には気になる言葉もあり、たとえば、〈卑近〉だ。手近なこと、ありふれたことの意だ。要するに昔の人は日常的なことを卑しんだのであるが、なぜ〈卑金属〉と言うのだろうか 。空気中の水分や二酸化炭素で化学変化を受けやすい金属をそう呼ぶが、対義語は〈貴金属〉である。実際、金は錆びにくい。しかし、だがらと言って、金属のような物質に上下関係をつけるのはおかしい。
 そもそも人間はバカなのかもしれない。バカだからそ、勝手に価値基準の二次元グラフを考えだし、上が偉くて下が卑しいと思いこむ。多分、そう考える根源には天と地の上下関係があるのだろう。左右もおかしい。右大臣と左大臣。雛祭りの殿様と奥方の位置関係。人間は空間の上下左右を価値観で診る癖があるのだ。
 英語ではどうだろうか。英語では対象によってちがう単語を使うらしい。因みに、greedy(貪欲)、gluttonous(食べ物に)、miserly(金に)、vulger(下品な)、mean(下劣な)、low(身分が低い) などなどである。
 それにしても、われわれ日本人(東洋人もあるいは)との、このちがいはどうして?英米語が専門の増田まもるさんや巽孝之さんから、ぜひ、お知恵を借りたいところだが、筆者なりの考えでは、英語は動詞中心の言語だからではないだろうか。英語構文では動詞が中心にあり、左に主語、右が目的語である。
 そもそも東西では脳の仕組みがちがう。思考は言語で行うものだから、東洋と西洋では決定的にちがうのではないだろうか。
 現に〈卑金属〉はa base metalだ。〈貴金属〉はa noble metalである。 nobleが格式語で〝気高い〟という価値観を含む語であるのはたしかだが、 baseは〝基礎〟の意だ。少しも卑しくない。
 どうも、英語のほうが合理的な言葉のような気がする。機能的言語なのではないだろうか。ところが日本語は、日本的身分社会の言葉だ。本来は人間の身分に関するタームが、人間ではないモノにまで及んでいるのである。
 筆者が、約半世紀前に、文学を捨て、SF運動に加わった理由の一つが、この価値観の問題であった。「情報理論と価値判断」の関係を卒論(心理学)で提出したのも、子供の頃からこの問題に関心があったからだ。
 ユダヤ人が西欧社会で卑しめられ、金融業以外の職業から閉め出された理由。神が金融を卑しんだからであり、しかし、社会にとって必要な職業だったから、苦肉の策としてとった処置。欧米社会にもかつては偏見があった。ルソーの「人間不平等論」は自由と人権の基礎的原理だが、実は非白人はルソーの人間には含まれていなかった。
 太平洋戦争時、北米だけではなく南米からも日系人がかり出されて砂漠の収容所に送られたのはなぜか。同じ敵国人でありながら独逸系はそうではなかった。なぜ日本に原爆が投下されたのかという問題の底流にも人種問題が横たわる。
 しかし、オバマ勝利という画期的出来事は起こり、まだまだ時間はかかるだろうが、人種問題は今世紀中には解決すると思う。
 逸れた話題をもとに戻すが、われわれ日本人は、社会の隅々まで上下関係が浸透している空間に住むことを余儀なくされているのである。文学が高尚でSFは卑しいという価値観自体が、実に非合理的な日本的価値観にすぎない。しかも、これに嫉妬や偏見、仲間意識が絡むから、日本社会は霧の晴れない荒れ地の迷路となり、ときには罠も仕掛けられたりするのだ。
 それがいやでSF界に入った人々は多いと思う。いわゆる社会の枠組みからどんどん逸脱して書ける、自由なジャンルがSFなのである。
 日本SFの初期、小松左京の『日本アパッチ族』の衝撃がわれわれを襲った。なるほど、こうすれば社会の矛盾が小説になるのだと、多くの人々が勇気づけられたものか。
 筒井康隆の『虚構船団』では、同じ三角定規でありながら。正三角と二等辺三角と不等辺三角で階級差があるのだ。まさに日本文学界への痛烈な皮肉である。
 SFだからできることがある――ということをわれわれは忘れてはいけない。
 物書きの基本は、絶対にぶれない基準である。その一つが、〈価値観の相対化〉という絶対的武器である。
 ②に横道仁志著/野阿梓論解読
 SFM(2009年10月号)に載った「恋の秘儀伝授」を読み、考えたことを書く。決して、本評論の評価をするものではなく、これがヒントとなって重大な発見をしたのである。
 いつか、筆者は、作家が同業者の小説を読むとき「卑しい読み方になる」と言ったことがある。だが、この〈卑しい〉は前述のとおり食べ物に貪欲なとき使うgluttonousの意に近い。作家は批評家たちとちがい、創作の料理法に熟知しているから、分析、いや作品の腑分けができるのである。
 たとえば、食材は?スパイスは?などと分析し、料理人が盗むように他人の作品から盗む。そうしなければ巧くならないし、長い間、書けない。われわれはそういう評価をしているのであって、一般読者は料理を味わうような価値判断では、一票は投じないものなのだ。
 さて、野阿さんの作品を全部読んだわけではないが、たとえば、『バベルの薫り』(ハヤカワ文庫)だけでも十分、勉強になる。
 横道氏の読み方を悪いとはいわない。これが正道である。しかし、筆者のような作家は〈構造〉を読む。骨組みに目を付けているのである。しかし、読者は普通、美味しいショートケーキにまぶされた甘い砂糖に魅了されるものなのだ。むろん、それが正しい。これが卑しくない読み方である。
 しかし、横道氏は気付かせてくれた。
 たとえば、〈形象〉というタームである。これが重要!
 〈形象〉は筆者が携わっている美術の用語でもあるが、美学では「対象を観照(想像)して心の中に浮かびあがるその対象の姿をいう。なお、観照とは「主観を交えず自然や人生の真の意味や本質を見極めること」である。
 英語ではshapeとform。〝形象化する〟は〝give shape(form) to〟である。
 たしかに、野阿作品では、それぞれ配役を与えられた俳優たちが演ずるための舞台設定が行われる。野阿作品独特の妖しさ、演目にふさわし舞台設定が創りだされるのだ。『バベル』は月面に宇宙港のあるような時代だから未来のはずだ。しかし、臭いはまさに昭和初期であり、魔都上海が舞台のモデルである。
 冒頭の何パージかを読んだだけで引き込まれてしまうが、作者の脳内宇宙が活字で描き出されたイメージ。これが、まさに〈形象化〉なのである。
 横道氏から学んだもう一つのタームは〈トポス〉(topos)である。ギリシア語で〈場所〉を意味する。往時の修辞学では議論に関係した事柄や話題を発見すべき場所(論点・観点)を表すと、百科事典(中村雄二郎/日立+平凡社/電子)では解説されている。
〈トポス〉はさらに、今日では意味が拡大されて、〈存在根拠としての場所〉〈身体的なものとしての場所〉〈象徴的なものとしての場所〉として使われる。
 ちょっとわかりにくいが、自らSF作品を創作すると、実感的にわかる。体得されるのである。
 創作中では自己意識が自由度を増すのがわかる。SFではそれが猛烈に激しい。社会の制約や時間など多くの制約から解き放たれるからであろう。まさに、熱によって暴れ回る電子を連想させるような〈自由意識〉である。
 これが〈定床〉する場所が〈トポス〉である。
 意識の存在根拠としての共同社会も〈トポス〉だし、意識の源泉である無意識も〈トポス〉だ。身体が置かれた環境も、意識が宿らざるをえない身体も〈トポス〉である。それらは混沌たる存在全体の中から分節され、固有のものとなり、そして自己にとっては強いベクトルあるいは磁場を伴って成立する濃密な〈場所〉を指すのである。
『バベル』の舞台設定はそうした強烈な場所なのである。
 という構造的発見があれば、われわれは、SF小説の構造を確認したことになるのである。

  (2009/9/17 荒巻義雄)

コメント (1)

コメント 1

横道さんの≪野阿梓≫論、読みました。野阿先生の≪美少年嗜虐≫描写の裏側には、深い意味が隠されていたのですね。今一つ、難解でしたが、少しだけ理解できました。≪野阿≫作品&≪横道≫評論は、再読の必要がありますね。(新谷広規)

コメント by  - 新谷広規 - 2009/9/18 金曜日 @ 9:40:34

2009年2月 2日 (月)

円城塔「Your head’s only」論

Filed under: 評論 - 藤田直哉 @ 18:41:37

お久しぶりです。藤田直哉と申します。自分の文章を投稿するのは初めてです。今回は、今若手SF作家の中で最も熱い人の一人、円城塔さんを、創作手法や作風などからspeculative fictionであると位置付けたうえで、「わからないけどおもしろい」とブログでも創作合評などでも言われている彼の作品を、とりあえずはどう読めばいいのかに関する試論です。基本的には、簡単な読み方のガイドを示したつもりでして、最初の「科学と文学」に関しては、もっともっと多くの知見があると思いますが、今回は深入りしませんでした。できるだけわかりやすく円城塔をガイドしようと、彼が「手癖」で書いたと呼ぶ「Your head’s only」の読み方を提示していますが、この深遠かつ巨大な作家に迫れたとは、到底思えません。いずれ書く「円城塔論」への一つの試論としてお読みいただけたら嬉しいです。

………………………………………………………………

科学と文学は結婚できるのか?――円城塔「your head’s only」論

                    藤田直哉

はじめに

 円城塔の作品はクリシェとして「おもしろいけどわからない」「わからないけどおもしろい」などといわれ、あるいは「ポストモダンでしょ」などと切り捨てられてきた。しかし、そう単純なものか。わからないなら、なぜわからないのか。わからないこと自体を提出しているという解答も間違っているし、わからないのになぜおもしろいと感じるのかも検討しなければいけない。さらに、「ポストモダンでしょ」という切捨てに対しては、確かにポストモダン論の影響を受けており、メタ性などの部分がそう感じられるのかもしれないが、実は違うのだということを明らかにする。

 円城作品に一貫しているテーマとして、科学と文学、メタ階層、収束と分断、無限などのテーマが存在するが、ここでは円城作品を、わからないならわからないなりに、なにかわかることはないのか。そういう探求を、これからしてみるつもりである。

 この作品は、科学と文学、あるいは理性と感情、などのテーマを、男と女に託し、まさにscienceとfictionの結合をこそ目指した作品であると考えられる。科学と文学、相反して考えられるこれらの主題に対し、SFはこれまで数々の回答を出してきたが、「僕はそもそも分かれてると思っていないので」と果敢に答える円城塔は、現時点でどのような回答を出しているのか。それを『Boy’s surface』収録の「恋愛小説」として書かれた「your head’s only」を見ていくことで、「わからない」けど「おもしろい」円城作品が一体いかなるもので、そして「科学」と「文学」の恋愛をいかにして行っているのか、それを見ていくことにしよう。

「your head’s only」

 九つの、互いに物語的意味では関連が全くないような断章が九つ、ごろりと提示されることでこの作品は成り立っている。この謎の断片郡は一体何か。それを見ていくために、最初の章から確認していこうと思う。

まず最初に、この作品は、この作品の読み方についての断片から始まる。読者が笑うたびに■を打ち込み、読み直しを繰り返すことによって笑った章と笑わない章とで図形が描かれる、ということが語られる。

そして前書きじみた箇所で「日本語としてはかなり滅茶苦茶な一文だと思うのだが、こんな言葉を日常のものとして過ごしている人々が少数なりといる」などと、科学の用語と文学の用語との齟齬についてのエクスキューズを差し込みながら、「恋愛小説」と銘打たれた、謎の断章が次々と現れるのを予告する。この恋愛とは、科学と文学のメタファーとして読めるものであり、そのちぐはぐで奇妙なかみ合わない「恋愛」がいかにして行われているのか見て行こうと思う。

  2000

 なんだか村上春樹のように、過去を追憶して「僕」と「彼女」との恋愛が自然主義的に描かれている。おかしな仕掛けやメタフィクションや妙な構造が特徴的である円城作品の中ではむしろ異様なぐらいである。

 このおそらく理系のポストドクターである「僕」=男は、自分の思考すら「緊急キー」で割り込まれるコンピュータ的な意識だと考えているようである。冒頭にも、理系人間を擁護するようなエクスキューズがあり、これは、コンピュータやテクノロジーと自分を同一視して人間のモデルを作ってしまう人間、あるいはテクノロジーに内面を作られる人間を表していると思われる。後に述べることだが、円城氏はコンピュータ的世界観のものも多い自作を「私小説でもある」(エクス・ポナイトでの発言より)「そのまんま」などと述べているのであるから、そのような内面を「男」側に配置し、理系的なものと重ね合わせて表現している。

 そこから観念的で現実とちぐはぐしたような文体で、「人間」認識の、一般的な文学や人間観との齟齬が私小説的に語られる。実際に物語内で起こっていることは「夜中に電話で女に呼び出されて家に連れて行く」だけなのだが、実時間と全く同期しない観念的思考が文体においては展開していて、物語自体とズレている。

女性側、「彼女」は、天然ではないと書かれているが、ドジ、天然的な人物であり、「悪魔を召還したり、スパイと恋に落ちたり」していると書かれている。呪術的、宗教的なものや、恋という、「僕」にはないものが結び付けられている。衒学的にうんちくを話す「僕」に対し、「あいかわらずよくわからないねえ」「まあいいじゃないのさ」などと彼女はかなり適当で一見頭が良くないような発言をする人物のように設定されている。

「僕」にとって、「彼女」は名前すらない、固有性のかなり薄いものとして感受されている。「クラスの中に一人くらい、こんなものを見かけた経験があるのではないかと思う。それをパタパタと三回ぐらい畳むと大体こんな形になる」と、かなり抽象的な人物描写をされている。しかし、彼女と二人戯れているときに、「僕」は彼女を「可笑しい」と感受する。そして僕は「最後に一つの願いを祈ってみることに決める」と宗教的なものが入り込んで唐突にこの章は終わる。その意味自体はまだ我々には伝わってこない。ぼんやりとしたものしかない。そしてそれは短編を最後まで読んでも、あるいは円城塔作品を全て読んでも明確にならないものなのかもしれないが、我々は次の章にとりかかり、解明を志してみたい。

  2001

二十一世紀のどこかの島。「二十世紀は第四コーナーを曲がり損ねて、盛大にオーバーランしてクラッシュした」そして散り散りなってしまったと伝えられる。ポストモダン論などで、もはやみなは共通の価値観や規範を持てず、趣味の共同体などに閉じこもり、ばらばらになってしまったとはよく指摘されることであり、「島宇宙化」などと言われるが、それを思わせる世界の「島」で、「好きです」というメッセージが、様々な素材の上に、ビンに入れられて漂着し続ける。「ボトルメール」とそれは呼ばれる。

 その奥には「深淵」があり、その向こうにあるとされる島には何があるかわからない。しかし人々は部品から部品に乗り移って、絶望的に島を渡っていく。ある漁師が絶望的に東に向かった果てには、ボトルメールが流れ着くだけであるが、いつしかボトルメール同士が独自の言語を作り、表面で通信し始める。瓶の凸凹で計算すら始めるようになる。「瓶たちを駆動しているのは(中略)好きですの言葉がもたらす響きのみ」と描かれている。

 これは二十一世紀の寓話であろうか? グルーミングのようにケータイメールで愛や親密さを確認しあう世界の暗喩であろうか? そう考えることもできる。しかし、瓶がコンピュータのように自律的に思考を始めるところはコンピュータ的である。瓶自体がニュータイプの人間なのか? しかしそれは「好きです」という愛の言葉を駆動原理としているのだ。「計算」の中心にある一点の「愛の言葉」。この寓意の意味もまた、円城氏を取り巻くクリシェの一つであることを承知の上で、「わからない」と呟こう。我々はそれを知るために、先に進まなくてはいけない。

  2002

 再び私小説的な「僕」の登場。いまや准教授となった「僕」が過去を思い出し、「ロリータ」とナボコフの『ロリータ』のパロディを呟く。「彼女」は先ほどと同じように固有名がなく、「君とは違って誰にも名前はついている」という台詞まであることから、意図的な固有名詞の喪失であろう。菓子を持って、「赤いグミを持った」彼女と会う。菓子やグミなど、かなり幼児性のある女性のステレオタイプ化されたイメージが利用されている。

 要約すると、「久々に会って話をするだけ」なのだが、作中作として、2000の章と同じように不可思議な生殖方法をする虫の話をする。それを通じて、「僕」は、「僕と彼女」の生殖や、生命や、生きていくこと全体の不思議さを考察しているようであり、所詮恋愛などというのは「システム」でしかないと表明しているようにも見える。

 その彼女と会話する横にはチューリングの像がある。アラン・チューリングとは、現代計算機科学の父と呼ばれ、チューリングテストというテストを考案し、人間とコンピュータの違いを、むしろ「内面」や「心の存在」を、会話の反応だけで区別することはできないのではないか、という問いや、表面上は人間のように作動したら知性があるのか、などの問いを残した人間である。動物、コンピュータ、人間、そして恋愛、心、などの問題系が、ここにきて一挙に表れる。この作品の背景のラインはこの問題系をひたすらめぐっている。たとえば生殖の問題があるが、生殖とは、遺伝子の多様性を確保するために行われるという通説を背景にして、次には、不死性を持ったベニクラゲを想起している。性があるから死があり、性があるから恋愛するのだから、性がなければ死もなくて済む。

