インタビュー

2009年11月14日 (土)

テッド・チャン インタビュー 「地獄とは神の不在なり」を巡って

Filed under: インタビュー - 藤田直哉 @ 21:53:05

■このインタビューは、テッド・チャンが来日した際に藤田が無理を言ってお時間をとっていただいて行ったものである。語学力の問題で、NIPPONCONでチャンのパネルの通訳をされた海老原豊氏に助っ人をお願いしたのだが、藤田があまりにも英語が駄目であったために、実質海老原氏がインタビューしており、藤田は質問の元素材を用意したに留まっている。翻訳や文字起こしも含め、多大な労力を割いていただいた海老原氏に感謝の念を示したい。インタビューをさせていただく際にご連絡などでお手数をとっていただいた翻訳者の小川隆氏と立花眞奈美氏、そしてなによりお時間をとっていただいたテッド・チャン氏に多大な感謝を示したいと思う。

――まず、チャンさんの作品について質問したいと思います。『あなたの人生の物語』に集録されている短編を、発表年代順に読み直してみました。すると、「バビロンの塔」(九〇年)「理解」(九二年)「ゼロで割る」(九一年)などの初期作品と、「あなたの人生の物語」(九八年)「七十二文字」(〇〇年)「人類科学の進化」(〇〇年)「地獄とは神の不在なり」(〇一年)などの近年の作品には違いがあるように感じました。前者は無限や抽象概念としての神に焦点をおいているのに対し、後者は神の不条理さといった私たち人間の理解の範疇を超えているものに焦点を当てているように感じました。あなたの神に対する考え方は変化しましたか。

 いいえ。個別に物語を見ていけば、それらの中で神に対する考え方の対立や変化をみつけられるかもしれないけれど、僕の中で何か変化があったわけではないよ。基本的に、僕はSFを書こうと思っていて、だから僕の作品の大部分はSF。ただし例外はあって「地獄とは神の不在なり」だけはSFではなくファンタジーと思っている。「バビロンの塔」といった物語に登場する宗教は、結局のところ、一部の登場人物がする解釈の問題に帰着する。この物語には神の存在を指し示す確実な証拠はない。神が存在するかどうかは登場人物によっている。つまり、彼らがどうやってその証拠を解釈するかということに。神の存在を示す証拠だと考えることもできるし、純粋に機械的な宇宙の存在証明だと考えることもできる。「バビロンの塔」の宇宙とは僕たちの宇宙と似ていて、違っているのは視点だけ。その世界ではどちらの見方がより一般的なのかが問題となる。

 かつて宗教と科学の間に対立はなかった。科学者たちは自分たちが研究しているものは神の存在を示す証拠であると考えていた。神の栄光であるとか神の創意であるとか、そういったものを示す証拠である、と。違っているのはものの見方。「バビロンの塔」が反映しているのはこの視点で、僕が思うに物語の視点は、僕たちの世界と何ら矛盾することはない。解釈の問題なんだ。

「地獄とは神の不在なり」は全く異なる宇宙に属している。その宇宙では神は厳然と存在している。この物語の宇宙は僕たちの宇宙ではない。実は僕たちはこの物語のような宇宙に住んでいるのだと信じたがっているものがいることは、僕も知ってる。もし、神が実際にこの宇宙に存在し、僕たちに積極的に関わってきているのだと信じると、不都合な結論が導かれる。それが「地獄とは神の不在なり」が宗教を肯定するというよりも、批判していると感じられる原因なんじゃないかな。

――「地獄とは神の不在なり」で「神」以外の言葉を用いて、あの現象を描こうとは思いませんでしたか。

 いや、それは考えなかった。確かにこの物語は僕たちの宇宙を舞台にしていない。でも下敷きになっているのはキリスト教であり、聖書、それも旧約聖書なんだ。この物語がキリスト教に似ているというと強い反発を覚える人もいるかもしれないけれど、とにかくキリスト教に触発されて書いた。だから例えばジュピターとかではなく、キリスト教の神でないと。

