寄贈本紹介

2010年2月11日 (木)

「小松左京マガジン」第36号

Filed under: 寄贈雑誌拾い読み - ★荒巻義雄 @ 19:17:24

 いろいろ盛りだくさんで楽しめたが、井口健二著『SF映画評論』の中に名作『メトロポリス』に関する再発見ニュースが書かれていた。約170分のオリジナルがブエノスアイレスの図書館から見つかり、その後、ふたたび、行方不明になっていたが、2010年開催のベルリン国際映画祭で、復元、上映されるらしい。
 高齋正氏のBMWに関する記事も見逃せない。ただし、筆者としては、車よりも戦闘機のエンジンに使われた事実が興味深かった。
 実は、私も、最近、独逸機の資料調べていて、なぜBMWがと不思議に思っていたのである。独軍主力戦闘機フォッケ・ウルフは、空冷のBMW発動機に強制冷却フアンを装備、出力アップをはかった。速力622キロメートル/時は、レシプロ機としては画期的で、無敵を誇ったのである。
 私見であるが、車フアンもだが、第二次大戦時の戦闘機に興味を抱く向きは多いと思う。ところがエンジンに関するまとまった本は、まだ、日本では出ていないのである。
 なお、車評論の専門家であり高齋さんには、今回のトヨタ騒動についても論じて欲しかった。みんなかげで噂しているが、狙われたというか、陰謀のにおいもしないわけではない。

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2009年2月13日 (金)

巽孝之著『想い出のブックカフェ』(研究社)を肴に〈批評〉の批評、すなわち〈メタ批評〉を愉しむ方法

Filed under: 寄贈本紹介 - 荒巻義雄 @ 23:56:28

〈寄贈本紹介〉

 巽孝之著『想い出のブックカフェ』(研究社)を肴に〈批評〉の批評、すなわち〈メタ批評〉を愉しむ方法

 書評240冊、言及850冊とある。やはり巽さんは乱読家である。そのことの証明書みたいな書評集である。
 それにしても、今回は書評の書評を書くわけだから変な気分だ。なぜかというと、他人の本のことに触れた文をうんぬんしてもはじまらない。第一、その肝心の対象著作をおれはほとんど読んでいないのだから……と、書き出しで、すぐ気付く。事実、書評を書評するなんてはじめての経験。そう思って、とりあえず読み始めたら、ありましたよ……「エピローグ」です、332ページです――「たぶん、すべての書評には書評を巡る書評、すなわちメタ書評となる可能性が潜んでいるのだろう」とご本人自身が……。
 ま、そういう次第で、この本の読み方がわかった。
 つまり、この本は、著者である巽孝之個人の読書エッセイ集として読めばいいのだ。そうすれば、巽教授を肴に〈メタ批評〉を愉しむことができる。

 さて、『想い出カフェ』の前半は読売・毎日・すばる・共同通信・朝日の批評欄であるが、筆者の蔵書とは95%以上合致しないのは当然、筆者は上記新聞の読者ではない。
 読んでいるのは日経である。日経の書評欄で本を探し、街の本屋に注文し、届いたら書評切り抜きをはさみ、書棚に置く。樽詰めのウィスキーのように寝かせるわけだが、ふたたび手にしたとき、この書評切り抜きが役立つ。赤線で囲んだ用語が鍵語だからだ。これを手がかりにすれば、全部読まなくてもすむ。
 因みにいま注文中なのが『アメリカ後の世界』(ファリード・ザカリア著)だ。版元が徳間だからあまり信用できないが、書評担当の東大準教授宇野重規氏を信用することにした。このように、街の本屋が次々と潰れる御時勢では、手にとって確かめるわけにはいかない。従って、書評欄は極めて重要な情報源である。
 しかし、近ごろは信用できないものによく出くわす。露骨な仲間ぼめもあり、書評に頼って本を買うまじめな愛書家に経済的打撃を与えるのである。(*〈speculative japan〉の場合は特別で、著者へのメッセージである)
 いつのころからか、文芸作品は、昔のモノを好むようになった。つまり、堅牢な文体を読む、あるいは再読したりする。たとえば、フローベル、メルビル、ジョイス、サルトル、カミュ。最近、川又さんの『幻詩狩り』を再発見したりした。
 これに関連して寄贈を受けている『中央公論』(3月号)の特集がおもしろかった。どうも日本語が滅びるらしい。東浩紀も書いている。「そうか、日本語は滅びるのか、どうりで」と納得したが、論者たちとは別の観点からで、文学以外のもろもろのジャンルを含めて、日本人の文は、最近、美しい日本語と言うのはちょっと気恥ずかしいが、どうも隠し味がなくなった。昔の文にはあった練り込んだなにかがない、厚みがないのだ。あのめちゃくちゃなテレビ語、キャスターや芸人の使うパロール(話し言葉)のせいではないかと思うが。ラング(書き言葉)が脆弱化あるいは痩せてきた。レトリックが昔のように豊饒ではない。言葉に二重三重の意味を込める使い方が、できなくなっているのである。
 ま、とは言っても、年寄りが言えば愚痴になると控えておったのだが、中公特集を読んで、やはり同じ印象を抱いている者が大勢らしいと知った次第なのだ。