 さらに続いて、チューリングがゲイであったことや、ロリコンの語源である『ロリータ』のハンバートなどが想起され、異常性癖について、「考察」ではなく「連想」が行われていく。円城塔の作品は「深く」追求していく形というより、連想や連鎖で繋がっていくタイプのものが多い。

 彼女との会話は生き生きと語られることも時間と同期することもなく、はかばかしい内容や進展も持たないまま、再び区切られる。そして再び宙吊りを食らわされた挙句、次の章に我々は進む。

  2003

 さて、死と性の考察は、この章において露骨に表れる。愛と快楽の名において「全弾命中」すなわち性交における効率が増大し人口の爆発が起こった。後に「烏有此譚」でも繰り返されることになる、数の増大によるカタストロフの予感がここで忍び寄る。人口の爆発。性により多様性を確保し、増大し続けてきた人類の「愛と快楽」が、破滅、絶滅へとたどり着いてしまう。このカタストロフの感覚は、80年代の日本アニメや、90年代のオウムやエヴァンゲリオンなどと共通している感覚だろうか。使い尽くしてしまう、無限に到達してしまう、という円城作品の特徴が如実に現れた断章である。

  2004

 ここで再び「笑い」が現れる。「あなたが差し引き五回の笑いを経てきたことを意味している」。以上のところにどんな笑いがあったのか。それは、宇宙的な、人類規模での、あるいは生命全体、性や生や死全体を、乾いたメタ視点から見下ろす笑いか。一般的な意味での「笑い」は存在していない。フロイトの機知論によると、ユーモアとは、超自我が、自我に対し、「それはたいしたことではない」と教えることにあるというが、人類の絶滅にまで至り、「生」や「性愛」という、人間が、世間が、狂騒しているいろいろなものに、「それはたいしたものではない」という冷たい乾いた視線を向ける、という、人類全体を相対化する恐ろしい「笑い」ならここにはある。ここで突きつけられているのは、お前はこれで笑えるのか、とか、笑えましたか、とか、笑ってください、ではなく、読者を、「生」の外側にまで強引に連れ出そうとする、生自体を相対化しようとする寂しい恐ろしい「外部」への誘いだ。

 その「笑いながら読む」読みの規則の指示が冒頭に出ていたが、このような規則的なものから次に現れるのは小説自体への言及である。小説というよりは「インクと紙」という物質性への言及である。「私はこうして量産されており、あなたの好きに読まれている」という文章の「私」とは誰か。円城塔ではない。紙とインク自体だ。つまり小説自体を指す。

 円城塔とは、そもそも金子邦彦の小説「小説 進物史観」に登場する物語生成AI「円城塔李久」から取られたものである。複雑系の研究者である金子邦彦は円城塔の大学院時代の指導教官であり、「ひょっとして物語というのは、複雑系研究の方法として人類の生み出した、最高の手法なのではないか」(『カオスの紡ぐ夢の中で』p84)と述べている。

 円城塔とは、そもそもが、物語生成AIなのだ。だからこの「私」とは円城塔のことではなく、自動的に生成されているこの物語自身のことと考えなければならない。そしてここでまたチューリングを想起するならば、機械に知性や情緒性を持たせて物語を書かせるという『ガラテイア2.2』や、レムの『虚数』などの、機械・計算と、知性・情緒などの主題も明確に見えるだろう(円城はこれらの作品からの影響を公言している)。男性と女性のメタファーでこれらは語られ、科学と文学というモチーフの核心にあるものである。果たして計算や論理が知性や情緒や愛を持つのか、という問いは、そもそもがペンネーム自体に含まれていたのだ。

 そもそも「数学」というものも、観念世界で行われるものではなく、書き出され、紙の上やモニタ上で計算されるものであるならば、それは小説の文字の並びと類比して考えられはしないか。そのような思考から、これは「小説自体」を語った後、計算やプログラムと類比して語られる。

「てんで勝手にめいめいに、私に相談なく自由気儘に採用される計算法に対して、私が何を成しうるのか。そこに何かが書かれており、ひとつの実行系でそれを解釈してみたとき、何かの結果が得られたとする。そしてまた別の人物の頭の中には、別の実行系で解釈された結果が出来する。どんなプログラミング言語として読んでみても似たような結果を出力するプログラムじみた何かなどは本来期待することは叶わず、読まれ方などというものに際限はない」この「計算法」とは、読んでいる人間の脳内で行われる解釈のことであり、プログラミングとはこの小説のことである。明らかに、人間の情緒的創作物であるかのように思われがちな「小説」や「読解」を、計算やプログラミングという、唯計算的な世界に落とし込みたいようである。柄谷行人が「ヒューモアとしての唯物論」という言葉で、唯物論をユーモアとして扱ったが、ここでは、情報やコンピュータに取り囲まれた我々の時代に現れた謎の笑いを表現するものとして、「ヒューモアとしての唯計算」とでも呼ぼうか。それは実存の苦悩に対して、それは情報的にたいしたことはない、脳のデータだ、などと、「慰める」機能を持っているのだ。現に「人の感情のなりゆきなどにたいした多様性はない」と書いてある。しかし、それでは2001の章の、計算の核心の底にある「好きです」という感情と矛盾はしないか。矛盾しているのである。作中で、唯計算論的な世界観と、感情や情緒の世界観が揺れ、混交している、迷い自体の意識の流れがそのまま表出されているかのようだ。

  2005

 突然の転調。東南アジアの武装集団が、科学者の会議場を占拠し、人質にとる。人質は「数学者や物理学者や計算機科学者や言語学者や認知科学者」であり、あまり人質として価値がないのではないかと語られる。この会議の真相はわからず、人類を絶滅させる兵器を作っていたのか、地球を覆っている脅威を取り除こうとしたのか。これは「科学者」への世間のイメージの二種類を見事に表している。前者は、ヴォネガットの『猫のゆりかご』やマッドサイエンティストものに代表される科学批判の見方であり、後者は子供向け「未来予想」の中に出てくるような世界を救おうとする科学者像である。これはどちらがどちらなのか作中では決定されないし、「どちらでもいい」となってしまう。シュレディンガーの猫のように、どっちでもあり、どっちでもない、不確定で、どちらでもいい、という状態で提出される。

 この救出劇のさなか、大地震が起こって、二十万人が死亡して事件はうやむやになる。この会議名は「普遍計算と力学系」であり、「誇大妄想狂の夢として例示することも不適切である」と書かれている。多彩な専門分野の人間を集めたこの会議は、何を示しているのか。おそらく、「普遍計算」と「多彩な専門分野」がヒントになるだろう。2001のバラバラの島宇宙を想起すべきであるが、今は科学も趣味も専門分化が著しく、学際性などといってもたかが知れている。世界の、知の、学の全体性を見通すことが不可能になっているのだ。そしてこの会議は、その全体性を回復させようという祈願を持った集会であったと推測される。「普遍計算」とは、おそらく、計算の中に世界の全てを詰め込んで普遍性に到達しようとする結合術的なものを指していると考えられる。記号や、計算の中に、世界の全てを、全体性を詰め込もうという意図。しかしそれは大地震により、「土台から」崩れる。

 共通の価値観や規範がなくなってしまった時代は、「底が抜けた」などと言われることがある。共通の土台が崩壊してしまった現代をまるで象徴しているかのようだ。思えば『Self-Refernce ENGINE』もまた、バラバラの世界と、それを統一しようとする意思がある作品であった。統一しようとするのだが、失敗し、バラバラにならざるを得ないという要素まで、同じである。

  2006

 ユニバース。

 という書き出しでこの章は始まる。Uni-verse。単一の、宇宙・世界。全世界。普遍性への志向が表れているのは見て取れる。この言葉から突然なんの脈絡もなくチューリングの話に移る。多動性障害気味のこの転調の多さと断片化の激しさは先ほどの「バラバラ」さと通じている。

 ここでチューリングマシンの説明が入るが、昔のコンピュータのテープへの翻訳を、こう表現している。「全ての計算は、そんなダンスに翻訳することが可能であり、そうして踊れるものの全てが計算であるとする説は、チャーチ・チューリング師弟のテーゼと呼ばれる」だがここで「踊る」という要素が入ってきてしまった。踊りとは、計算的なものになじまない、身体的で、宗教的な要素も含んだものではないのか。計算を踊りに翻訳し、踊りを計算に翻訳できる、というところに、作者の意図がよく見える。

 ここでまたしてもメタフィクション的な要素が。「あなたの頭の中だけで」と、仮想世界的な、シミュレーション的な意味に見えたタイトルは、「読み出し器」を意味するヘッドであった。そしてその機械である、装置である頭脳が、この本を読み込んでいき、「あなたの記憶の中のわたし」や「あなたの内面」が「書き換えられて」いく。小説と、テープとがここで重ね合わせられ、人間の脳と読み出し器が重ねられた。この手の類似性による重ね合わせの手法は円城塔が頻繁に行うものであり、特徴と言っても良い。

 さて、この「機械」が喋っている章において、ついに「愛」との対決が行われる。「今私の中の担当部分で的外れな独り語りを続け、勝手に私の内容を置き換え続けている男についても、私は特に心配をしていない。その愛のあり方は多数派から見て全く見当外れのものであり、児戯に等しいものとして切り捨ててしまっても特に問題は起こらない」「彼が取りえた最良の選択とは(中略)愛情と呼ばれるものの入り込む余地のない、冷徹な話に書き換えることだったはずである」と、唯計算的な冷たいユーモアが崩れ、敗北しているのだ。「動機に愛をおいた時点で、私に対抗することなどは叶わない」

 そして彼は言う。「私は人類の産み出した愛の形を愛して」いるのだと。

  2007

「原初、地球は巨大な海栗だった」「蟹を分乗させて、無数の海栗へと分裂させた」という、ユーモラスな寓話から始まる章。男女のエロティシズムを、原初の生命が一体であった頃に求めるバタイユなどの説があるが、性の問題を考察し、「原初」の同一状態への願望の話が出てくることは当然であろう。海栗に関してはこのようなことも書かれている。「体全体の情報を統合せずとも、大過なく暮らしていける構成を持っているものであるらしい」。

 その後、ようやく「僕」と「彼女」の話に小説は収束するようだ(この「収束」もまた、「Gernsback Intersection」や『Self-Reference ENGINE』などで、収束への志向とその不可能性という形で、何度も変奏されているテーマである)。

 それで、またしても実体感のない女性との会話が続き、「僕」は自分で読者の問いを先取りする。「その女の子とは一体誰のことなのだ」と。この小説において、この女性と肉体的に接触することはないし、どこか非現実的で、生々しさがない。「Gernsback Intersection」では巨大な花嫁に向かって進行し続ける部隊が描かれていたが、それも到達できない。到達できないものとしての女性である、という、オタクにとっての聖化された女性像かと言えば、そうでもない。わからないことこそが価値のある存在の象徴かとも思ったりしてみるが、それすらもわからない。「文学」や「愛」や「感情」のメタファーであるとしたら。我々はここまでそのように読解してきた。では肉体的接触のない、この「男」と「女」はどうなっているのか。交わるのは不可能なのか。いや、そうではない。計算は敗北を認めている。最後のこの章において、「円城塔」はAIらしくない自己吐露を始める。抑えに抑えていたがゆえに逆に感動的ですらある、ある極限の自己吐露を。非常に長くなるが、彼の結論を、自己参照を、自身の小説に対する自己批評を、延々繰り返す自己参照と自己批評を突破し、「無限」の入れ子から突破してきたかのような「感情」を見よう。

「言ってみれば僕はこうして、愛だの恋だの呼ばれて独り悦に入っては誰の断りもなく勢力の拡大を続けている計算の方を捻じ曲げて、愛だの恋だの呼ばれるものの、定義のほうを書き換えようと試みている。(中略)一つの二十世紀の終わりに僕が願ったこと。人間に似た虫のため、人の言葉を寄生虫の繁殖行動みたようなものへとこっそり置き換えてしまうこと」「恋愛小説の書き換えなんてことをして一体誰が喜ぶのか。少なくとも僕は楽しい」と、AIらしくない「楽しい」という感情が表現されてしまっている。

 続いて、生殖や愛が、人間の数を増加させ、カタストロフを招くがゆえに悪であると論理的に理解しているというようなことが語られる。そしてそれが馬鹿馬鹿しいことであるとも述べられる。

 しかし「勿論、それに僕だって、それらの過程のどこかの場所に、あるいは一瞬、何かの美しさを見出して涙することが全くないというわけではない」と延べ、また即座に「七十億に迫ろうとする人類」に対する嘆きが始まる。人間的なものと、数的なものから計測される理性的な倫理が相克し、そのスピードが異様に速まっている。

「僕」はなんだかわからない理由で傷だらけで滅茶苦茶である。その傷は「別種の計算を産み出そうとして倒れていった仲間たち」のものだと。そして生は「長く苦しい」と語られ、さらにその後に即座に「ひたすら可笑しい」と言い換えられる。超自我が苦しみに対して「たいしたことないよ」と慰め、ユーモアが生じることを想起しなくてはいけない。

 ぼろぼろになって「長く苦しい」生を営みながら戦っているのは誰か。ここでようやく2005が収束する。「乗り移り、乗り越えて、積み込まれ、操縦し、全く予期されえぬ方向へ挑みかかり、挑み返され、膨大な犠牲を積み上げながら、無茶苦茶ななりゆきを生存の方法としてとりあえずのところ繋いでおくべく、巣に背を向けて歩き出し、数多のものを乗り換えて、どことも知れぬ浜辺を目指す。そんな馬鹿げた試みを心底愛し、今も継続し続けている決して零ではない数の人々のことを、僕は僕が覚えている限りにおいて覚えている」と、これは「科学者」のことだと考えていいだろう。「計算を産み出そうとして倒れた」仲間に対する愛は、例えば円城が書いた日本物理学会のポストドクター問題についての原稿などにも見られる。ここにおいて、彼の心の底からの、(いや、あるいはそれすらAIが偽装しているのかもしれないが)「愛」が、前面に出てくる。

 SFにおいて、「科学者」というのはマッドサイエンティストのイメージや、原爆を産み出したなど、あるいはポストモダニズムにおける真理への批判など、「地道に世界をマシにしようとする科学者」への批判は多い。それが当てはまっている部分もないことはないだろう。そしてその批判を、『Self-Reference ENGINE』で、ポストモダンの思想家の一人であるジャック・デリダの「différance」をもじって使った円城塔がそのことを知らないわけはないのだ。ポストモダン思想のうちの一部では、共通に信じる「大きな物語」が崩壊して色々なものがバラバラになったと主張し、共通の普遍的な真理などは不可能だという批判も行われており、極端な場合、数学や物理すら疑う態度をとった。それでも円城は、絶望的にカタストロフに近づいている世界の中で、地道に、モダンでいいから、研究しろ、と呼びかける。バラバラの世界を、統一できないかもしれないけど、統一しようと試みては崩壊する。そんな苦闘の記録のようだ。
 円城塔の小説を読むとは、そのような、バラバラになったものを、統一させようとする意思を要求する。そしてこの小説も、一見バラバラの断章が並んでいるだけで、互いの関連も明らかではないのだが、よく読めば、実は最後の最後で、叫びとともに、統一が果たされる。 科学と科学批判の相克という旋律、理性と愛の相克という旋律、バラバラと収束という相克と、唯計算的なものと慰めという人間的なものの相克との、四つの互いに対立してダンスを踊りながら続いていた主題。それが叫びとともに、一挙に、三角波のように一点に押し寄せる。科学者への、地道な科学を続けることへの呼びかけとともに、愛が叫ばれ、二つのものが収束し、それ自体が「慰め」として機能する「文字列」であるこの小説として提示される。
 この、全てのバラバラだったモチーフが、叫びとともに統一される瞬間の圧倒的な感動は、意図的なものか、偶然か、無意識かなどはほとんどどうでもよく、技法的にも感情的にも強烈な一撃を形作っている。「僕はこうして彼女を愛しているのだし、そしてそれで充分なことだと思う」で締めくくられるこの小説の肝は何か。それは、絶望的にバラバラでカタストロフに近づいている世界でも、それでも愛による叫びこそが、ひょっとすると何かを統一させるのかもしれない、そういう瞬間を起こせるのかもしれない、ということなのだ。世界の中心が、ないからこそ、どこにもなくなってしまったからこそ、苦しみ、苦難の道を歩きながら、愛を叫ぶこと。その強烈な「慰め」をこそ、円城塔は、孤独に行っている。
何かを慰めるためにはメタ階層に上がらずにはいられず、世界の生全体を慰めるためには、自分はその慰めの外側に行かなければいけない。メタ階層上層と、その無限化や、ベタ階層への回帰の末に奇怪な、クライン構造を越えた複雑な構造になってしまう円城塔作品の根本には、そのような「愛」が存在し、それがゆえに、彼は常に外側に行き続け、孤独のままでい続けるのかもしれない。