――「七十二文字」や「地獄とは神の不在なり」では私たちの世界をすべる規則とはまったく異なる規則からなる宇宙が描かれています。

「地獄とは神の不在なり」は僕のほかの作品とわけて考える必要がある。「七十二文字」は「バビロンの塔」と同じカテゴリーに入れられる。これらの物語はかつて人々がどのように宇宙を見ていたかをおおよその形で描こうとしたものだ。「バビロンの塔」では、宇宙をかつてのバビロニアンたちがそうとらえていたであろう姿で描いているし、「七十二文字」では、宇宙は十六世紀の科学者たちの見方に従って動いている。これらの物語は、かつて人々が持っていた信念がもしも正しかったらどうなるだろうという疑問から生み出された。もちろん、彼らの信念は間違っていたと現在では分かっているけれど。

「地獄とは神の不在なり」はこれらとはまた別のもの。この物語は、今日でも実際に信じているものがいる宇宙を描いている。現実世界では、彼らは神の行いを信じていても、それらを実際に見ることは難しい。けれど僕の物語では、それらがはっきりと目に見える形になっている。だから「地獄とは神の不在なり」と「七十二文字」は別のカテゴリーの作品だと思っている。

――チャンさんは、他のインタビューやエッセイなどで宗教と科学は対立する必要はないとおっしゃっています。しかし現実には宗教と科学は衝突しています。どうして現在、両者は対立しているのでしょうか。

 科学は宇宙の仕組みについてのもの。宗教はもっと限定的な問題、たとえば他者に対してどう振舞えばよいのか、どうすれば倫理的な人間であるのかといった問題についてのもの。宗教家は進化論が嫌いだが、それは進化論が人間の振る舞いについての自分たちの考え方と対立していると考えているから。そんな対立なんて存在しないと僕は思う。僕たちが動物から進化してきたとしても、人間の振る舞いについての決まりを考えることはできる。宗教家が恐れているのは、もし僕たちの先祖が動物だったとしたら、自分たちの倫理体系の土台が崩壊してしまうのではないかということだと思う。もし、自分たちの宗教と異なる体系を受け入れることができれば対立することはない。宗教家は宇宙の仕組みについてまで主張していて、例えば宇宙は六千年前にできたといったりする。でもこれは行きすぎで科学と対立してしまう。

 ――チャンさんのその考えは、「あなたの人生の物語」「商人と錬金術師の門」と関連しているように思います。というのもこの二作とも扱っているのは自由意志と決定された時間の関係についてだからです。議論を引継いでいえば自由意志とは宗教の、決定された時間とは科学の扱う領域となるのではないでしょうか。

 長い間、科学はある任意の瞬間の状態というのはそれより前の状態の結果であるという考え方に基づいていて、古典的機械論から相対性理論までこの決定論は様々な形をとってきた。決定論的な考え方は説得力があると僕は思っている。とはいえ、それでもなお僕たちは自由意志を持っている。決定論は僕たちに何ら影響を与えない。僕たちは何かを選ぶ能力を持っていると感じているから。問題が起こるのは未来についての情報を手に入れることができたときだけ。

――あなたは「予期される未来」という短いエッセイ風小説で未来を知ることについて否定的に描いています。もし私たちが未来の全てを知ることができるのであれば、私たちは生きる力を失ってしまうだろう、と。例えば、カート・ヴォネガット・ジュニアは『猫のゆりかご』のなかで「安全な嘘を信じること」の効用を説いていますが、このことについてどうお考えですか。

 僕たちは未来を知ることができない。だから、全く問題ないよ。問題が起こるのは、僕たちの未来に何が起こるのか正確に知ったときだけど。僕たちは未来がわからない。問題ないね。

――それでは、私たちが未来を知ることはできると思いますか。さきほどチャンさんは「現在の様子は過去の様子の結果である」といわれましたが、これを敷衍するならば、「現在の様子を完全に記述することは、未来の様子を完全に記述することになる」といえないでしょうか。