 で、閑話休題。
 プロローグを読みおわると、第Ⅰ部、Ⅱ部は省略、第Ⅳ部、Ⅴ部も飛ばし、第Ⅲ部「学術書評の方法―批評的研究の仕事」を読む。滅法これがおもしろい。巽さんの真価がこれでわかるし、第一、ご当人がそう書いておる。すなわち、
「日本を代表する英語英米文学研究機関の学会誌に発表した長文書評の現物を併録したので、さて新聞書評とどう違うかを、どうかじっくり読み比べていただきたい。」202ページ。
 巽さんの師匠のジョナサン・カラー流に言えば、書評は読み手の教養、関心、職業などなど諸々の条件の反映である。が、書評の読み手が、書評家の背景と一致するとは限らない。おれの場合を例にすれば、自身の創作の関係もあり、地政学、国際関係論や国際経済関係書などが必要である。哲学書もだが、当方の要求と前記新聞評とは一致しない。つまり、おれの望む本を見つけてくれた書評家がいい書評家なのである。
 だが、おれも、学者の世界には関心があるし、書評家巽氏ではないアメリカ文学者巽氏の身辺が第Ⅲ部では、生き生きと描写されてる……これが、「学術書評の方法――批評的研究の仕事」なわけである。
 たとえば、カラー他編『むずかしい文章』である。この本が書かれたいきさつはともかく、欧米でも学術雑誌に載る哲学論文の悪文が問題になっているらしい。文章作法を教える講座の教授陣の文が悪文大賞の対象だというから笑ってしまう。  まじめな話、日本の大学では本を書かない先生が多すぎる。たまにもらう紀要でも他人に読ませる工夫のないものが多い。どうも難解と未熟を取り違えているように思える。
 アーザル・ナフィーシーの『テヘランで読む「ロリータ」』もおもしろかった。この女性は亡命者でテヘランから来た。メキシコの国際ペン大会で巽さんが実際出会った一人らしい。こういうところが国際人だなあと思う。
 折しも、オバマさんがイランと話しあいたいと言い出している。いいことだが、イラン国内で英文学を読むことがどんなことか、どんな意味を持つかを考えると、簡単にはいかぬ闇の深さを感じる。
 などなど、それにしても、巽さんは題の付け方がうまい人だ。
 エピログーが、一番、おもしろかった。ちゃんとユーモア感覚があるし、皮肉屋でもあるから、エッセイストの資質十分である。
 とくに八ヶ岳の書庫改装の話は身につまされる。いつか、ある夏の日にでも、〈speculative japan〉のみんなで、この書庫へ押しかけ、カップ麺とかサンドイッチとかを持ち寄り、徹夜で合宿読書談義ができたらいいなあと思った。 (荒巻義雄)

                   初出(書き下ろし)2009/2/13)

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2009年2月13日 (金)

三島の死とスペキュレティヴ・フィクション

Filed under: 評論 - 増田まもる @ 1:24:16

みなさんご存じのミュージシャンで日本のプログレの旗手である難波弘之さんが、高校生のときに書かれた評論『三島の死とスペキュレティヴ・フィクション』を手土産にSpeculativeJapanに加わってくださいました。この評論は若き難波さんのスペキュレティヴ・フィクションの理解の深さを示すとともに、当時のNW-SFのワークショップの実態を伝える貴重な資料でもあると思います。