参考資料 円城塔『Boy’s surface』円城塔『Self-Reference ENGINE』円城塔『オブ・ザ・ベースボール』円城塔「いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について」円城塔「烏有此譚」瀬名秀明監修『サイエンス・イマジネーション』金子邦彦『カオスの紡ぐ夢の中で』日本物理学会誌 第63巻 第7号(通巻 693 号)井口時男/往住彰文/岩山真『文学を科学する』ノイバウアー『アルス・コンビナトリア』柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』パワーズ『ガラテイア2.2』レム『虚数』藤田直哉 井上ざもすき編集『Xamoschi』収録 円城塔インタビュー「6,660,000,000」

参考講演 エクス・ポナイト NIPPONCON「サイエンスとサイエンスフィクションの最前線、そして未来へ!」 DAICON7「サイエンス・イマジネーション 科学とSF の最前線、そして未来へ」(以上の講演は筆者の聞き書きによる資料に拠るので、公式のソースとしての信憑性は、公式に発表された言説を見て判断して欲しい)

コメント (9)

コメント 1

初めまして、新谷広規と申します。実は、不勉強なことに、話題の若手SF作家≪円城塔≫氏の作品は、読んでいません。今度、挑戦してみます。個人的に、藤田さんの文章を読んで、まず思ったことは、宗教学者エリアーデのキーワードである≪世界の中心≫です。エリアーデによれば、≪世界の中心≫があるからこそ、世界は≪混乱≫ではなく≪調和≫として存在できる。≪世界の中心≫の喪失は、イコール≪世界の崩壊≫に等しい、ということであります。21世紀の今、政治的にも経済的にも社会的にも、≪世界の中心≫が喪失したことによる、大規模な≪混乱≫が出現していると思います。それに対する解決策は、やはり個人々々が、自分自身の≪世界の中心≫を見つけて行くしかないのだと思います。≪世界の中心≫という名の玉座に、≪愛≫という名の心優しい帝王を位置づけることが、21世紀の文学に求められているのではないか、と思います。≪円城塔≫氏の作品も、そのための一つの試みであるように思われます。今度、≪円城塔≫氏の作品を、じっくり読んでみます。

コメント by 新谷広規 - 2009/2/3 火曜日 @ 13:49:14

コメント 2

藤田さま、お待ちしていましたよ。「藤田直哉による円城塔論」! さぞかし刺激的にちがいないと、わくわくしながら読ませていただきました。いやあ、期待以上でした。しばしば難解と評される円城塔の作品を、まるで腑分けするように切り開いていきながら、そこに新たな光をあてていく、その結果、読み取られていったものが、「全てのバラバラだったモチーフが、叫びとともに統一される瞬間の圧倒的な感動」と表現されたとき、ぼくもまた深い感動をおぼえました。まことに、円城塔の作品は、平易な理解を拒絶していながら、一語一語、一行一行、そして痙攣的に展開するイメージのひとつひとつが、われわれの心をゆさぶるという、不思議な魔力を帯びているんですよね。果たして「円城塔作品の根本には、そのような『愛』が存在」するのか否か、それはわかりませんが、そう思わせるものがあるのを、ぼくもたしかに感じています。これからも積極的に円城塔の作品を取り上げて論じてくださるようにお願いします。
>新谷広規さま
個人的にはSFをふくめた現在の世界の全文学のなかで、円城塔の作品はもっとも先鋭的でもっともすぐれたもののひとつだと確信しています。ぜひいちどお読みになってみてください。とりわけ『Self-Reference ENGINE』は必読書だと思います。

コメント by 増田まもる - 2009/2/4 水曜日 @ 0:05:33

コメント 3

増田まもる様

『Self-Reference ENGINE』,なぜか絶版(?)のようなので、『Boy`S Surface』を購入しました。早く、再版するか、文庫化するか、してほしいです。(ハヤカワさん、待っています。)

コメント by 新谷広規 - 2009/2/4 水曜日 @ 15:59:09

コメント 4

新谷広規さま
はじめまして。おそらく、そのエリアーデの「世界の中心」に相当するものは、「大きな物語」のような、世界全体の無秩序に意味体系を与え、そのことにより自分自身の生の不安を緩和するものを指すと思われますが、冷戦以後、911以後の我々の状況は「ポストモダン化」と呼ばれる、中心なきバラバラの時代になっているという認識は正しいと思います。ただ、「自分自身の世界の中心」を勝手に個々人が決めると、原理主義者同士の衝突のような世界になり、宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』で言うところのバトルロワイヤルにいたる。これを「愛」でどうにかできるのか。考えなければいけないところではありますが、エリアーデのような宗教的・神話的な観点を導入するのも可能性の一つとしてあると思います。

増田まもるさま
面白がっていただけて幸いです。おそらく円城氏が読まれたら笑って「未熟者め」と言うであろう文章ですが、無防備に彼が「愛」を出しているこの短編が気になっていたので、取り上げてみました。また別の短編に関しても似たような文章をまた書かせていただけたらな、と思います。いずれ、円城塔氏に関してはもっと総合的な論を書きたいのですが、分析哲学やモナドロジーなどについて知識を吸収してから再度挑戦しようと思っております。読んでいただいてありがとうございます。

コメント by 藤田直哉 - 2009/2/4 水曜日 @ 16:58:10

コメント 5

藤田直哉さま

鋭い御指摘、ありがとうございます。ただ個人的な意見としては、ある程度の≪バトルロワイヤル≫は、避けられないのではないか、と思っております。そもそも、この世界の生態系そのものが、≪弱肉強食≫あるいは≪適者生存≫という名の、バトルロワイヤル的な原理によって成り立っているのは、否定できないと思います。個人的には、バトルロワイヤル的なものの否定は、突き詰めて言えば生存不可能という事態を招く可能性すら、あると思います。私も、心情的にはバトルロワイヤル的なものを否定したいのですが、こういう原理には、生半可には否定できないほどの、強い力があります。だからこそ、バトルロワイヤル的な≪世界の中心≫に、≪愛≫が必要なんだと思います。40を越えた中年男としては、やはり≪バトルロワイヤル≫的なものの否定は、少し無理だったりします。この辺りが、生きることの難しさなんだと、本当に思ってしまいます。

(追記:個人的には、エリアーデ的な≪神話≫の復活に、21世紀を切り拓く可能性を見つけようと言うのが、私のコンセプトだったりします。でも、その他の視点をもっと知りたいと言うのも、確かです。その意味で、≪スペ・ジャパ≫は、本当に勉強になります。)

コメント by 新谷広規 - 2009/2/5 木曜日 @ 10:39:31

コメント 6

>新谷広規さま

その思考は非常に面白く、示唆深いと思います。本論文では論に入れなかったのですが、円城作品と、情報環境の関係、とくにインターネットとは非常に密接に結びついていると思いますが(シェリー・タークルは、ネットはそれ自体が中心なき反中央集権主義であるポストモダンそのものだと言いました)、インターネットと「神話」の関係について、エリアーデ的ではなくおそらくはレヴィ・ストロース的な方向性で思考されている現代の思想家として(ご存知かもしれませんが)福嶋亮大さんが『ユリイカ』で「神話社会学」という連載をされています。僕はこの神話社会学をちゃんと理解しているとは言いがたいですが、何か共振するものがあるのかもしれません。

コメント by 藤田直哉 - 2009/2/6 金曜日 @ 15:49:40

コメント 7

藤田直哉さま

それは、凄そうですね。エリアーデは、「原則的に、世界の中心は、無数に存在する。」という趣旨の発言をしていますが、そのイメージは、まさに≪インターネット≫を連想させます。≪反・中央集権主義的≫な世界の中心こそ、本来の≪世界の中心≫なのかもしれません。

コメント by 新谷広規 - 2009/2/7 土曜日 @ 10:32:19

コメント 8

円城塔先生の『Self-Reference ENGINE』、読了しました。確かに、これは、画期的な傑作です。「≪21世紀のSF≫、ここに始まる。」と言いたくなるくらい、面白かったです。

コメント by 新谷広規 - 2009/4/22 水曜日 @ 10:26:06

コメント 9

あ、そうだ、この評論を書いている藤田さんも北海道出身ですよ。

コメント by 岡和田晃 - 2009/4/22 水曜日 @ 22:19:52

2008年12月19日 (金)

イェイツの〈黄金の鳥〉について

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 7:57:06

〈評論〉
 イェイツの〈黄金の鳥〉について

 日本SF評論賞最終選考まで残ったが、惜しくも入選にはいたらなかったO氏の評論の中にW・B・イェイツの詩『ビザンチウムに船出して』の第四連が引用されていたが、この解釈については、学生時代からイェイツに心酔してきた筆者としては大いに気になった次第だ。というのは、この第四連はイェイツ研究者の間でも議論を呼んでいる個所であって、すでに、文学史的に研究の累積がある。これらをよく吟味した上で新解釈を出すのであれば、だれも異議をは唱えないであろう。だが、飛躍がありすぎると評論全体の評価にも影響する。
 評論は創作とちがって正確さが求められるし、むろん、独創性は重要だが、なによりも煉瓦を積むような慎重さが必要である。
 ともあれ、選考日(08/12/11)の翌日、神田の古書店を半日かけて探し、出淵博著作集1『イェイツとの対話』を探し出し、買い求めた次第だ。

 以上を前置きとして肝心の詩を載せよう。

 Once out of nature I shall never take
 My bodily form from any natural thing,
 But such a form as Grecian goldsmiths make
 Of hammered gold and gold enamelling
 To keep a drowsy Empeor awake;
 Or set upon a golden bough to sing
 To lords and ladies of Byzantium
 Of what is past, or passing, or to came.

 参考文献①訳(出淵博)に従えば、

 ひとたび自然の外に出たならば
 再び僕は自然から自分の姿を借りるつもりはない。
 僕がなりたいのは、ギリシャの金工が
 金を延べたり、金の上塗りをして作ったもの。
 寝呆けまなこの王様の目を醒ましたり、
 金の枝の上にとまって、
 ビザンチウムの殿方、奥方に、
 過ぎ去ったこと、過ぎさりつつあること、
 やがて来ることを歌うのだ。

 ここには鳥という言葉がないが、この詩のあとに書かれた姉妹編的な『ビザンチウム』(参④50ページ)あるいは、もろもろの研究からも歌を歌うものは〈黄金の鳥〉なのである。
 実はイェイツ自身の註(参②81ページ/参③18ページ)があり、
 「第四連 私はどこかで、ビザンティウムの皇帝の宮殿には金と銀とでこしらえられた一本の木があって、歌をうたう人工の鳥がいるということを読んだ。」とある。
 詩人自身がそう原注に記している以上、ここから〈サイボーグ〉という想像は、微塵も出てこないはずなのである。
 むろん、筆者は、O氏の誤読を批難しているわけではない。批評にはときとして誤読も重要であり、意外な読みを導くことがあるし、またこうした方法はポストモダン批評では許容されているのである。が、だからこそ独自の解釈にはいっそうの慎重さが不可欠であるし、むしろルールと言ってもよい。

 全体を要約して論を進める。
〈第一連〉(今は存在しない歴史上の都)ビザンティウム、それは詩人イェイツにとっては若さの国であって、老いの国ではない。
〈第二連〉老いたる詩人は、老いたる国(イェイツの故郷アイルランド)を脱出してビザンティウムへ来た。
〈第三連〉聖者たちよ、死を免れぬ宿命にある私を永遠の芸術品に造りかえておくれ。
 意訳にして極端な抄訳だが、ざっとこんな意味になる。
 これに問題の第四連が続き、今日に至るもなお物議をかもしているのである。
 しかし、この部分だけではわからないが、イェイツ研究の成果を踏まえて考えれば、アイルランドを代表する詩人は、しばしば芸術作品から想を得て詩作しているのである。前半生は神秘主義に走ったこともあるが、これもアイルランドの土地柄がそうした風土だからである。

 詩人は永遠を求めて、自然物ではない人工の金銀細工になることを求めたのである。肉体を離れた後の霊魂の自由を欲したわけではないのだがら、普通の考えではない。故に、イェイツは、他人からは変心と受け取られれ、批難を浴びせられた。
 が、この詩の仕掛けの裏には、アンデルセンがあると出淵博は指摘する。(参①の10ページ)アンデルセンの童話にあるのは、本物のナイチンゲールに飽きた皇帝が、ゼンマイ仕掛けの鳥を寵愛し、本物を追い出してしまう。しかし、皇帝が病気になり、玩具の鳥が壊れると、本物のナイチンゲールが戻ってきて歌をうたい、皇帝をまどろませる。
 つまり、イェイツでは、話のプロットがアンデルセン童話の裏返しなのである。生き物も死ぬ存在だが、機械も壊れる存在。なのに、あえて、機械の鳥のようになりたかったのは、なぜか。これが理屈に合わない選択だから、みなが惑うのである。
 が、ここからが分岐点だ、大事な。正当な英文学者の思考から、われわれSF人が考えることは……。
 玩具を愛する心は深層心理に何らかの理由がある。玩具の動物への関心は直観的知識人によく見られると言われるが、イェイツにも当てはまる。子供にとって玩具は、偽りの世界(空想の)の構成物である。それが夢になって現れるだろうし、詩人に着想を与えるのだ。黄金の鳥は精巧な機械でもある。この精巧なメカニズムは脳を表す。と、解すると機械仕掛けの鳥はイェイツ自身の葛藤かもしれない。彼はこのとき、古い自分からの脱却、詩作の新展開を願っていたにちがいない。
 黄金と宝石に彩られたビザンティウムの示す象徴は何か?黄金は大切さ、宝石は心の世界の全体性、統一性を表すと言われる。イェイツの心は、当時、傷つき悩んでいたのではないだろうか。(参⑥の各項目)
 イェイツが『塔』を上梓したのは一九二八年、ノーベル文学賞(一九二三年)を得て五年後である。前年、肺うつ血となり、スペイン、フランス、イタリアで静養したあと、ダブリンに戻った年であった。すでに人生の栄光は老いにむしばまれていたのだ。
 翌年、遺書を書く。その後は回春手術まで受け、一九三九年他界。享年七三歳であった。(参④、巻末年譜)
 こう考えると、彼の天国ビザンチウムの〈黄金の鳥〉への渇望は、性欲さえも含む現世への執着の象徴に他ならない。(参⑤、28ページ)
 人生前半では超自然界に深くのめり込み、『幻想録』まで書いた詩人は、人生の晩年では現世的欲望に執着するのである。
 『幻想録』は多くの批判を浴びた奇書であるが、秘教哲学そのものである。同時代でも後世でも、決して重要視してはならないと軽んじられる作品だが、むしろSFにとっては意味ある作品かもしれない。

 参考文献
 ①『出淵博著作集1/イェイツとの対話』(みすず書房)
 ②『世界名詩集大成10/イギリスⅡ』(平凡社)
 ③『筑摩世界文学大系71/イェイツ エリオット オーデン』(筑摩書房)
 ④『海外詩文庫9/イェイツ詩集』(加島祥造訳編/思潮社)
 ⑤『英文学ハンドブック――「作家と作品」NO.20/イェイツ』(G.S.フレイザー著/増谷外世継訳/研究社)
 ⑥(ユング心理学をベースとした)『夢事典』(トム・チェトウィンド著/土田光義訳/白揚社)

 【付記】
 1、SF仲間では、たとえば、「彼はサイボーグのようだ」という言い方は日常的によくする。しかし、こうした比喩が成り立つためには、生活空間のなかでの共通認識が前提となる。SF小説とちがってSF批評では、使用する用語が適用できる範囲を推測して、注意深く使う必要がある。
 2、書き手にはそれぞれ得意分野、専門・専攻分野があるが、それ以外のジャンルに属する用語は、再度、慎重に調べ直す必要がある。けっこう、大事なところでのまちがいが、目立つ。
 3、参考文献を上げたら引用・参照のページなり章なりを付記したほうが望ましい。選考委員が引用文献をチェックしやすいからだ。なぜなら、参考文献の意味の取りちがいがあるからだ。乱読は基礎体力向上のために必要だが、もし参考文献であげるのであれば、これを精読するべきである。
 4、受賞を狙うのであれば、構成をすっきりさせるべきである。卒論指導などでもあるが、起承転結を決め、章や項目を考えて基礎プランを起てる。論旨の流れがとぎれる部分があれば、註にして巻末に持ってくる方法もある。
 5、評論に不可欠なのは文の善し悪しである。文体にはそれぞれ個性があるが、読者を引き込むうまさも必要である。悪文が売り物になるのは作家だ。評論はそうはいかない。ひと昔前では小林秀雄の文体が手本であった。
 6、最後に、何よりも大事なのは独自性である。切り口の新しさでもいい。評論は料理のようなものだ。評論家は料理人である。独りよがりの料理では、店に客は来ない。

 以上
 *なお、平成二〇年度SF評論賞の選考経過掲載は、例年どおりならばSFM五月号のはずです。

荒巻義雄(2008/12/19)

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2008年10月24日 (金)