 それはないね。

――どうしてでしょうか。

 もしタイム・トラベルが可能であれば、それはできる。でも、タイム・トラベルが不可能であることはほぼ確実だといわれている。じゃあ、未来をシミュレートするように記述することはどうかといえば、そこには複雑系の属性が現れる。僕たちは未来を性格に予測することは不可能だ。例えば、一年後の天気を正確に予測しようと思ったら、その大気中のセンチ立方単位で現時点の情報を全て手に入れなければならない。そんな膨大な情報を手に入れることは現実的に不可能。二年後といったさらに先の未来を予測するためには、現在の大気中にある分子レベルで情報全てを手に入れなければならなくなるだろう。つまり、より先のことを予測するには現在の状況をより詳しく知る必要がある。それを続けていくと、やがて予想は正しくなる。そしてそのシステムがどのようなものであるのか正確に知ろうとしたら、最も手っ取り早い方法は、システムそのものを走らせることだ。真の複雑系をシミュレートすることとは、それ自体を走らせることにほかならない。だから、僕たちが未来を知る一番の方法は、ただ単純にこの宇宙に全ての情報を処理させることで、宇宙よりも単純なシステムは全て不確かな結果しか生まない。

――「あなたの人生の物語」に登場した宇宙人ヘプタポッドの非線状言語は未来を予測できていましたが、そのような形での未来予測は可能だと思いますか。

 それもないと思う。「あなたの人生の物語」のヘプタポッド言語は完全な作り物。もし僕たちが未来について知っていたら面白い物語が書けるだろうと思った作品に登場させたけれど、僕自身はああいった言語が可能だとは全く考えていない。僕たちがそれを手に入れることができるとも思っていないし。

――私が「あなたの人生の物語」で面白いと思ったのは、ヘプタポッド言語が私たちの言語の線状性――過去、現在、未来という一本の線――を完全に壊している点でした。もしヘプタポッドがいるならば言語を学んでみたい、そして語り手ルイーズと同じような経験をしたいと強く思いました。

今度は作品から離れたことについて教えてください。クラリオン・ワークショップについては別のところで話をされていますが、ぜひ作家志望者へ――SFのみならず一般的な小説も含めてですが――チャンさんからのアドバイスがあればお聞かせください。

 書くことについて、僕はいつもアニー・ディラードの言葉を引用することから始める。かつて彼女はこう言った。「自分の興味をかきたてることについて書かれたものを探してみてはどうか。うまく説明できないけれど、強い興味をもつものはある。どうして興味を持つのか説明するのが難しいのは、それについて書かれたものを一度も読んだことがないからだ。これこそが自分にとってものを書く動機となる。それを書いてみたいという衝動が生まれる」ディラードのこの言葉は、どうして僕は書くのか、どうして他の人たちが書きたいと思うのかを本当にうまくとらえていると思う。

 自分だけが語ることのできる物語というものがある。それに対してたいていの人が語ることのできる物語というのもあるけれど、これは数も多く、どれも極めて一般的で形式ばったものばかり。そうではなくて、ただ一人自分のみ語ることのできる物語というのは、ほんとうにわずかしかない。何かを書きたい、作家になりたいと思うことは、自分しか語れない物語がどういったものであるのかはっきりさせようとすること、そしてそれらの語り方を身につけることだ。止まることのない進行中の過程。でもそれが作家であるということなのだろう。

 作家としての仕事を始めるようになると、おそらく他の作家をまねしようとすると思う。僕もそうだったし、みんなそうだったと思う。他の作家をまねしようとすることはとても役に立つ。そこから学ぶことはたくさんある。ただし、最終的な目標が他の作家の模倣に終わってしまうのはまずい。例えば僕がコニー・ウィリスみたいに書きたいと思うとしよう。コニー・ウィリスのように書くことを学ぶのは別にいいし、それができればできたで問題はない。けれど、僕たちにはコニー・ウィリスがいるわけだし、コニー・ウィリスはコニー・ウィリスの物語を書いている。書くことを仕事にしているのならば、自分の物語を書かないとね。作家としての自分の「声」を作れるようになると、コニー・ウィリスにとってのコニー・ウィリスの物語のように、自分自身の物語を見つけることができる。