         *       *       *

 この度、巽孝之氏により、高校時代の恐ろしく背伸びした作文を発掘されてしまった。恐る恐る読み返してみたら、やはり”やぶれかぶれの教養主義”丸出しの、まさに赤面ものの文章であった。
 これは恐らく、だいぶ以前に「SFアドベンチャー」に書いた私の小説「青春小説、または文学する若き難波、音楽する若き巽」に対する、巽氏側からの時間砲(豊田有恒)による報復攻撃であろうと察せられる。
 これはどちらも恥ずかしい過去の暴露であるから、お笑い芸人がお互いの私生活を犠牲に暴露し合うのに似ている。しかし、芸人さんの方が、遥かに暴露しがいのある実入りであるのがちょっと悔しいが(笑)。
 ここに書かれたことはほとんど事実であるが、少しの嘘もある。
 それは、マイルスとハインラインに関する叙述の部分である。
 実は、エレクトリックになったマイルスは大好きであった。むしろ、「ジャズを裏切った」「もう聞く価値はない」と断じたジャズ評論家やマニアに反発を感じていたほどだった。何故ならば、それらの作品に、マイルスのロックに対する自由な精神を感じたからだ。
 ハインラインに関しても、そんなに好きではないにしろ、何もここまでひどく書くことはないだろうに(笑)、と思った。だって私は「SFハンドブック」で「夏への扉」の解説を書いていますもの。まあ、あれが最高傑作だと思っていて、あとはあまり好きな作品がないことは認めるが。
 やはりロックと同じで、アメリカンなハインラインよりも、ブリティッシュなクラークの方が好きだった。
 正直言ってこれらは、ほとんど山野さんの受け売りだったと思う。
 それほど、当時の山野さんにはカリスマ的な魅力があり、その考え方や思想には、惹かれるものが多かったのだ。
 誤解を恐れずに言えば、当時の山野さんのNW-SFの編集室は、まるで後のオウム真理教のようだったのかもしれない。そこには、他には絶対にあり得ない、他では絶対に味わえない独自の世界があった。すっかり忘れていたけれど(笑)、今にして思うと、これは当時のNW-SFの雰囲気を書き記した貴重な記録なのかもしれない。
 告白すると、この文章には、当時の”時代の気分”が色濃く滲み出ている。
 高校生だった私でさえ、70年安保で挫折した先輩たちに、よくオルグされた。「ブルジョワの手先である手塚の漫画は読むな。」「今はロックなどで浮かれている場合ではない、清水谷公園に結集せよ!」などと叫ばれ、正直言ってちょっとうざかった。
 しかし、”反抗的で、とにかくすべての価値観を疑う”という精神だけは、体のどこかに秘かに注入されてしまっていたようだ。
 軟弱豚野郎だった私にとってのニューウエーブは、実はそんなにラジカルなものではなかった。だって、好きな小説は「ヴァーミリオン・サンズ」「地球の長い午後」「プリズナー」だったんですもの(爆)。でも、NW-SFには、何故かこんな軟弱豚野郎でも通いたくなる磁力があったのだ。
 そして、今でも覚えている。ゲストに呼ばれた柴野さんが、頑固と思えるほど自説を曲げず、むしろ他の”いかにもそれらしい”ゲストより遥かにかっこ良かったことを! そしてそれに山野さんがとても嬉しそうに応対しておられたことを!!
 ところで、ここからは言い訳になるが、「他で語ってはいけないルールだったのに、軽々しく書くとは、けしからん奴だ」と思われたかもしれない。「ファンジンではなく学内誌だったら、誰も関係者は読んでいないし、良いだろう」と思って書いたのである。しかし、実際には巽氏に読まれて、こうして公になってしまったので、けしからん奴であることは確かである。山野さん、どうぞ時効と思ってお許し下さい。
 サゲですが、三島に対する考え方だけは、今でもそんなに変わっておりませんでした(笑)、ちゃん、ちゃん。