『蟹工船』の次は、トマス・ディッシュの『334』を読もう。

Filed under: 評論 - 岡和田晃 @ 0:24:18

 皆さまこんにちは、岡和田晃と申します。

 このたび、Speculative Japanのメンバーに加えていただきました。以前より、何度か原稿を掲載させていただいております。
 私は1981年生まれですが、ほぼあらゆるスペキュレイティヴ・フィクションが絶版な状態で、SFを読み始めました。そうした出発点に加え、現在の状況を見るにあたり、スペキュレイティヴ・フィクションの文脈は日本における批評的言辞の伝統から、ほぼ切断の憂き目を遭っている印象が強くあります。
 ニューウェーヴ/スペキュレイティヴ・フィクションの傑作の多くがいまだ絶版なままであることは言うまでもありませんが、それに加え、「浸透と拡散」が過剰に進行し、肝心の思弁そのものは「ポストモダン」に耐え切れないと、言説空間からは放逐されかけているところがあるようです。

 かつて、70年代から80年代にかけてのSFファンダム/ファンジンで語られたような、スペキュレイティヴ・フィクションをめぐる熱い論争や批評は、現在は殆ど起こる機会がありません。あるいは、ニューウェーヴ/スペキュレイティヴ・フィクションが目指した文学的/技術的な試みが、きちんと文学史において認識されていない、といった現状があるようです(ぶっちゃけた話をすれば、スペキュレイティヴ・フィクションが「文学」だと主張しても、その特性がなぜか理解されなくなっています。スペキュレイティヴ・フィクションを受容するための「文脈」が欠落してきているということです。手前味噌ですが筆者には群像新人文学賞の最終候補となった「生政治と破滅」という『キャンプ・コンセントレーション』論がありますが、それはこうした潮流に一石を投じようとしての試みでした)。

 もちろん、少数ではありながら、誠実に仕事をされている書き手、読み手は多くいるのは事実です。しかしながら現在の潮流では、例えば、「萌え文化」や「オタク性」については豊穣に語ることはできても、肝心の「スペキュレーション」については何ら言葉がないという逆転現象が起きているように見えるのもまた確かです。
 おそらくは1995年のオウム真理教の事件、さらには2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件などの重みが要求する圧倒的な沈黙に対し、思弁が勝てないと思われているのでしょう。そうして、思弁は技術に敗北せざるをえなかった、ということになります。
 それゆえ、せっかくの傑作が復刊されたとしても、それを受け入れる土壌が整っていない場合が多いのではないかと危惧している次第です。

 しかし、思い返してみましょう。――1970年に荒巻義雄氏が「術の小説論――私のハインライン論」を書かれた際、そこで主張されていたことは、「技術」としての「思弁」ではなかったでしょうか? ウェブ文化が発展をしていくと、いずれ「技術」ではなく、その先の「技術としての思弁」の在り方が問われることでしょう。ひょっとすると、既に問われているかもしれません。そうなると、スペキュレイティヴ・フィクションの復権こそが、絶対に必要になってくるでしょう。

 それゆえ私は、このブログで行なわれている荒巻義雄氏の試みなどに全面的に賛同し、いまいちどスペキュレイティヴ・フィクションの可能性を再検討し、拙いながらも考察を寄せていく所存です。どうぞ、ご批判、ご叱正のほどをお願い申し上げます。
 なお、ブログロールから私のブログ「Flying to Wake Island」をリンクしていただいておりますので、機会がありましたらご覧下さいませ。

 さて、ご挨拶代わりに、増田まもる氏に(拙ブログをリンクする形で)紹介していただいた「『蟹工船』の次は、トマス・ディッシュの『334』を読もう」の全文をこちらに掲載させていただきます。以前、ブログのコメント欄で紹介させていただいたものから、細部を改稿してあります。
 これは、既存のニューウェーヴ/スペキュレイティヴ・フィクションの文脈が完全に切断された状態からSFを読むには、どうすればよいのかという問いをもとに書かれたものです。
 テッド・チャンを発掘したほどの力ある読み手、ディッシュが、なぜ自殺の憂き目に遭わなければならなかったのか。それは単なる「貧困」や「鬱病」ではなく、そこにはある種の決定的な原因があったのではないかと私は認識しております。

 今年は優れた書き手が多く亡くなった年ですが、彼の死を悼むだけではなく、その裏にあるものは何であるのか、いまいちど考えるべきではないでしょうか。そもそも世界でいちばんテッド・チャンを読んでいる日本人が、その師匠たるディッシュを読まずにいるということは、端的に言ってもったいないものと思います。

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 『蟹工船』の次は、トマス・ディッシュの『334』を読もう。

 したがって、審判官のみなさん、死は喜びにあふれており、また確かだと分かったのは、善良な人には、生きているときも死んだ後も、悪いことは起こらないということです――プラトン『ソクラテスの弁明』

 小林多喜二の『蟹工船』がブームらしい。高橋源一郎と雨宮処凛が、格差社会をテーマにした対談を「毎日新聞」誌上で行なった際に、「派遣労働者は現代の『蟹工船だ』」という話になり、それを見た書店員が、格差社会の犠牲者たる「ワーキング・プア」の若者の身上を代弁するものとして、POPを作ったり配置にこだわったりして『蟹工船』を大プッシュしたところ、徐々に売り上げが伸びていき、長じてブームとなったという。
 数年で5000部増刷されたらよいほうだと言われていたこの『蟹工船』が、一躍ベストセラー・ランキングに登場したのだからだから大したものだ。そして案の定、読者の大多数は団塊の世代ではなく、20代から30代の「ワーキング・プア」の若者たちであるという。

 さて、この『蟹工船』ブーム、僕は大いに賛同している。
 というのも、『蟹工船』は1929年に書かれた小説だ(SF的には、H・P・ラヴクラフトが『ダンウィッチの怪』を著したその翌年!)。
 ベストセラーリストにおよそ80年前の作品が並んでいる。これは、すごいことじゃないか! しかも、挿絵(新潮文庫のロシア・アバンギャルド風味の表紙は最高だ)や映画化の力を借りず、内容の良さだけで、売れているのだ。
 80年前に書かれた小説を読むということは、80年前と現代とで何が変わったのか、また変わっていないものがあるとすればそれはどのようなものであるのかということ、すなわち歴史の構造を、自ずから考えていくという作業を意味する。
 そして、いわゆる「ワーキング・プア」の何が問題かといえば、自分の生活とまったくかけ離れた文化に接し、その違いを噛み砕いていくという機会を、完全に逸してしまっているということにほかならない。
 そんな人に、『蟹工船』が読まれるということはすごいことだ。
 「ワーキング・プア」はブームでもなければ、『蟹工船』に出会うことができないのだから。

 こういう話は、視点を高くしてもあまり意味がないので、自分の話をしよう。  2004年、大学を出たばかりの僕は、どうしてももの書きになる夢が諦められなかったので、就職をせずにとある工事現場でアルバイトをしていた。工事現場の作業はたいへん辛いので、体力のない僕は、自ずから職人の手元仕事や、ガラ運びなどの比較的単調な作業を行なうことになる。集合は朝7:30。余裕を見て現場に到着しようと思ったら、およそ6時過ぎには家を出る計算となる。そして、定時で終われば17:00終了だが、だいたい30分くらい時間が延びる。これが、いわゆる日勤のサイクルである。夜勤は、だいたい19:30くらいから、翌朝5:00までという流れとなっている。
 いざ工事現場で働いてみて驚いたのは、どの現場でも、がむしゃらなまでに働き続ける人が多いということだ。日勤を5回やってその週が終わりというのではなく、日勤と夜勤のサイクルを5回ずつやってその週を終えるという人が、決して珍しくなかったのである。
 逆を言えば、そこまで働かなくては人並みに稼げないわけで、それだけアルバイトの賃金が安いのだ。賃金の安さは、労働時間の延長で補うしかないというわけだ。
 実際、僕も24時間連続の現場でタコ部屋のごとき労働を経験したことがある。
 おまけに、「キツい・汚い・危険」の3Kと言われる現場だけあって、引越し作業の荷物の下敷きになってしまいそうになったり、重い荷物に思いっきり指を挟んだり、解体現場で不潔な釘を思いっきり踏んだりしたこともある。幸い、僕は破傷風の予防接種をしていたので、心配せずに済んだが、一現場に100円弱、強制的に徴収される保険料だけで、果たして怪我をした際にいくらもちこたえることができるのか、不安で仕方がなかったのをよく覚えている。一度怪我をすれば家賃が払えなくなり、家賃が払えなくなればアパートを追い出され、一気にネットカフェ難民(もっとも2004年にそんな言葉はなかった)へ転落することとなる。

 さて、僕の現場はまだまだ大したことがない。もっと過酷な状況はいくらでもあり、そのほんの断片が「ワーキング・プア」として、ようやくマスメディアでも表面化してきたきらいがある(例えば、六本木ヒルズが建設中、僕も僅かな期間だけれども、その建設作業に土方として携わったことがある。「何日に、働きすぎて注意散漫になった鳶職人が落下して死んだ」とか、普通に聞かされたものだ)。
 そうしたレポートが最良の成果のひとつが、最近まで〈群像〉誌に連載されていた、雨宮処凛のエッセイ『プレカリアートの憂鬱』であって、この連載を読めば、こうした「ワーキング・プア」の現状が、さまざまな角度から痛いほど理解できる仕組みとなっている。

 話を『蟹工船』に戻そう。『蟹工船』は、わずか税込み420円という低価格で新潮文庫に入っていて、ほぼ全国どこでも購入することができる。「青空文庫」に入っているので、ネット回線さえあれば、無料で内容を読むことも可能になっている。(ネットカフェ難民でもアクセスすることが可能なのだ)ただ、読むためのきっかけが足りなかったにすぎないのだろう。

 『蟹工船』の作者、小林多喜二は共産党の運動家だったけれども、『蟹工船』を読むに当たっては、別に左翼思想に共鳴する必要はない(だいたい、僕も左翼ではない)。
 というのも、『蟹工船』に代表されるプロレタリア文学というものは元来、非常に面白いものだ。
 小説を構成する重要な要素として、小説内で起こる事件が、どれだけダイナミックなドラマツルギーを秘めているのかということが挙げられる。
 プロレタリア文学の主人公は、まさしく生存をかけて労働闘争を行なわざるをえない過酷な状況にあるので、あらゆる事件が、重厚な(悲劇的とも言える)ドラマ性を帯びることになるからだ。
 その意味で、プロレタリア文学において、「労働者」に退治する「資本家」というものは、さながら西部劇における悪漢のごとき、迫力を持って迫ってくることになる。
 ただ、西部劇と「資本家」はだいぶ異なり、プロレタリア小説における「資本家」は、民人を犠牲にして肥え太る、目に見えない純粋な悪意の象徴として描かれる。つまり悪そのものの体現として、「資本家」は小説内に登場するわけだ。
 しかし、『蟹工船』はシンプルな話である。オホーツク海で創業する蟹漁船に乗り込んだ人々は、人権というものを完全に蔑ろにされ、過酷な作業を行なうこととなる。  こうした、「蟹漁船に閉じ込められている」感覚が、そのまま貧窮の結果「ネットカフェに閉じ込められる」感覚とリンクするものとなり、80年近い前の作品であるにもかかわらず、生々しいリアリティを読者は感じることになるだろう。
 もちろん、現代を生々しく描いた作品、例えばサラ金や闇金融の実体が頻繁に登場するコミックの『カイジ』なり『ナニワ金融道』なり『闇金ウシジマくん』なりを読んでも、同様のリアリティを感じることができるだろうが、あまりにも作品内で書かれていることが生々しすぎて、適当な距離を取ることができないのではないかと懸念する。

 ところが、『蟹工船』を読むのであれば、まさに「感情移入」的な同一化をもって愉しんで読み進めながら、同時に、時代性の違いによって、適度な距離をもって作品に触れることができるだろう。
 そして、「ワーキング・プア」が時間的、金銭的に獲得する事を阻まれてきたものは、実のところ、適度に距離を置いて読書を行なうような、「ものごとを考える余裕」そのものなのだ。
 だから、『蟹工船』ブームには意義がある。『蟹工船』によって、「ワーキング・プア」が、自己を客観視できるようになるからだ。
 そして、歴史を意識することで、平面化しているとされる時代というものが、実は過去から連綿と続いている立体的なものであると理解することができるようになるはずだ。

 さて、新潮文庫には、『蟹工船』のカップリングとして『党生活者』なる中篇が入っている。
 これは下手したら『蟹工船』以上に面白い作品だ。密かに共産党員として、にわか軍事契機に活気付く主人公が、アジトを変え、女性の同士を犠牲にしてアジビラを刷り……。必死で抵抗を試みるさまは、文学ならではの切実さと、ジョン・ル=カレのエスピオナージ小説の原型のような、緊迫感に充ちている。
 ただ、非常に重要なものでありつつ、『蟹工船』でも『党生活者』でも触れられないことがある。  それは、人々(あるいは、語り手という「主体」)を「抑圧」する社会が、単なる抑圧者であると言うほかに、どのような構造をしているのかということだ。

 それを考えるためには、ぜひともトマス・ディッシュの『334』を読んでほしい。
 トマス・ディッシュは、SFと文学との境界線を生きた作家だ。
 先日惜しくも亡くなったが、『人類皆殺し』という一点の救いもない侵略SF、ドラマ『プリズナーNo.6』のノベライズ、SFという形式の革新性をそのまま小説の形にした「リスの檻」、あるいはヨーロッパとアジアという境界の問題に鋭く迫った『アジアの岸辺』、アニメにもなった軽快なおとぎ話『いさましいちびのトースター』、批評集“The Dreams Of Our Staff Is Made Of”などで、広く世に知られている。

 そんな彼の残した記念碑的な傑作が、この『334』である。
 ディッシュ中期の代表作としては『334』のほかに、『キャンプ収容』(『キャンプ・コンセントレーション』や『歌の翼に』が挙げられる。これらは、ダンテの『神曲』に準え「地獄編」「煉獄編」「天国編」といった具合に、3作セットで語られることが多い(先日、Speculative Japan」に掲載された渡邊利道氏の論文「ディッシュのいわゆる『神曲』三部作について」を参照のこと)が、『334』はそのなかでも特に、システムとしての社会に、鋭いメスを入れた傑作として知られているだろう。
 ディッシュの筆は、プロレタリア文学な切実さから、まったく目を背けていないが、同時に、冷静さも失わず、意地悪なまでに冷酷に、人々(あるいは主体)を「抑圧」する社会の構造を暴き立てる。

 しかも、SF仕立てを取ることにより、そうした構造をある程度抽象的なレベルにまで引き上げてることに成功しているので、「近未来」を描いているのにもかかわらず、時代性によってやすやすと古びない。
 現に、『334』の原著は1972年に書かれたものだが、ここで描かれた問題系は、35年以上経過した今では、かえって切実さを増してきた気がする。
 作品そのものには、「文学」にありがちな晦渋さ、あるいは難解なところなどはまるでなく、ごくさらりと書き流したようでありながらも、作品を構成している一語一語の端々には、うっかりすると気がつかずに流してしまいそうな、ドス黒いアイロニーが満ちている。
 こうしたアイロニーは、研ぎ澄まされたナイフのように鋭利なものだが、鋭利であるがゆえに、読み手の心に、後戻りできない深い痕跡を残す。この痕跡こそが大事なのだろう。

 そもそも334とは何なのか?
 それは、作品内で描かれる近未来(2021年)のアメリカ社会にいくつも存在する、巨大な建物のひとつに与えられた名前である。
 人口圧迫期(スクイーズ)という名前で知られる、未曾有の人口過剰に困り果てたアメリカは、巨大な公営マンションに人々を押し込めるという「モディカム計画」を開始する。「モディカム計画」とは、単に住居問題を解決するだけではなくて、淘汰の仕組みを社会の隅々にまで行き渡らせることを意味していた。
 すなわち、知能テストや社会階層・人種などによる選別を徹底させ、あるランクに達しないものは、子孫を残すことを禁止する。
 性的な抑圧は劇的に増大し、同性愛や、不自然な性的適合手術が施される。子どもは子どもで、内に眠る凶暴性を密かに増大させ、死体は法律に基づき「有効」に活用されることとなる。
 「モディカム計画」がもたらした抑圧の仕組みは、プロレタリア文学のそれと本質的に内容を同じくしながら、それよりもはるかに巧妙なものとして、人々を蹂躙することとなる。
 『334』では、「ソクラテスの死」、「死体」、「後期ローマ帝国の日々」、「アングレーム」という短編を通して、それぞれまったく異なる角度から、「モディカム計画」がいかに「自然」に人々の間に入り込み、救い難いまでに、人間を、そうして人間性同士を破壊しようとするのかが語られる。
 例えば、「ソクラテスの死」では、子孫を残すための「単位」が足りなくなった主人公の顛末が描かれる。彼は最終的には、絶望の果てに陥り、望んで軍隊を志願し、感情のない「ゴリラ」となるのだが、なぜ彼が「ゴリラ」になるのか、その過程を、作者ディッシュはうんざりするほど巧妙に描き出す。

 ここでは、プロレタリア文学では存在しなかった(もしくはさらりと流されていた)問い、つまり、「なぜ、彼らは『蟹工船』に入ることとなったのか?」というその経緯が、このうえなくわかりやすく書かれている。
 「死体」、「後期ローマ帝国の日々」、そして「アングレーム」でも、同様の経緯が、それぞれまったく異なる切り口から描かれているので、ぜひとも見てみてほしい。
 そして、表題作である中篇「334」は、これらの小説の総仕上げとして、複合型建築物「334」に住む人々の活動を、同時並行的に描き出すことを主眼としている。
 ショート・ショートのように独立したストーリーをもった掌編の形を取って、2021年、2024年、2025年と複合的に描くことで、さながら高層マンションのように、立体性を持った構造を取るのを可能にしている。

 また、掌編そのものも、過去や現在、時には独白や幻想の光景なども交えることで、単に、動物としての人間が生きている場ではなく、精神を持った存在が、泣き、笑い、絶望の淵に沈みながらも必死で生きている場として、それぞれの描き出すことに成功している。

 いわゆる「ポストモダン小説」の多くは、小説に根付いていた既存の因果律を破壊することで、小説を成立させる読み手の(あるいは社会の)通念を解体することに、その目的があるとされる。
 画一化された全体性を通し、いわば神の眼線から、人間を語ることはもはや不可能であるのだから、視点をひっくり返し、地べたから見上げるように、〈人間〉の位置を再定義しようというのが「ポストモダン小説」の仕組みであると短くまとめられよう。
 しかし、「334」はさらにその先を行っている。
 再定義された「人間」なるものの形を、単に自閉されたものとして捉えるのではなく、「人間」をニヒリズムへと追いやる社会の課程を示すように、ある種の文脈をもって並べ替えるのだ。
 「334」で語られるドラマはそれぞれ独立したものであるけれども、それぞれがが響き合って、まったく異なる読みの展開を生む。
 「334」の冒頭には、掌編同士の関係性を描いた見取り図があるけれども、見取り図の縦軸を取るか、横軸を取るかで、浮かんでくる読みはまったく違ったものとなる。
 さらには、見取り図はあくまでも一例でしかないので、読者は、見取り図では統御しきれない、各々の「個」としての〈人間〉同士の関係性に思いを寄せることとなる。
 そしてもちろん、「334」は、「ソクラテスの死」、「死体」、「後期ローマ帝国の日々」、「アングレーム」ら、他の短編とも繋がる部分が多く、「334」だけで完結した話ではなく、さらに開かれた読みの地平を読者へと提示することとなる。

 こうして、『蟹工船』や『党生活者』で描かれたプロレタリア文学ならではの視座というものは、『334』によって、さらに広げられ、深められることとなるわけだ。
 そして何より、プロレタリア文学では描かれなかった、個人に相対する社会構造の性質までもが、多様な切り口から触れられていて、社会システムについての批評的な視座を、読者は身につけることができる(これは、特定の思想やイデオロギーに染まるということではない。ディッシュはいわゆる左翼性についても、たいへん懐疑的なのだ)。
 SFというジャンルが持つ、形式としての広がり(これは、ジャンル小説の技巧を使うことで、貧血気味の「純文学」に活気を注入することを意味する)に意識的であるとともに、イギリスとアメリカを自在に横断し、多様な視座を最後まで維持し続けてきた、ディッシュならではの所業である。
 「文学」なるものはとかく晦渋な表現が鼻につくとして敬遠されるが、ディッシュは本当に巧いので、さらりと読み直しながら、通りすがりざまむこうずねを思いっきり蹴られたかのように、読み手は作者が投げかけた黒いユーモアを抱えさせられることとなる。
 難解な表現、ラディカルな表現が意味をなさなくなってきたこの時代だからこそ、読み直されてしかるべき作品だろう。

 さて、簡単に概要を説明してみたが、この『334』、なんと現在は絶版であり、オンライン古書店を駆使すれば入手は可能だが、かなりの高値がついている(定価は560円と、時代を考えても厚さに比べると驚くほど安いのに)。
 『334』は、極めて現代的なテクストであり、『蟹工船』がブームになるいまだからこそ、より広く読まれるべきだと思えてならない。けれども、絶版で高値がついているという流通面の弱さは、なんとも厄介な問題だ。
 幸い、『334』は、サンリオSF文庫という有名なレーベルに属していることから、文庫本の割には図書館に収蔵されていることも多いので、地道に探してみてほしい。足を動かす価値のある書物なので……。
 英語が読めるのであれば、原書に触れてみるのも悪くない。ディッシュの英語は、決してすらすら読み流せるものではないが、文章そのものが味わい深いし、きっと得るものはあるはずだ。

 だが、本来『334』は、大枚を叩いて優雅に読むといった類の話ではなく、文庫という形で、『蟹工船』とセットで気軽に買えるくらいの価格設定がなされるべきで、好事家ではなく労働者に、ボヘミアンではなく「ワーキング・プア」にこそ読まれてほしい小説だということは間違いない。
 そして、消費され読み捨てられるのではなく、何度もじっくり読み直すべき小説であるとも思う。コミュニケーションを志向するのではなく、考えるための、コミュニケーションを断絶するための小説、それが『334』だ。

 それゆえ、一刻も早く、廉価な価格で再び『334』が読めるようになる日を望むばかりだ。幸い、ディッシュの『神曲』三部作のうち、『歌の翼に』は、国書刊行会から復刊予定に入っているとのこと。もし、この本が評価されれば、『334』、ひいては『キャンプ・コンセントレーション』が陽の目を見る日も来るだろう。
 〈文學界〉誌の2008年11月号では「『蟹工船』では文学は復活しない」という座談会がなされたが、とんでもない。『蟹工船』が読まれているならば、それを契機としなければ何にもならないではないか。認識の幅を少しでも広げる契機として、『蟹工船』は活用されるべきではないのか。

 ともあれ、『334』は決して損はしない本だ。
 『蟹工船』や『党生活者』を読んで、えもいわれぬモヤモヤ感を抱いた人は、ぜひ『334』にまで、手を伸ばしてみてほしい。

(岡和田晃)

コメント (8)(コメントのアーカイヴ無し)

2008年7月27日 (日)

SF批評/SF評論の基礎(その9)―メルロ=ポンティ/身体/ロボット

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 11:28:01

〈評論〉
 SF批評/SF評論の基礎(その9)―メルロ=ポンティ/身体/ロボット

(1)自我(ego)とはなにか/デカルトよ、さようなら
 前回を承け、この機会に、偶然にもラカンによく似た岸田秀氏の理論を応用して、自我形成のメカニズムについて触れておこう。なぜ、必要か。自我の問題は、SFと一般文学をわける重要なキーワードと考えるから……。
 ①その前にちょっと寄り道
 〝われ思う故にわれあり〟と言えばデカルトである。まるで近代的自我発祥の元祖みたいな人だ。デカルトも、感覚でしか認識できない実在を疑った一人であった。しかし、「そう疑っているオレ様の意識は疑うわけにはいかない」という論法で神の実在を証明しようとした、論理の手品師みたいな人物だった。
 手短に言えば、これが〈懐疑論〉だ。だが、人口に膾炙した割には、その後、不毛の議論を人々に強いたのがデカルトの論法であった。
 ところで、筆者の印象を言うと、純文学(私小説)がこうした自分への確固たる信念というか確信から成り立つ文学だと思う。
 ある意味で、純文学は、デカルト的ではなかろうか。
 もとより、純文学を否定するわけではない。たしかに、ごく身近に、つまり肉眼で見える範囲、五感が、直接、効く範囲の出来事を表現する手段としては純文学は有効だと思う。たとえば、アフリカで起きている内戦と飢餓の悲劇。あるいは戦争の悲惨を直接的に体験した場合……。あるいは、明治や大正、昭和初期の私小説を読むと、往事に生きた人間の内面世界が読み取れたりする。
 しかし、この世の中には、人間の直接的感覚を以てしては経験できないものもある。それが先に述べたフッサールの伝聞情報や、神話や宇宙の果てなど空想でしか認識できない領域である。
 筆者は、文学は、自らがが扱う領域を限定すべきではなし、ジャンルによって順位をつけるべきではない。文学は、一九世紀にできた芸術という価値観にとらわれることなく、それぞれがそれぞれの道を歩めばいいと考えている。
 われわれ人間が、緊急の脅威として考えなければならない問題はますます増えているのだ。たとえば、目下、最大の危機は地球温暖化である。これは地球存亡の問題である。
 こうした問題は、たとえば、北極圏に住む人々の目で書くことはできる。肉眼の証言であるからとても強い。ジャーナリストなら取材を含む様々な伝聞情報を交え、ルポルタージュにすることもできる。しかし、SF作家なら別の視点から書くであろう。たとえば、二一世紀人が地球の危機を解決できなかったために破滅してしまった、人類の未來の姿を書く。それぞれ、果たすべき役割がちがうのだ。
 フッサールの認識の三領域の第三(過去未來など行けない世界)に属するジャンルが、SFの世界である。だから、現在からも逸脱する。いや、できるのだ。たとえば、ハインラインの『夏への扉』だ。なにせ、SFの世界には、タイムマシンという超文明的機械さえ存在し、これを実在として受け入れることを条件づけられている。
 だが、実際、タイムパラドックスの生じる世界で、たとえば存在論をわれわれは論ずるができるであろうか。これが可能ならば、完全な〈新哲学〉である。まだ精査途中だが、この問題で見込みがありそうなのが、『四次元主義の哲学―持続と世界の存在論』(セオドア・サイダー著/中山康雄監訳/小山虎+齋籐*人+鈴木生郎訳/春秋社)である。
 また、SFには人間の複製が可能な時代の話も無数にあるが、このドッペルゲンガーならざる完全な実体コピーはどのように育つだろうか。たとえば、彼らの〈鏡像段階〉はどうなるであろうかなど。まさに筒井流思考実験であり、超虚構文学となる。眉村卓の『消滅の光輪』も架空社会を扱った実験小説である。などなど、SFは、多くの未知なるテーマを抱えているのだ。
 筆者はあえて警告したい。日本の今日のようにSFを衰退させているような社会では、社会そのものがいずれ衰退するであろう、と。SFは未知のものと絶えず向き合っているジャンルであるから、あたかも赤ん坊がそうであるように活発に思考する。それが創造力を育てる。事実、若年時代からSFに馴染んだ人は、様々なジャンルで創造的な仕事をしているのだ。
 ②SFは創造的能力を育てる
 超整理法が流行っているが、創造力は知識だけではだめなのである。せっかく資料を整理しても発想に結びつくとは限らず、むしろ少ない。しかも、最近では、書斎の整理法ではあきたらず、インターネットのサーバーと個人的に契約して、大容量の資料記憶をそこにプールさせることさえも流行しているらしい。
 たしかに電子情報は検索しやすい。だが、その前に大切なのは、思考力の強化である。さもないと、情報を解析することも、再構成することもできない。第一、何を検索するかさえも思いつかない。つまり、本物の思考力がなけれれば、情報の海で溺れたり、漂流するだけである。
 実は、『中央公論』(2008/5)に載っていた「何歳になっても思考力は鍛えられる」(外山滋比古著)とあるのを読んでうなずいた筆者であるが、「知ること(知識)と考えること(思考)を混同している人が多いのではないか」という指摘は、経験的にも正しいと思う。知識が多すぎると思考力が怠惰になるのはなぜか。いちいち考えないからだ。自動車の運転とはちがい、慣れは脳力を眠らせる。
 脳を鍛える極意はただ一つだ。とにかく脳を苛めることだ。年をとればとるほど未経験のことに挑戦すべきだ。今どきの本ではなく昔の本、たとえばドストエフスキーとか、筆者は苦手だが難解な原書読解。翻訳ならプルーストとかジョイスを読むのもいいらしい。今や後期高齢者入りした筆者が、挑戦している構造主義哲学以降の理解も、脳の呆けを防ぐ特効薬なのだ。幾何の問題を解く。微積分をやり直す。毎日、日記を書くと脳の覚醒に役立つ。
 語り合えるいい仲間も必要だそうだ。その点、SFのプロダムは昔は凄かった。小松さんが口火を切り、言葉の銃弾を連射する。すると、星さんが絶妙に混ぜっ返し、筒井さんが毒舌をはく。筆者なども先輩らの毒舌の洗礼を受けながら常識脳が破壊され、鍛えられたものだ。こうして常識脳を破壊されたからこそ、筆者はSF作家になれたと言ってよい。
 自分の今考えていることに共感してくれて、しかも同志的というか、何となく温かい雰囲気が必要だ、と外山氏は語る。
 あえてつけわえておく。一般文学とちがい、SFは読者にパラダイム・シフトを強いるのである。
 ③自我はいかにして育つか
 以上はみんな脳の問題であると同時に、心の問題であるが、さて、岸田理論は明快そのものである。
 自我は本能の壊れた人間が、本能に代わる行動規範として築いたものだ――と、岸田氏は言う。つまり、自分による自分の規定、あるいは自分について自分がもっている自分の物語――だそうだ。(『20世紀思想事典』(三省堂)三七八ページ、以下も)
 ローズマリーの赤ちゃんの場合はどうか知らないが、人間は生まれたてのときは自我を持っていない。いわばエデンの時代のアダムとイブのように、自己は外部(対象)と分離していない。現実も空想も区別がつかない状態であるから、まさにエデン時代なのである。つまり、なんでもかなう全知全能感を満喫しているのが赤ん坊だ。
 しかし、母親のしつけがはじまると、欲求への禁止によって、フラストレーションが高まる。赤ん坊は母親のルールを取り入れて、これを最初の基盤とし、自我が発達しはじめる(〈現実我〉の時期)。
 やがて、自分ではなにもできない乳幼児は、母親のほうがが全知全能者だと悟り、この母に頼ってわが身の安全を保つ戦略に転ずる。
 むろん他人依存であるだけに挫折もあるだろう。屈辱もあるだろう。将来寝たきりになった自分を想像してみると、赤ん坊と同じだとわかる。
 赤ん坊が可愛いのは、彼らなりの戦略ではないだろうか、と思うことがある。大人たちに愛されなければ生存できないという切実な事情が、赤ん坊側にはあるからだ。一方、母親は我が子の笑顔を見ると、脳内麻薬が放出されて幸せを感じるのだそうだ。
 さらに、乳児は次の段階で母親像を取り入れ、同一化させることにより、全知全能を自己のものにせんとする。この段階が〈幻想我〉である。
 こうして、新しい自我(幻想我)と〈現実我〉が併存するが、本来は相矛盾するものだ。なぜなら、〈幻想我〉は自尊心を保ち自己の存在価値を支えるものだが、〈現実我〉は現実への適応に必要である。
 が、背反する二つの自我を共存させる必要があるので、幻想我の誇大妄想的部分、現実我のひどく惨めな部分を切り離し、エス(イド)へ追放する(封じ込める)。
 こうして妥協し、適応を試みるが、自我は不安定であるし、たえず追放したエスに背後を脅かされる。
 だが、これこそが、夢の生まれるメカニズムであるし、適応に失敗すると心の病になると言われる。
 以上、正確には伝達できなかったが、いわゆる心の発達がどのように行われるかが、一応はおわかと思う。未來社会での育児や教育システムを考えるときに、留意しなければならない問題点である。
 問題はまだある。これまでの説明は〈心の発達〉だからである。では、肝心の〈心〉はいったいどうして生まれるのか……長年、筆者を悩ませている疑問でもある。ペンローズの量子説の検討を含めて、まだまだ、心の発生問題は奥が深そうである。
 ロボットが心を持つか――という問題も奥が深い。一応、論理哲学からのアプローチが考えられるが、この問題は近世人らが悩み抜いた〈神の実在証明〉と等しく、まさに難問である。
 註、『ペンローズの量子論理論』(ロジャー・ペンローズ著/竹内薫+茂木健一郎訳・解説/徳間書店)
 註、量子力学の波動関数の収縮過程と脳の認知プロセスの関連性を追求。(『中央公論』2008/7月号/「新森の生活」茂木健一郎)

(2)身体はどんな意味をもつか。
 ①次に身体問題である。身体の問題も、実は、哲学の問題であるが、ここではモーリス・メルロ=ポンティを取り上げよう。
 まずは素朴な疑問から。オカルティズムや神秘主義では霊魂は肉体から遊離するとされるが、一般的には肉体に宿る。肉体が死ねば霊魂が分離し、霊魂は昇天し、ふたたび肉体を得る。これが〈復活思想〉でキリスト教の根本原理である。ただし、復活後の肉体は感覚的制限から解放された、より高次なものである。救済もまた神が受肉した人間的歴史に介入して行われる。一方、デカルトはこれを否定し、物質である身体と思考する精神を別の独立した実体であるとした。
 仏教では、万物に自性(ものに固有なありかた)を認めないので、当然、身体も心も因果より生ずる業を受ける無明の場と捉える。従って、仏教は西洋とは完全に反対で、むしろ〈真の存在〉への思いにとらわれる無明から解放されるために、空の実相を悟り超えなければならないとする。
 他、いろいろあるが、メルロ=ポンティはユニークである。が、筆者にはもっともわかりやすいように思われるし、SFにもっとも馴染みやすい身体論ではないだろうか。たとえば、フッサールとの関連で、ロボット問題を考察する場合に……。
 メルロ=ポンティでは身体は世界に着生するのだ。
 人間が住み込む〈世界〉もまた身体である。
 メルロ=ポンティは、ハイデガーやサルトルが強調した実存の投企、超越性よりも、身体的事実性を強調するのだ。
 註、『コンサイス20世紀思想事典』「身体論」の項