『三島の死とスペキュレティヴ・フィクション』
                 難波弘之

 昨日、「スペキュレディヴ・フィクションを語る会」というのに出席した。じつは、こういうことを書いてはいけない会なのである。――というのは読むにつれて理解いただけると思う。
 この会は今までSFとよばれていたサイエンス・フィクション(邦訳・空想科学小説)に対する一つのアンチ・テーゼとして、ノーワンダー(今までのSFはセンスオヴワンダー)、ニューウェーヴ(それはSFの新しい波とよばれているため)、ニューワールド(文字通り新世界という意味であるが、ニューウェーヴの作家が育った英国の高級誌の名前をとったもの)を主張する雑誌「NW-SF」のスタッフ等十人によって行われた。彼らの主張は、今までのSFはくだらない通俗的なものが殆んどで、精神的ショックを与えるのにとぼしく、一般文学界から子供の読物と決めつけられるのももっともである――というもので、センスやアイデアばかりにたよった既製SFにかわって、これからはSFをスペキュレティヴ・フィクションと考えよう――という主張である。スペキュレティヴ・フィクションを訳すと「思弁小説」「瞑想小説」となるが、要するに日常性をゆがめたマリワナやLSDのシュールな幻想世界・人間の精神の内宇宙[インナースペース]を指向した小説のことである。
 この会には奇妙(とたいていの人なら考える)ルールがある。一、あたりまえであることについてはのべない。わからないことについてだけのべる。一、人の名前を呼んだり、人の発言中に口をはさみ、あるいは対話形式になってはならない。原則として“青い服を着ている人”とか“めがねをかけたひげを生やした人”とかいうよび方をする。一、難解であることに対し抗議しない。一、いかなる記録、宣言、決議もとらない。カメラ、テープなどは持ち込み禁止。したがって、今僕がこの会のことを書いているのはルール破りなのである。なぜならば誰彼の発言に際しても閉会後は責任をとらなくてよいという最後のルールにも反しているからである。
 この会では、SFの新しい波についての思弁活動がもたらされた訳であるが、そこにおいて問題にされたのは、作家の内宇宙の日常性への拡大ということである。当然、自己の内宇宙を日常にさらけ出しそれをゆがめた三島由紀夫についても話した人がいた。
 三島由紀夫は昔からSFファンを自認していた。(もちろん、三島のいう“SF”とは、彼らに言わせると“古いSF”のことである)自分でも「美しい星」(雑誌「新潮」昭和三十七年連載のち新潮社より単行本となり、四十二年には新潮文庫にもはいった)という空飛ぶ円盤(科学的には未確認飛行物体、略称UFO)や宇宙人を扱ったディスカッション小説(と奥野健男は評している)で、「美」について書いている。
 三島由紀夫は確かに日常性の連続に大いなる衝撃を与えた。では、彼の行為は作家としての内宇宙の発露であろうか? 彼の文学は果して内宇宙の発露であろうか?
 毎朝、ごはんとみそ汁を常食している男がいる。ところがある日突然彼はパンとミルクで朝食をとった。これはその男にとっては日常性をゆがめたことになるかもしれないが、本質的には変わっていないということを、その男以外のたいていの人なら思うであろう。ただ、みそ汁がミルクに変わり、ごはんがパンに変わっただけで、その男が「食事」という日常的作業をしたにすぎないからである。これは、目先が変わっただけのことで、馬をロケットに変え、舞台を西部から宇宙に変えただけの、くだらないSFと同じことである。もちろん、その小説は面白いかもしれないが、別にSFにしなくても西部劇ですむわけである。またそういうものを面白いと感じるのは我々がふだんからもっとも通俗的なテレビドラマなどに慣らされてしまって目先が変わったくらいでだまされてすぐとびつくからである。(ちなみに僕はそのだまされたクチで、世界で一番面白いドラマは「ルーシー・ショー」と「奥様は十八歳」であると信じている。)むしろ、スペキュレティヴ・フィクションは日常的なものを扱っても、それをいかに狂気的に変えるかという点に重きがおかれるべきであろう。だからたとえば俳優は浅丘ルリ子や関口宏でもいいわけである。それをつかっていかに精神宇宙を拡大せしめるかが問題なのである。ジャズで言えば、ロックをぜったいにうけつけないセロニアス・モンクが自己の世界を持ち守りつづけているのに対し、マイルス・デイビスがロックをとりいれてもあいかわらず十年前と同じことをバックだけ変えてやっているようなことである。マイルスも十年前の姿勢を保ったほうが良かったと思う。閑話休題。