 ②SFにとっての身体の意味
 ここで、メルロ=ポンティを取り上げた理由に触れる。
 たとえば、ダイソン博士のように電磁波生命体も存在しないとはいいきれない。生命体が必ずボディを持つとは言えない――というシチュエーションも、場合によっては、書かざるを得ないのがわれわれである。
 映画『ブレードランナー』のレプリカントや『鋼鉄都市』のロボット刑事、あるいは『ターミネーター』など様々だが、彼らの肉体はメタルあるいはポリマーでも肉体があるから理解しやすい。しかし、情報だけという生命体もありうるのではないか。映画ではないテレビドラマのほうの『トータルリコール』の最後に出てくるスーパーコンピュータは、遍在する。秘密基地の単体を破壊しても彼は神のごとく生き残る。彼を殺すには全世界のコンピュータ・ネットワークを破壊しなければならないから、事実上、不可能である。
 昔の情報伝達は人自身が、あるいは手紙など、物質を伴う宿命があったが、二〇世紀中葉には電気や電波という非物資的な方法が開発された。しかし、まだ新聞も書籍も併存して生き残れた。が、第三世代以降となると物質不要、物理的実体不要となり、デジタルICTの時代になった。
 さらに予想される量子情報の時代がくるとすればどうなるだろうか。ボーダレスとは文字通り〈無境界〉という意味。わがSFはそうした空恐ろしくもある世界をも扱わねばならない。
 註、『スタートレック』の物質転送装置、ベスター『虎よ虎よ』の〈ジョウント〉につても身体の意味を考える必要があるのではないか。
 註、クレメント『重力の使命』に出てくる生物にとって、身体はどのような意味を持つか。

 ②さて、ようやくメルロ=ポンティであるが、けっこう難解であるから大胆に意訳する。 まずハイデガーの見解だが、身体と世界との関係で、彼は、身体は〈道具的身体〉として現象する。ハイデガーは言葉を創作するところがあるが、既存の言葉ではどうにもならない領域の話をするわけだから、同様に言葉を創るわれわれSF作家と一脈共通しているのではないかと思うことがある。
 サルトルは〈遺棄〉あるいは〈被投性〉という概念を発明し、われわれはこの世界に捨てられ、あるいは投げ込まれているのだと言った。なんだか、かぐや姫のお話のようではないか。むしろ、グノーシス思想の影響が、サルトルの無意識にあったのではないだろうか、と思ったりする。
 余談を戻して、サルトルにあっては、身体は偶然的な姿である。そうなら、たとえば、カフカ『変身』の主人公グレゴール・ザムザがインカーネーションした甲虫は、彼の必然にして偶然の姿になる。この作品は実存文学と見なしてよいが、となると『重力の使命』(クレメント)の原住民メスクリン人もまた同じだ――などいう解釈をしてはいけないのかもしれないが、われわれはSF人なのだ。
 いずれにせよ、ハイデガーが一時的にもナチズムに荷担したのは事実だし、サルトルは晩年、暴虐王スターリン主義を擁護した。なぜ、これほどの英知が、こうした馬鹿げた過ちを犯したのであろうか。学生時代からこの二人は読みつづけてきたので裏切られた気持ちだ。いったい実存主義のどこに欠陥があるのだろうか。無神論を標榜しながら、結果的に二人は、一種の一神教的教義者となったからではないだろうか。ヨーロッパ文明の思想の根幹にあるものだ。一方、東洋には、アジア的専制主義なる支配原理も存在する。
 一方、メルロ=ポンティは前述のとおり〈着生〉であるから、珊瑚の出産を連想させる。あるいは、〈投錨〉のイメージは、漂白するものがたどり着いた場が世界ということになる。どうも、筆者は、メルロ=ポンティに、漂うものである霊魂の受肉をイメージしてしまう。

 ③ここでアメリカの心理学者J・J・ギブソンが唱えた〈アフォーダンス〉という概念を紹介しよう。この語はafford(提供する)から作られたものだ。ある環境内で特定の生物が生息する際に、その環境がその生物が活動する可能性を提供している。たとえば、陸上生物がいる惑星を想定しよう。その生物が認識するから地表があるわけではない。いてもいなくても地表はあるのだ。生物はそれぞれの環境(提供された)と相互に密接にかかわり、一体となったシステムを形成しているのだ。
 ちなみに、前述『重力の使命』のような超重力世界では、百足のような生き物は、立ち上がって倒れただけでも死を意味する。梯子はメスクリン星では死の道具なのだ。元々、梯子の存在を許さない環境であり、言葉もない。
 メルロ=ポンティと〈アフォーダンス〉を結びつけ、さらに『重力の使命』について哲学的考察ができたとしたら、これこそ本物のSF評論である。
 註、攻略本の一冊として『メルロ=ポンティ哲学研究』(森脇善明著/晃洋書房)を紹介しておく。
 註、『フランス哲学・思想事典』(編集委員/小林道夫+小林康夫+坂部恵+松澄夫/弘文堂)「メルロ=ポンティの項」  註、『メルロ=ポンティの哲学と現代社会・上下』(L・スパーリング著/丸山敦子訳/御茶ノ水書房)
 註、『シーニュ・Ⅰ.Ⅱ』(M・メルロ=ポンティ著/竹内芳郎監訳/みすず書房)

                                (荒巻義雄)
                           (2008/7/26)

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2008年7月27日(日)

緋色の研究と緋文字/コナン・ドイルとホーソーン

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 9:16:42

 〈評論〉
 緋色の研究と緋文字/コナン・ドイルとホーソーン

 『三田文学』(2008/夏季号)に巽孝之教授の『シャーロック・ホームズの街で―小泉信三、南方熊楠、巽孝之丞』という興味深い一文が載ったことをご存じだろうか。簡単に内容を言うと、祖父の巽孝之丞が横浜正金銀行ロンドン支店長として英国で勤務していたことがあり、その社宅がロンドン近郊のストリータムにあった。巽氏はこの街を訪ねるが、シャーロック・ホームズ縁の街でもあった。
 先祖捜しの部分は大いに興味をそそられるが、本稿では シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルについて話を進める。

 ①ストリータム(Streatham)という街
 ストリータムという街がロンドン南郊に存在するが、シャーロック・ホームズの時代、すでに、鉄道が使える高級住宅街であったようだ。(ロンドン中心から南へ約一〇キロメートル/Googleで地図検索可/なおよく似たStrethamはケンブリッジの北にある)
 実は、アーサー・コナン・ドイル(一八五九年~一九三〇年)の『緑の宝冠』の舞台が、巽孝之丞氏も住んでいたこのストリータムなのである。( 『シャーロック・ホームズの叡智』延原謙訳/新潮文庫など)
 物語のあらすじは、ある銀行家が貴重なこの緑柱石つきの宝冠を担保に、多額の融資をするが、うち三個が盗まれてしまう。ホームズは銀行家の邸宅へ行き、見事に犯人を当てる。
 さて、巽氏はここから発して、コナン・ドイルとアメリカ文学との関係について言及するのだ。たしかに、ホームズものにはアメリカが絡む話が幾つかある。
 たとえば、事実上の出世作である『緋色の研究(習作)』(一八八七年)であるが、ホームズとワトソン博士の出会いを語った作品として有名であると同時に、事件の背景にモルモン教が絡んでいるのである。
 巽氏はアメリカ文学の専門家としての視座から、ドイルのトランスアトランティックな視線を指摘しているが、筆者もこれを尊重する。だが、高校時代からのホームズ・フアンとしては、この問題は大いに関心をひく。なぜなら、ドイルが創造した探偵ホームズにはおそよ文学趣味はない――と、ワトソン博士に採点されているからである。ただし通俗文学の知識は幅広く、とくに凶悪犯罪には精通している。(『緋色の研究』)
 むろん、作中人物が即作者の反映は言えない。しかし、ドイルがホーソーン(一八〇四年~六四年)を敬愛していたと指摘されると、いったんは首を傾げざるを得ない。
 一方、ドイルと同時代の詩人エリオット(一八八八年~一九六五年)はシャーロック・ホームズもに強い関心があったらしく、同人が編集人である文芸誌『クライテリオン』の一九二九年春号に、自身の書評「シャーロック・ホームズとその時代」が掲載されていると言われる。しかし、ドイルのほうは、エリオットにはなんの関心をしめさなかったようだ。(註、『シャーロック・ホームズの世紀末』富田太佳夫著/青土社/四八八ページ/以下も)
 エリオットにとって、シャーロック・ホームズものは子供時代からの愛読書であった。
 むしろエリオットのほうがホームズの方法に学んだのではないか――という推測も可能らしい。

 ②『緋色の研究』(一八八七年)と『緋文字』(一八五〇年)
『緋文字』はアメリカ文学を代表する作品、言うまでもなく作者はホーソーンである。緋文字とは姦通(adultery)をあらわす赤い頭文字Aである。しかし、『緋色の研究』は意味する緋色は緋色の糸のことである。作中にもはっきりと書かれており、ホームズフアンには有名な言葉だ。
 〝「ぼくらの仕事は、その糸の束を解きほぐし、緋色の糸を引き抜いて、端から端までを明るみに出すことなんだ」〟(『緋色』第四章にある。最初は『もつれた糸かせTangled Skein』にするつもりだったらしい)
 しかしながら、ホーソーンは、実は大学の学友で第一四代大統領になったフランクリン・ピアース(一八〇四年~六九年/在職一八五三年~五七年)の引きで、英国リバプールのアメリカ領事になり四年間つとめ(一八五三年~五六年)、その後、イタリア旅行を経験し、ゴシックロマン『大理石の牧神』(一八六〇年)に結実するのである。
 しかも、無名のホーソーンを世に出す尽力をしたのが他ならぬポーであった。ポーは探偵小説の始祖の一人であるから、ドイルが知らぬはずはなく、間接ながらホーソーンとも繋がるのだ。
 またドイルの家系は芸術家であるから、親戚の家にホーソーンの本があった可能性もある。

 ③ホームズのモデルは誰か
 『緋色の研究』につづく第二作『四つの署名』は、アメリカの出版社の依頼によるものであった。どうも母国よりもアメリカでの評判が先行したようである。ドイルの家系はアイルランド系であるいし、アメリカの移民がもっとも多かったのがアイルランドである。アメリカとの親和性が元々あったのかもしれない。
 ところで、巽氏によると、ホームズ命名の由来の一つは、一九世紀半ばに医学知識をフル活用したボストン知識人の有力メンバー、オリヴァアー・ウェンデル・ホームズ(一八〇九年~九四年)ではないかという。これは新説ではないかと思う。(巽氏も触れているが)通説は、エジンバラ大時代に師事した解剖学の権威ジョウゼフ・ベル教授である。
 むろん、登場人物は複数の人物の複合体であるから、必ずしもだれとは特定できない。だが、オリヴァアー・ウェンデル・ホームズも、ハーバート大では解剖学と生物学の教授(一八五八年~八二年)あった。ドイルが医学生あるいは売れない眼科医だったころと同時代である。
 実は気になることがある。この人物は、文名も高く、小説『エルシー・ベナー』(一八六一年)という作品があるのだが、ホームズ物では有名な暗号小説『踊る人形』のヒロインがエルシー・カトリックといい、シカゴ・ギャングの娘なのである。単なる偶然であろうか。

 以上、巽教授の先祖捜しが、はからずも、ホームズ再考の機会を与えてくれた。
 コナン・ドイルは『失われた世界』の作者であるから、SFにとっても重要な先達の一人でもある。

  (荒巻義雄)
                            (2008/7/25)

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2008年7月15日 (火)

SF批評/SF評論の基礎(その8)―ラカン問題

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 20:28:08

〈評論〉
 SF批評/SF評論の基礎(その8)―ラカン問題

 (1)SFは超遠近法である
 筒井さんが「SFは超虚構である」と言ったので、筆者は、「SFは超遠近法である」と言うことにしよう。
 では〈遠近法〉とはなにか。perspectiveの語源はラテン語だそうだ。perspicereは「明らかに見る」こと……中世ヨーロッパでは〈光学〉と同意義だったらしい。
 遠近法は透視図法と同じで、奥行きのある現実界を二次元に写し取るための技法である。ギリシアやローマ人によって発見されイタリア・ルネッサンス期に再興された。さらに一七、一八世紀に数学や幾何学が進歩して完成した。
 遠近法は、一般に思われているように、単に絵画や製図の技法にすぎぬだろうか。それはちがう。遠近法を生み出した(考案した)のは、あくまで意思の働きであり、その意思とは人間が世界全体を掌握したいと願う本能の力である。
 ともあれ、遠近法一つをとっても、時代ごとに人間の根本観念がわかる。中世絵画は空中に浮かぶ天使が地上を見下ろす天使遠近法であったし、ルネッサンス期には地上の人間が横に移動しながらの見る地上遠近法にかわった。バロックでは焦点が斜めの位置だったり、キャンバスの外に設定されたりする。
 ところが、二〇世紀のはじめ、さらに様相が一変するのだ。たとえば、ピカソに代表される立体派の遠近法である。キュビズムの画面は様々な視点から見た対象物の面を再構成して創られる。形而上絵画のキリコでは消失点が複数になる。または東洋的な平行遠近法も組み合わされる。エッシャーではさらに発展し、あの奇妙な絵が視角の詐術として提示される。ダリはどうか、ダリの世界は極端な超遠近法である。
 註、一九二〇年代後半、ラカンは自ら申し出てサルバドール・ダリと会見している。シュルレアリスムがラカンの理論構築に何らかの影響を及ぼしたことは否定できない。

 もはや、唯一正統とされる神の視点が粉砕された。美術においてなされたこうした遠近法革命は時代思想の反映であるし、また社会に対して強いインパクトを与えた。われわれの脳は、こうして神学的な束縛から解放されていくのである。
 純文学を読んで見たまえ、私小説でもよい、視点とその文学世界の果てまで距離はあまりない。肉眼で見える範囲の世界である。たとえば、病のために引きこもりとなった子規のように。少なくとの江戸時代の芭蕉のほうが視点は動いた。芭蕉は旅人である。だから動く。芭蕉の俳句は使われいる動詞が力強い。
 〝五月雨をあめて早し最上川〟
 〝集めて速し〟……とても強い動詞である。作者に体力も気迫もある証拠だ思う。
 子規は、
 〝鶏頭の十四五本もありぬべし〟
 ただ観察しているだけで自らは動かない。子規は近代俳句の祖みたいな人だが、子規のように近代自身がすでに病んでいたのだ。その点でも芭蕉は元気溌剌である。意外や、江戸時代は健康だったのではないだろうか、とつい思いたくなる。
 SF作家はどうか。われわれは、ハップル宇宙望遠鏡は盗撮する宇宙の彼方をも幻視する。SF作家は時間さえも超えて旅するのだ。
 〈想像力の文学〉などと気楽に言わないでくれ。〈想像力の文学〉を生み出す脳の中を覗いて欲しい。SF作家の脳内は、まさにインナースペースなのである。
 内宇宙が脳のなかに形成される。〈私〉はアストロノートになってこの距離無限大の空間をテレポテーションするのだ。

 (2)SFと想像力の諸問題/ラカンから解く
 筆者は何を訴えたいか。一九世紀のはじめに、ほとんど突然、主体(人間中心主義)の観念が生まれて神に取って代わり近代に突入したが、二〇世紀はじめに神の後継者となった人間すらも解体がはじまった。人間中心の思想では世界をまとめ切れなくなったからだろう。今日、われわれは宇宙のはじまりが一三七億年前であることを知っているし、大宇宙が猛スピードで拡散していることも知っている。われわれのいる宇宙は、無数のシャボン玉宇宙が押し合いへし合いしているよなうな超宇宙の一つにすぎない……。
 そのような現代宇宙論に馴染んでいれば、自ずと人生観も変わってくる。というよりは、元々、意識のありようがまったく異なるのである。
 これがSFマインドである。科学的にも十分に根拠のある想像の世界で、意識の拡大をはかる生き方がSF人の人生ではないだろうか。あるいは、想像界での旅、まさにセンス・オブ・ワンダーの旅である。