 三島由紀夫は、自己の精神宇宙で日常に狂気を持ちこんだ。それは文学とか芸術とかいう娯楽的なものではなく、政治とか思想――というよりも彼の場合は彼自身の内宇宙から発露した美意識の対象がたまたま政治であったといった方がより正確かもしれない――とかいう真剣なものであったという違いはある。が、手段はともかくとしても日常生活にショックを、また問題をなげだした点ではかわりない。しかし、彼自身の内宇宙の内容はおしむらくも、ごくつまらないものであり、くだらないものであったと言わざるを得ない。ちょうどロバート・A・ハインライン(著名なアメリカのSF作家。「夏への扉」「人形使い」「宇宙の戦士」「異星の客」「地球の緑の丘」などの作品があるが、最近では右翼反動であるという非難もある。とくに「宇宙の戦士」をめぐって米国や日本でファシズム論争がおこった)のSFが、実にくだらない貧弱な彼の精神内宇宙と、思想ともよべないような内容の思想のため、本が厚くファンも多いかわりに嫌いな人(もちろん“新しい波”をめざす人々)の多いのと同じように。ハインラインは力作を書けば書くだけ陳腐で通俗的になってゆく作家のようである。三島は、決して通俗的ではないが、文章の華麗さのわりに内容は古くからのくり返しにすぎない。(言ってしまうと、文章そのものも)ただし、ハインラインよりはいくぶんましで、内宇宙を作為的に「美」に再構成しようとしている。三島の小説の殆んどはその再構成のみに力を入れすぎ、整いすぎたきらいがある。ウインドウに飾られたさもおいしそうなロウ細工のごちそうのようで、実際に出てくる食事とは大ちがいなのである。通俗小説やテレビドラマの大半はやりそうなこと、書きそうなことがわかってしまっている。つまり地平線がミエミエなのだ。今までのSFの半分は地平線がミエミエであるといってよい。
 日常生活にどっぷりつかっている我々に、テレビはさらにホームドラマを見せようとするのである。そこではわれわれと同じような家庭で俳優が我々と同じような生活を送り騒動をおこしたりしている。必ずといっていいくらい縁談が出てくる。たいていものわかりのいいおとうさんかおこりんぼのおとうさんがでてきて、ちょっとトンマな息子がいる。…こういうものを見つけていると、つまらないものでも面白く感じてくるからこわい。すでに僕も君もあなたもその患者のひとである。つまらぬたいくつな女の一生を書いた小説などが最高峰であるとされている今日にこそ、スペキュレティヴな芸術が必要なのである。「サインはV」とか「柔道一直線」とか「ウルトラマン」とかに夢中になるようではいけないのだ。このようなパターン化されたドラマは、我々の思考をパターン化し、誰も彼も同じようになってしまうのだ。地平線ミエミエ同志になってしまうのだ。
 もちろん、面白ければなんでもいい、変わっていればなんでもいいというわけではない。そこには当然まじめさが要求される。ハインラインが自分のつまらぬ作品を今だに本気で書いているというのは大変なふまじめさである。日本の作家の殆んどが似たりよったりの――最近はなんとまあわがSF作家までも墜落しかけているとは!――面白くはあるけれどくだらないものを書いている。これもかなりふまじめな態度と言わなければならない。
 ぼくが三島由紀夫に注目する(決して支持するのではない)ただ一つの点といえば、彼の美意識であろう。三島は探偵小説は嫌いだがSFは好きであると言っている。探偵小説(当節はハイカラに推理小説とかミステリとかいうようであるが、ミステリというと広義にサスペンスものからロマンチック・スリラー・エスピオナージまで含んでしまう。僕は探偵小説という大正、昭和初期のいい方を好んで用いるのは、謎解きの本格味あるあのなんとも言えぬ醍醐味を愛しているからである)ではエラリー・クイーンの傑作「Yの悲劇」を、“探偵が恐ろしくキザで鼻持ちならなく作風も肌に合わぬと三島らしい感想をもらしている。ところが彼は江戸川乱歩にだけは共鳴していたようである。