 ――さて、ようやく本稿のテーマに辿りついた。SFにとって重要な〈想像界〉について検討しよう。テキストはジャック・ラカンである。
 狙いは何か。われわれ自身が想像力を発揮するには、自分の脳そのものの仕組みをしらねなければならない。
 そもそもSFはリアリズム(写実主義)とは一線をかくす文学の形式であるが、しばしば、写実主義は現実にそくし客観的であるから上級であり、SFはありもしないことを書くから下級だと思われがちである。では、写実主義とはそもそも何かと問えば、元はラテン語のレアリス(realis)からきた言葉で、〈実在の〉〈現実の〉と訳されているが、これがすこぶるあやしい。哲学用語では〈実在論〉だが、これもあやしい。どうしてかというと、量子物理学の発展した現代の理解では、ほんとうの実在はわれわれが見ている世界とは別なわけであるから……。つまり、われわれは必ずしも世界の真実を認識しているとはかぎらず、不完全な感覚器官によって〈密室の中の意識〉へ〈外界情報〉を取り入れているだけである。そして、脳内で再構成された〈世界像〉を以て、われわれは〈実在〉と勝手に認識するだけである。
 しかも、フロイトの忠実な再解釈者であるラカンの考えによると、脳の仕組みは極めで複雑で矛盾だらけだと言ってもいいらしい。
 ラカンは精神分析家として、フロイトの〈超自我〉〈自我〉〈エス(イド/無意識)〉の領域(むろん、説明のための模式図的なものだが)を念頭に置きながら、〈想像界(imaginary)〉〈象徴界(symbolic)〉〈現実界(real)〉にわけた。むろん、トポロジー(位相)的に。以下、『コンサイス20世紀思想事典』(二九二ページ)他、末尾にあげた参考文献等を参照にまとめておこう。
【想像界】
 まず〈想像界〉であるが、あなたは五歳前を思い出せるだろうか。筆者は五歳以前のことは何も覚えていない。つまり、よく言う「物心付く前のこと」である……。
 ともあれ、ラカンは難しい。なにせ、話が、記憶にもない乳幼児の頃の出来事なのだから、当然と言えば当然である。いろんな解説書にもあたったが同じである。そもそも言葉化が無理なのかもしれない。だから、以下は、かなり、それこそ、筆者なりに想像した自己流解説であるとお断りする。(納得できないかたは、ご自分で、直接、ラカンを読んでください)
 話を戻して、われわれは、なぜ、五歳以後をとぎれとぎれではあるが、記憶しているのかと考えてみよう。それは自分が存在するからである。その前は自分は死んでいるわけでもないのに、生きているのになにも覚えていない。なぜか。自分というものがまだいないからだとは考えられないだろうか。
 幼子はまず自分を周囲から分離することからはじめる。これが、ラカンの有名な〈鏡像段階〉である。どういうものか。ラカンによると生後六カ月~一八カ月のころ乳幼児は、鏡の前でしきりになにか関心があるかのような動作をする。これは鏡に映った自己像によって、自分を統一しようとしているためだ。この時期の乳幼児は神経系統が未発達なため身体の統一感を欠き、ばらばら感覚をいだいているのだ。母親やきょうだい、出会った子供が鏡の代わりをすることもある。類人猿ではきょうだいや水面(鏡の代わり)だそうだ。
 つまり、まだ自分自身を自覚しない乳幼児は、自分以外の他者の像を自己にとりこむ。多分、水面に映った自分の姿にうっとりしたナルシスの神話がそうだと思うが、自己愛(ナルシズム)の契機にもなる。しかも頻繁に他と自は入れ替わり、ときに愛し、ときに攻撃的となりつつ、自他の混同が行われる。
 と言うには、鏡の中の自分(あるいは、父母、きょうだい)は、あくまで虚像であって、自分自身ではないし、身体のバラバラ感を統一してくれる快感の源は、自分自身ではなく鏡の中の自分(他者)である。これは矛盾である。
 註、セトの手でオシリスが殺害され、バラバラにされたというエジプトの神話と関連があるのかもしれない。なお、フロイドであるが、身辺に大量のエジプトの神像をコレクションしていたと伝えられている。
 註、白雪姫の「鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番きれいなのはだーれ」のように鏡はしばしばおとぎ話に登場する。
【象徴界】
 しかし、〈想像界〉にいるかぎり、自分であって自分ではない矛盾というか、宙ぶらりんの状態にいることになる。そこへ〈象徴界〉が侵入してくる。つまり〈自他混沌〉の状態から〈自他分離〉を期すため、言語の力を借りて〈自他の差異化〉を謀るのだ。言語が自立性を持つのが〈象徴界〉である。
 註、精神病の中には幻聴を伴うものがある。言語は生きた人間から発せられるのではなく、患者の意思に関係なくその頭の中に侵入してくる。この言葉のインフレーションが患者を支配し、脅し、あるいは命令する。たとえば、夕方の橋の上で耳をふさいでいる人物の絵があるが、ムンクの有名な作品である。あの絵からもおおよそが想像できるであろう。
 註、混同があると困るので付け加えるが、一般的に言う象徴はラカンの概念とはちょっとちがうようだ。一般的な象徴は記号と同一である。富士山が日本の象徴とされるのは、日本という眼にはみえないものをわかりやすくする〈記号〉と考えてもいいだろう。国旗も同じである。が、あえて区別すれば、象徴と言うときは意味内容をさすし、記号は具体的事物を代理するものである。
【現実界】
 実はリアリズム支持者が信じきっているような〈現実界〉に根ざす〈主体〉などは存在しない。いるのは〈象徴化された自己〉でしかない。
 ラカンによると、非情にも〈現実界〉は、ときには幻覚となって現れる場合はあるが、〈カオス〉でしかない。具体例を挙げれば実存哲学者J・P・サルトルの小説『嘔吐』が、多分、そうだ。主人公のアントワーヌ・ロカンタンは、突然、マロニエの根に名状しがたいカオスを見る。
 〈現実界〉は〈象徴界〉との否定的な関係によってしか定義できない、到達不可能の領域である。
 普段、われわれが、〈私〉とか〈心の中の現実〉〈外の現実〉と思っている、いや信じているのは、それらがすでに言葉(langage)によって、そのように分節されているからである。つまり、『マトリックス』の中の胎児のように、だ。彼らが現実と信じて見ている夢は、ほんとうの現実(真実)ではない。
 ほんとうは、われわれには、この世界(物質界)の真実を見ることはできない。五感という器官によってある見え方(認識の仕方)しかしていない。
 そのようにしか見えて(認識して)いないのである。
 しかし、モノが名状しがたく不気味に突出することがある。これが、先述のとおり、ロカンタンが見た公園での経験である。
 註、二日酔いのために、世界が象の皮膚のように感じられた経験はないだろうか。つまり、われわれが正常と信じて疑わない世界は、あくまでも世界の一つの貌にすぎない。
 筆者自身も、目に見えている外界が唯一の現実であるとは信じていない。学生時代に被験者としてLSD服用という強烈な経験をしたからである。このアルカロイドは神経伝達の生理的連鎖を断ち切るらしく、世界はまるで芝居の書き割り(舞台背景)のように薄っぺらくなり、しかも皮膚が剥けるように景色が次々を剥けていくように感じられた。つまり、実体感が消えるのである。(むろん、正当な手続きを踏まない非合法な服用が、極めて危険であるのは言うまでもない)

[まとめ]
 ●ラカンを理解するにはフロイトを熟知する訓練が必要だが、とりあえずのお薦めは、『ラカン―象徴的なものと想像的なもの』(ジャン・ミシェル・パルミエ著/岸田秀訳/青土社)である。その帯にある紹介文がまとめの代わりになる。
「無意識と言語の関係を構造的に把握し、鏡像段階、象徴界/想像界/現実界、欲望、他者、などの概念を駆使して、精神分析をはじめひろく人文科学に新しい視界をひらいた、ラカンの思想への平明なアプローチ。」
 ●一方、SFとは何か――を、今後も考えるとき、SF小説のほうがリアリズム(写実主義)小説よりも、〈脳生育史〉的にも、〈脳本来の機能〉に対してより忠実だ――と筆者は考えるし、またSF文学をラカンのたすけをかりて精神分析することも可能だと思う。なぜなら「〝宇宙飛行士は現代の天使である〟と述べたラカンのSF観……」という気になる言葉が、『ラカンもしくは小説の視線』(赤間啓之著/弘文堂)の〝訳者あとがき〟にあるから……。
 [その他、参考にした著作]
『精神分析の知』(福島章編/新書館)「ラカン」の項
『現代思想 フォーカス88』(木田元偏/新書館)「鏡像段階」「象徴界/想像界/現実界」の項
『精神分析用語辞典』(ラプランシュ+ポンタリス著/村上仁監訳/みすず書房)「想像的なもの」「象徴的なもの」の項
『フランス哲学・思想事典』(編集委員/小林道夫+小林康夫+坂部恵+松永澄夫/弘文堂)「ラカン」の項
『ポストモダン事典』(スチュアート・シム編/杉野健太郎+下楠昌哉監訳/松柏社)「ラカン」の項
『ラカンの仕事』(ビチェ・ベンヴェヌート+ロジャー・ケネディ著/小出浩之+若園明彦訳/青土社)
『家族複合』(J・ラカン著/宮本忠雄+関忠盛訳/哲学書房)
『パラノイア性精神病』(ジャック・ラカン著/宮本忠雄+関忠盛訳/朝日出版)
 なお、『エクリ』は目下、わが書架より失踪中。

                         (荒巻義雄)
                            (2007/7/14)

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2008年6月27日 (金)

SF批評/SF評論の基礎(その6)―SFと現象学

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 10:41:33

〈評論〉  SF批評/SF評論の基礎(その6)―SFと現象学

 (1)ちょっと寄り道/クラーク・永劫回帰・超人
 A)それは直感によって思いつかれた/巨岩の思想
 〈永劫回帰〉とはなにか。ニーチェは中欧ドイツ、ズールライ付近を散策中、巨大なピラミド型岩体の側で、突如、稲妻のようなイメージに襲われて、思いついたと言われる。一八八一年八月のことだ。いわば霊的衝撃であるから、合理主義者には理解できないはずだ。ニーチェはその印象を「人間と時代を超えた六〇〇〇フィート」とメモ書きしたそうだ。
 実は、筆者も、問題の岩山を見たわけではないが、アルプス北麓独領のガルミッシュ・パルテンキルヘンで巨大な一枚岩の岩体を見た経験がある。そのときの印象は、「まさに〈存在〉が存在している」であった。
 インドの乾期、デカン高原のとある峠で、筆者は〈空〉を直感した。思想の生まれた現場へ行くと、実感的にわかるものだ。
 思想の芽は五感である。日本では画期的新思想が生まれにくいはずだ。、国土が箱庭的だからである。世界のミニチュア、日本からは、世界そのものを揺り動かす大思想は生まれないと思う。
 とにかく〈永劫回帰〉だからすごい。ニーチェは万物や世界を力として捉え、無限ではないとした。なぜなら、無限であるためには、自己以外の余剰から力を補給してもらわねばならない。しかし時間は無限である。とすれば……というのがニーチェの論法であった。
 なるほど、数学的に言っても、無限の時間の中で生起する万物・世界が有限ならば、いつかはまったく同じ状態になるはずである。つまり、どんなに小さな確率でも時間が無限であるならあり得るということ。現代宇宙論に詳しいSF人ならば、ニーチェのイメージが、量子宇宙論などの仮定している宇宙に酷似していると気付くはずだ。
 註、筆者の初期作『大いなる正午』は、四次元の海に防波堤を築くという抽象度の高い話だが、作中〈ニ〉とあるのはニーチェのことであり、題名もニーチェ思想からの借用である。
 B)では、〈超人思想〉とはなにか
 巽孝之は『幼年期の終わり』の〈オーバーロード〉のイメージがそうだと指摘する。(註、『ある思索小説家の旅―アーサー・C・クラークの内宇宙』「SFマガジン/2008/7」)  ニーチェ〈超人概念〉の借用としての〈オーバーロード〉は悪魔の姿をしているが、ニーチェの超人は大地でもあり、人間どもに存在の意味を教える存在でもあり、また〝人間という暗い雲に光る稲妻なのだ〟。(註、筆者の中編『ゴシック』も主人公らは悪魔である)
 この〈超人〉の反対が〈末人〉である。〈末人〉は愛とはなにか、創造とはなにか、あこがれがなにかと反問して気の利いた答えを見つけ出す利口な連中である。最大多数の最大幸福を目指し、隣人愛で互いに暖めあう、刹那的に現在に萎縮した人々でもある――と、そうとう手厳しい。
 さらにニーチェを読んでいると、常に感じる影がある。ニヒリズムである。このニヒリズムはニーチェに個人的なものではなく、伝統的にヨーロッパ人の精神の根底にあるもののようだ。(註、単なる筆者の見解にすぎないが、五万年つづいたウルム氷期の過酷なヨーロッパ半島での記憶が、彼らの潜在意識の中に焼き付いているのではないだろうか。インドの虚無は〈からっぽ〉であり、思弁的だが、ヨーロッパの虚無は一万年以上前に体験された極寒の記憶ではないかと思う。)

 C)ニーチェなくして二〇世紀はなかった
  一九世紀末の行き詰まりの時代に、そのイメージに託して、ニーチェが、突破しようと試みたのが〈超人〉なのだ。この姿が『ツァラトゥストラ』(ゾロアスターのドイツ語読み)のなかに叙事詩的に描かれている。
 まさに、一九世紀から二〇世紀へのパラダイムシフトを断行したのがニーチェだが、彼がイメージした〈金髪の超人〉が、やがてドイツの若者を刺激し、ナチス台頭の重要なエネルギーの一翼を担ったのも事実らしい。哲学がナチスの俗物思想に利用された例でもあるが、その結果あまりにも多くの人々が死に、悲惨を経験した。  が、まだ予感にすぎないが、ニーチェ復活が起こりそうな昨今の世相である。なぜなら、一九世紀末にニーチェが断行した、一九世紀とそれ以前の時代の精算によって、二〇世紀文明がスタートしたからである。
 ニーチェは〈文明の破産管財人〉だったわけである。
 二一世紀にも同じことが起こりつつある。われわれにはニーチェのような〈二〇世紀文明の破産管財人〉が必要である。なぜ、今どき、ドストエフスキーが読まれているのか、と考えるとそうなる。
 地球そのものが大規模気候変動によって破滅しつつあるのだ。
 これほどのニヒリズムが他にあるだろうか。人類生存の危機が迫っているとすれば……。
 今や、二〇文明の申し子である資本主義の原理、〈消費は美徳〉〈大量生産方式〉などが地球破壊の元凶視されているのだ。
 新たな価値観が必要であり、その提案(パラダイムシフト/枠組み変換)は、SF人の手でなされ得るのではなかろうか、と筆者は心中、密かに期待しているのである。