 その証拠として彼は乱歩の「黒蜥蜴」を子供のころ読んでいたのを記憶していて戦後婦人雑誌に脚本を発表している。(現在は単行本になっている)これはのちに劇として二回、映画として一回とりあげられている。一番最近では丸山明宏が黒蜥蜴に扮し、三島もその肉体美を女怪人黒蜥蜴の悪魔の剥製展示室で見せている。女賊黒蜥蜴は、若者の肉体美を永遠に残すためと称し次々と美男美女に触手をのばす。そして剥製にしてしまうのである。これは恐らく蝋人形以上のオカルティズムである。三島の「美学」とどこか共通点があるような気がする。もちろん、若者の肉体が美しいからといって人を殺してよいはずがない。日常生活の常識では考えられない狂気の美学と言わねばならない。彼のいだいていた幻想――祖国日本への叶わぬ夢と天皇への異常な崇拝――が狂気に近く、もはや右翼とかそんなものではなく、それを越えたむしろ芸術の領域に近い狂気に近かったことに、もし彼が一度でも気がついていたならば、もっと早く死んでいたはずであるが。彼の美学は、いかに乱歩が再評価され、女装の美少年ピーターが現れようとも、日常生活にまかり通るものではないのだ。日常生活はホームドラマは、それをくいとめてしまう。狂気には限界がある。三島はこれに気づいていない。頭はいいが、カンの鈍い人間であったと言わねばならない。あるいは気づいていたが、あきらめきれなかったか。三島はそこいらへんの右翼(こんなことを書いてはそこいらへんの右翼に悪いが……)とはハッキリ一線を引いて区別されてしかるべきなのである。むしろ赤軍派などの極左(実は新聞にそう書いてあるのをごく日常的にふまじめにうのみにしているので、今ごろは全部赤軍派は私服警官が化けていて、警官が全部赤軍派になっているのかもしれない)に行動の点では近い。しかし、赤軍派に江戸川乱歩の美学がわかるはずがない。したがってそれともまたちがう。
 つまり、日常性をゆがめるゆがめると今まで簡単そうに書いてきたが、実は大変なことなのである。一番理想的な状態は気が狂ったとか精神がおかしいとか一般的にはよばれる状態である。しかし、これは当事者以外が見て面白い(ちょっとひどい表現であるが)のであって、まじめに気が狂っている当人にしてみれば、面白がって自分を見たり、こわがって自分を見たりする正常人が、非常にふまじめに見えるだろう。マリワナやLSDのシュールな幻想世界はこの逆の作用である。マリワナやLSDを使う者は、これからはいる世界が幻想世界であることを知っているのだから。しかし酒やタバコより害がないと言われながらも、まだ安全とはいえないマリワナを服用するわけにはちょっといかない。
 そこでSFの“新しい波”の人々は、ヒッピーがマリワナに求める精神的ショックをスペキュレティヴ・フィクションの興奮に求めるのである。その点で、三島のように純粋に幻想を作為し、そしてそれを狂信するのが最も理想的であるといえるが、それでは常日頃から狂っていることが必要になってくるので容易ではない。まして他人に危害を加えるとなると、日常生活の常識にどっぷりつかっている我々としては、それを認めるわけにはいかない。つねひごろから狂っていると、どれが精神的ショックかわからなくなってしまい、それそのものが日常性になってしまうので他人への害を加えやすくなり危険である。話題となった女優シャロン・テート殺しのヒッピーたちや、ベトナム戦争で神経がマヒしておこるさまざまな残虐行為を見れば一目瞭然であろう。
 だからこそ安全なスペキュレティヴ・フィクションを! ニュー・ロックの狂熱を! ジャズを! 僕の場合はバッハのオルガン曲や、ドストエフスキーを!――我々は指向する。

 江戸川乱歩の愛したことばである。“うつし世はゆめ 夜のゆめこそまこと”

 最後につけ加えるならば、これだけ日常性を攻撃しながらも、結局は「奥様は十八歳」とか「コント55号のおとぼけ人間学」にチャンネルをこれからもあわせ、とるに足りぬことでケンカをし、女の子のことで親に誤解され、かわいい僕のメリーちゃん(筆者註残念ながら西洋少女ではなくメス犬)にペロペロなめられ、日常生活はけっこう正常に進行するのだ。(一九七一年一月一六日)学習院高等科 雑誌 高等科 8号掲載

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