 (2)SFにとってフッサールの使いみち
 A)ドクサ(憶見)とは
 フッサールは難しい。と言うよりは、何を言いたいかがさっぱりわからない。しかし、サルトル、ハイデガーの基礎(ベーシック・プログラム)である現象学は、一応おさえておく必要がある。ここでお断りするが、西洋哲学とは西洋哲学史を学ぶことでもある。自分より前に現れた思想を批判して発展してきたわけだから、原理的にはギリシアあたりまで遡って確かめなけばわからない。
 たとえば、〈憶見〉という概念がフッサールに出てくるが、これはギリシャの概念で〈ドクサ〉、フッサール現象学の根本的方法概念、〈現象学的還元〉の前提になるものである。
 たとえば、われわれの日常生活を振り返ったとき、いちいち身の回りを疑ったりしない。手近なところでは、中国の農薬入り餃子事件、大阪吉兆の使い回し事件、飛騨牛擬装事件など多くの擬装が発覚しているが、長い間、とくに確かめることなくわれわれは勝手に信用していた。これが憶見である。筆者は月に行ったことはないが、人類が月に行った出来事を疑っていないし、火星までいき確かめたわけではないが、今年、火星北極地方に着陸した〝フェニックス〟に、クラクーク他六〇余名の作家の作品を収録したミニデスクの中に『柔らかい時計』もあることを疑っていない。これも単にインターネットの報道を信用しているだけで、厳密には憶見の部類である。
 註、火星に着いた日本作品は、筆者の他に安部公房、光瀬龍、石川喬司である。
 B)石ころはあるか?
 さて、例よってわかりやすい手引き書を紹介しよう。『現象学入門』(竹田青嗣著/NHKブック)だ。これを読めば、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(E・フッサール著/細谷恒夫+木田元訳/中央公論社)という分厚い本を読まずとも、要点だけはつかめるし、「なあんだ」という気分にもなれる。むろん一応は……とお断りしてだが。
 では、近くの公園の転がっている石ころからはじめよう。
「この石ころは存在するだろうか」と太郎が次郎に訊いた。「むろん存在するさ」と次郎は答えた。「どうして断言できるんだい」「昨日もあったし、おとといもあったしさ、さっきも、今もあるからずーと存在しているのさ」
 すると、太郎は、「目を開けているときにあっても、君が目をつむっていたときないかもしれないじゃないか」
 実はこの太郎の言いぐさが『懐疑論』で有名なデカルトなんである。デカルトは懐疑の末にこう結論した。「この石があるかないかは確実に証明する方法はないが、そう考えている自分自身は確実に存在する。だろう、諸君」
 SF人であれば、シュワルツェネッガー主演の『トータルリコール』(映画のほう)を思い出すであろう。お前の見ている現実は、実はリコール社の仮想現実なのだと思いこませようとするシーンがある。そう、バーチャル・リアリティがあたりまえのSFは、デカルトと馴染みやすい。(註、筆者の『火星のアトランティス』もそうした仮想現実が当たり前の未来である)
 若い頃、「自分のいる現実はすべて夢なのではないだろうか」と思った経験はないだろうか。多分、SFフアンなら高い確率でそう思ったはずである。(前回、川又千秋にあえてこだわったのも同じ理由からだ)しかし、すぐに「いや、そんなことはない」とたいていの人は思い直す。フッサールもそのことを問題にした。  要するに、「今が夢の中か、現実か」を決定的、客観的に証明できるいかなる根拠もないが、すくなとも個々人はそれぞれの主観の中(内側)で、われわれは「夢か、現実か」の区別を判断しているのだ。
 実に平凡な結論だ。しかし、これが、画期的な思いつきだったわけである。
 フッサールは「真偽の客観的理由などみつかりっこないのだ。あるのは個々人の〈確信〉だけであり、現象学の役目は、その条件を確かめることだ」とする。
 C)フッサールはSFに馴染みやすい
 フッサールはSF的だ。たとえば、『都市と星』(クラーク)のイメージ。〈セカンドライフ〉のような電脳的仮想世界がより巨大化した情況も未來世界ではあり得る。『マトリックス』はどうか。人間の本体は胎児のような状態で飼育され、しかし、その現実を知らずに幻想世界を現実だと思いこんでいる。
 前掲書の著者も、「いま、ゲームを行うものがこの世界をシミュレーションによる疑似現実であることを知らなかったらどうなるだろうか」と問うている。「彼は、この世界に現れる事物の一切を実在する〝現実〟であると信じるに違いない」。
 SF小説のリアリティは実はそのようなものである。物語も同じだ。小説という形式もシミュレーションの一種であるから、優れたSFや物語では読者はその世界に没入してしまう。しかしも現実感(アクチャリティ)すら感じる。
 もちろん、世の中にはSFや物語の嘘が許せない不幸な人も大勢いるが、日本独自の私小説はそのような人たちのためにある。
 D)意識の部屋は密室だ
 さて遊離魂を信じる人は例外(ほんとうは幻覚)だが、意識というものがわれわれの人体、むしろ脳の中から外へさまよいでるということはない。つまり、意識の所在地は閉ざされた部屋である。しかし、感覚器があれば外部世界の情報を入手できる。われわれの意識は眼・耳・鼻・舌・皮膚などの感覚器を使って外界とコンタクトをとる。それだけではない、情報は蓄積され、再構成されつつ、意識活動が行われるわけだ。
 私小説の舞台はこの感覚器が、直接、外界情報をうけとる限られた範囲で成り立つ。
 しかし、人間の意識活動は、自分が直接、行ったことのない世界にも及ぶ。筆者は北極にも南極にも行ったことはないが、テレビやインターネットからの情報でかなりの知識を得ている。これが他人を介した情報、つまり伝聞情報の領域である。
 ところが『トータルリコール』の世界では、望みの場所へ疑似体験旅行できるし、また疑似恋愛もできる。将来、ますますの拡大と緊密化が確実なインターネット世界は、このフッサールの第二領域へも侵入するだろう。
 さらに遠い第三の領域がある。時間の過去未來、銀河の果てなど。神話世界もである。しかし、フッサールが生存したときには考えられないような大変化が起きている。たとえば、デズニーランドは疑似神話世界である。
 ひと昔は疑似科学といった。しかし、今日では空想がどんどん実現している。ヴェルヌの時代は月旅行は夢だったが、そう遠くない時代、月への観光旅行も実現するだろう。むろん、大富豪向けの観光プランだが、大衆向けの施設へいけば手軽なバーチャル旅行が楽しめる時代がくるにちがいない。

 (3)まとめはまだできない
 フッサールの生きた時代と現代の差は歴然である。フッサールが生存した一八五九年~一九三八年はせいぜい映画の時代である。テレビなどなかった。今はインターネットの時代である。IT革命が今後、バーチャルリアリティ装置をより高度に発達させ、広く普及させるであろう。
 ひと昔前なら火星は蛸のような生物のいる惑星だったが、今では探査機は着陸して鮮明な画像を送ってくる。われわれは居ながらにしてテレビという窓から、火星の景色を眺めることも出来る。
 フッサールが現代に生きたらどう考えたか――と想像するのもおもしろい。  また、フッサールは現象学の概念を物理学のマッハから継承したのであるが、科学技術が哲学思想に先行する一つの例であろう。
 SF人は新しい思想を科学→哲学→SFの順で取り入れることも可能だろうと思う。  だが、まだSF自身の未来像は読めない。(荒巻義雄)
                         (2008/06/27)

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2008年6月22日 (日)

SF批評/SF評論の基礎(その5)―記号表現と記号内容の切断

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 16:51:11

〈評論〉
SF批評/SF評論の基礎(その5〉―記号表現と記号内容の切断

(1)SFのルーツとして未来派運動を忘れてはいないか
 芸術家が政治権力と結びついたために失敗した例が未来派である。そのせいだろうか、わが国でも未来派の評価は今一つである。F・マリネッティは、〈未来派宣言〉を書いた中心人物でありながら、最後は、ムッソリーニ率いるファッシズム党のプロパガンダに協力した。
 とはいえ、未来派の理念は二〇世紀的要素(電灯や自動車、飛行機)にいち早く感応した運動であるから、ヨーロッパはおろか森鴎外(一九〇九年)によって日本にも伝わり、たちまち流行した。(註、日本では東郷青児が未来派の先駆け/二科出品の「パラソルさせる女」一九一六年)
 ともあれ、過激なアジテーションで前世紀(一九世紀)の価値観を完膚なきまでに叩いた、いや罵倒したのも彼らだった。影響は絵画彫刻に留まらず、音楽、建築、演劇、写真など広範に広がり、ダダイズム、シュールレアリズム、ロシア・アバンギャルドへと、より過激に継承されていくのだ。
 しかし、二〇世紀機械文明の感覚的先取りがその特徴だったにもかかわらず、いかなるSF史にも未来派への言及はない(註、初期のSF専門雑誌の表紙にはそれらしき絵も見られるが)。
 が、筆者は、両者の同時代性に注目するのだ。因みに、〈未来派宣言〉が発表された一九〇九年より早く一八六九年にはヴェルヌが『海底二万里』、一八八六年、リラダン『未來のイヴ』、一八九五年、ウェルズ『タイム・マシン』が発表され、わが押川春浪『海底軍艦シリーズ』は一九〇二年~一九〇六年、バローズの『火星シリーズ』は一九一一年、同じくガーンズバックの『ラルフ一二四C四一+』が連載を開始して、一九二五年に終わる。
 このような切り口でみると、SFが二〇世紀という世界史上極めて特異だった時代に遭遇したため、生物遺伝子の変異にも似た質的大変化をした――と見なすことも可能だ。
 少なくとも二〇世紀初頭の時代では、SFは〈科学小説〉と呼ぶのが正しい……ただし〈科学〉の意味が今日とはちがうという条件付きで。この時代では人々の脳裏にあった〈科学〉のイメージは、前世紀を引きずったまま、半ば〈錬金術〉であり〈魔術〉だったのではないだろうか。
 実は、筆者は、昨年の横浜の世界SF大会の〈スチームパンク〉の部屋でパネルトークしたときそう感じた。未来派では〈電気〉が象徴となるが、機械文明の象徴は鉄とガラスでなくて、〈蒸気〉だったのではないか。しかもそのイメージは新たなるパワー源。力の象徴だったのではあるまいか。
 このへんの研究テーマは新戸雅章氏に任せるとして、前文明解体と新文明再構成の狭間で、人間の精神が変調をきたした結果、いわゆるアヴァンギャルドの一角を担うかたちで近代SFが生まれてきたのではないか――という問題提起は可能だと思う。
 註、ロンドンのテート・ギャラリーに行くとターナーの作品が見られるが、彼のイメージのなかに〈蒸気〉は首座を占める。印象派のモネも機関車の出す蒸気を描いた。私見であるが、この時代の人々にとって蒸気がどう感じられたか、ガストン・バシュラール的〈物の精神分析〉が可能だ。
 註、蒸気機関車に対する現代人の憧れも、この時代に移植された文明の記憶の残滓かもしれない。

 (2)ソシュール/シニフィアンとシニフィエ
 ここで、また、一冊紹介しておきたい。『言葉のアヴァンギャルド―ダダと未来派の二〇世紀』(塚原史著/講談社現代新書)。この本の序章に「想像力の二つの方向」という節があるが、あの悲劇的な近代工業製品が使われた第一次大戦前夜までの約一〇年間に、想像力は過去と未来の二つの方向へ向かった。一つはプルーストの『失われた時を求めて』に象徴されるような過去指向。二は未来派に見られるような未來指向。マリネッティは「後ろをふりかえってもなんになるだろう。われわれは諸世紀の最先端の岬にいるのだ」と高らかに宣言した。
 少なくとも、筆者の知る日本SF第一期の雰囲気には、これと同じような、文学を変革するぞという意識があった。未知の荒野を開拓したのが第一期世代である。  話を戻す。前述書の著者は、二〇世紀の特徴を〈切断〉だという。思い切った言い方だが、的確な指摘だ。
 そもそも言葉が指し示す対象と言葉が一致していたのはギリシア時代だった。時代を下るにつれて両者に分離が起こり、一八世紀では決定的になった。言葉と現実世界の乖離が徐々に顕在化しはじめるのである。このことを言語学の立場で明確にしたのが、スイスの言語学者ソシュール(一八五七年~一九一三年)であった。
 みなさんは、そもそも、言葉をどう考えておられるだろうか。それは文学に必要なもの、恋人との語らいに不可欠な物、コミュニケーションの手段などいろいろだろうが、それは言葉の本質ではない。
 言葉は事物の名前だという言い方も不完全である。石にはあらかじめ、存在する前から〈イシ〉という名前があるわけでなく、いつのまにか、あるいは大昔のだれかかもしれないが、必然性があってついたわけではない。これを〈恣意的〉という。
 ソシュールは、言葉が結びつけるのは事物とその名ではない。言葉が結びつけるのは、〈概念〉と〈聴覚映像〉である、という。つまり、たとえば、〈イヌ〉という音から犬の姿を思い浮かべるように、〈聴覚映像〉とは、〈概念〉をあらわす音声がそれをきく人の意識に喚起するイメージである。
 これを言い換えて、聴覚映像を記号表現とし、〈意味するもの/シニフィァン(signifiant)〉という。
 概念のほうは記号内容とし、〈意味されるもの/シニフィエ(signifie)〉と呼ぶ。
 覚え方は「シニフィァン シニフィエ」と何度も繰り返して口癖にすること。絵としては、卵を思い浮かべる。殻がシニフィァンである。殻を割ると黄身がどろっとでてくるイメージで、これがシニフィエ。
 ここまではよろしいですね。
 問題はその先、シニフィァンとシニフィエの間にはなんら契約はない。事物の命名者は神ではない。約束事もないし、法則性もない。つまり、イヌという発音と犬というイメージに結びつきがあるのは、共同体で約束されていることであるから、あなたが勝手にヌヌと発音してもだれにもわからない。しかし、もしもあなたがタイムマシンで遠い過去へ行き、最初に見つけたそれを指さして「ヌヌ」と叫んで、また何万年かタイムマシンで戻ったら、みなが犬を指して「ヌヌ」と呼んでいたいう話はあるかもしれない。
 要するに命名の最初は必然性などなく、行き当たりばったりだったということ。
 われわれの〈speculative japan〉だって、銀座のルノアールで第一回の会合を開いたとき、山野さんが「スペキュラティブ ジャパンでどう」と言い出したので、みなが賛成しただけである。ダダの命名にもエピソードがあるが、でたらめにペーパーナイフをプチ・ラルース辞典に差し込み、偶然見つけたのが赤ん坊言葉のお馬さん(ダダ)だったという(一九一六年二月八日午後六時の出来事)。

 (3)〈シニフィァン/〉の〝/〟は切断を意味する。
 前掲書の著者は二三ページでこう書く。
 〝言語の記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)を切断する区切りの棒線〈シニフィァン/シニフィエ〉こそは、「二〇世紀的なものは何か」という問いに、重大な鍵を提供することになる〟。
 結果的に〈シニフィァン〉は〈シニフィエ〉から切り離されて〈浮遊する〉ことになった。まさにボードリヤール的世界というか、二〇世紀は思想も文学、美術、音楽、建築などの芸術のみならず、広告もマスメディアも、さらにビジネスモデルも、われわれの消費生活もが底なしの拡大を見せ、さらに驚異的な規模と速度で二一世紀を変えているのである。
 おわかりだろうか。高齢者にはわかりにくいかもしれないが、現代に生きる若い世代は感覚的にわかっているはずだ。二〇世紀いや二一世紀とは何かを理解するの鍵は、〈記号の浮遊〉である。
 昔の哲学はそうではなかった。「人間とはなにか」「世界とはなにか」「存在とはなにか」を筆者の世代は問いかけていた。存在論や実存主義を学び、ハイデガーを読み、サルトルで議論し、思索にふけっていたのだった。
 今はそうではない。存在の深奥にあるはずの本質の探究ではなく、世界の表層を漂う現象を捉えようとするのだ。どうやって?……記号論によって。
 本質論者からみればとんでもない話だ。しかし〈世界の表面〉を滑走していく作家が、すでに日本SF界にはいた。想像はすぐできるはずだ。筒井康隆である。
 デザイナーでもあった筒井康隆にふさわしく、〈世界〉のほうがとっくに〈デザイン化〉していたのだ。大阪万国博覧会のころ、すでに。
 現代ではヒトもモノもその表層のかたちの差異によって読み取られ、評価される。デザインというモノが重要になってきたのは、わが国では一九六〇年代であった。日本の戦後SF勃興期と合致するではないか。
 註、われわれのごく日常、消費の世界にも、新たな商品神話が浸透している。『消費社会の神話と構造』(ジャン・ボードリアール著/今村仁司訳+塚原史訳/紀伊国屋書店)参照
 註、筒井康隆『残像に口紅を』(中公文庫)、拙作『柔らかい時計』などは未来派でないかと思う。

 (4)いったい何が起きたのか/神の膠が融けたのだ
 アヴァンギャルドは軍事用語で〝前線部隊〟の意味だそうだ。一九一〇年代のアヴァンギャルドたちは、過去・伝統・権威から現代を切断した。意味と内容の支配から外観とかたちを解放した。(前掲書二六ページ)
 SFについて言えば、前世紀からの伝統はあった。たとえば、映画『ブレードランナー』のプロットは、明らかに『フランケンシュタイン』(M・W・シェリー作/一八一五年)を土台にしている。だが、SF史にとって怪奇幻想文学の流れは重要だが、それ以上に、二〇世紀初頭になにか起こったはずなのである――とあえて繰り返しておきたい。。
 一九世紀という時代が、膨大なエネルギーを投じて行った遺産の整理。むろん、人々の頭の中、観念の遺産整理のことだが、それが終わったとき様々な分野での切り捨てが始まった。あたかも、宇宙へ向かうロケットが燃料タンクを切り捨てるイメージに似ているが、二〇世紀における科学の台頭もヒトの脳の中で革命があったからこそであって、科学が台頭してから脳内革命が起きたわけではない。
 中世を通じて、さらに近世にも神は世界を統一していた。神は膠のように世界を固めていた。それが融けはじめたのだ。
 一九世紀では、神の代わりに、西洋は、理性を発明した。この理性が個人に取り込まれ、近代的自我が生まれる。
 一九世紀はまた主体の時代でもある。芸術の分野だけはでなく経済生活を含む社会全体に広がり、倫理的価値観の規準になるのである。かくして、西欧人にとって、彼らが発明した理性は、自分たちの行為や目的を正当化するのに都合のいいものであった。ヘーゲルに始まる国家理性が、国家の名における非西洋(中近東・アフリカ・アジア)への侵略を正当化したりするのだ。
 一九世紀を〈自我=主体〉の時代とすれば、一九世紀の主語は〈私〉であった。では、二〇世紀は何か。二〇世紀は〈われわれ〉の時代であった。しかし、フーコーはすでに人間の退場を予告している。
 最初は過去のしがらみ、伝統と結びついた権威の切断が行われた。さらに切断はつづき意味・価値観の虚妄に気付いた人々によって、〈意味の切断〉が行われた。学生や市民が大学の権威に「ノン」を突きつけたパリの五月反乱(一九六八年)、一九九〇年ごろのソ連崩壊。そうした日本では戦後が終わった時代(大阪万博以降)とともにわれわれの日本SFは歩んできたのだ。
 こうして切り口を少し変えて見れば、SFは単なる怪奇幻想の祖型からの発展だけでは説明ができず、一九六〇年安保や一九七〇年大学紛争という大きな意味の断層を考慮してはじめてわかるようなところがあるのだ。また、だからこそ、山野浩一氏らの〈NW-SF運動〉の意義ついても評価替えが可能なのである。

 参考文献
 『未来派1909-1944』(アイメックス制作/東京新聞発行/1992年) フィガロに載った『未来派創立宣言(原文)』の写真もこの本で見ることができる。(六〇ページ)
 『ダダとシュールレアリスム』(岩波 世界の美術/岩波書店)

                (荒巻義雄)                          (2008/6/20)

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