 自分の物語は自分の読者へと届く。読者はそこにいて物語を読み、言葉で表現することができなかった欲求を満たし、その物語の独創性を認めてくれる。「自分らしい声」をもつとは、自分が好きでたまらないもの、かつて見たことのなかったものを見つけられること。自分と同じようにその作品を切望している人は確実に存在していて、その人たちが本当の観客、真の読者になってくれる。そうやって自分の読者に向かって書くことはとても大切なことなんだ。自分の読者はひょっとするとそう多くはないかもしれない。だから、自分の作風を変えてもっと多くの読者に合わせたくなるかもしれない。もちろんそうやって作風を変えることもできるだろう、けれどもそんなことをしたところで、最終的に満足は得られないだろう。本当の読者を失ってしまう。

 自分自身に忠実であること。これもとても大切なことだ。自分の好きなことをしなさい。そして、もし物語を読んでくれたときに自分の物語に込めた思いまで共有してくれるような人たちがいるのであれば、自分の好きなことをできる限り分かりやすく彼らへ向けて表現しなさい。たとえ彼ら少ししかいなかったとしても、自分自身に忠実であることがなにより大事だと思う。

――作家にとってもっとも必要なものは何だと思いますか。

 作家にとってもっとも大切なことは何かってこと?

――はい。ペンですか、コンピューターですか?(笑) なんでも構いません。

 うーん、僕はペンやコンピューターが大切とは思わないな。

 繰り返しになるけど、自分自身に忠実であること。これが一番大切。自分自身を信じないとね。というのも、書くことというのはとてもつらい作業でもあるから。わかると思うけれど、実にたくさんの障害があって邪魔をしてくる。そのくせ、報われることはほとんどない。でも、もし自分の読者を見つけることができるのならば、自分自身の思いを共有してくれる人たちに向けて表現することができるのならば、それはとても素晴らしいやりがいとなる。その人は報われていると思う。

 いつか理解されることを信じること。読者というのはどこかにいて、自分が言いたいことを聞きたいと思っている。彼ら自身そのことに気がついていないかもしれないし、そしてまた、自分でも自分の読者がどんな人間であるのかわからないかもしれない。でもとにかく、自分の読者というのはいる。自分自身に忠実にあること。そして、辛抱強く続けること。そうすれば最後には、自分の読者にたどり着く。

――どうもありがとうございました。

於 池袋プリンスホテル内 090726

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うーん。面白いインタビューだった。でも、実は私は、不勉強なことに≪テッド・チャン≫氏の作品を読んだことがありません。今度、購入します。(未読SFだけで200冊以上あるので、いつ読むのかは、分からないけど)。あと、ラストで≪テッド・チャン≫氏の語る、≪自分自身に忠実であること≫というメッセージは、心に響きました。自称≪物語歌人≫である私としては、大変、勉強になりました。(新谷広規)

コメント by 新谷広規 - 2009/11/16 月曜日 @ 10:19:39

2009/11/14 (土)

SF聖地巡礼と東京SF大全

Filed under: 報告 - 増田まもる @ 2:17:50

来る2010年8月7日8日に東京の船堀で開催される第49回SF大会TOKON10は、着々と準備がすすんでおります。先月から刊行を開始したプログレス・レポートには、「SF聖地巡礼」と銘打って、日本のSFの黎明期を支えた先人たちの足跡をたどる記事が掲載されており、第1回「目黒・大岡山編」はSpeculative Japanメンバーの小谷真理と藤田直哉が取材と執筆を担当しております。また、公式ブログには毎月1のつく日に「東京SF大全」と題して、やはりSpeculative Japanのメンバーたちが、東京に関わるSF小説、コミック、映画、アニメについて論じております。すでに藤田直哉による『鉄男』、宮野由梨香による『鉄腕アトム』が掲載されておりますので、興味のある方は、下記のTOKON10公式サイトと公式ブログをご覧になってください。

TOKON10公式サイト http://tokon10.net/

TOKON10公式ブログ http://blog.tokon10.net/

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宮野です。

 今日「ゴジラ」をアップしました。読んでいただけたら幸いです。

 第五福竜丸の画像を撮りに行っている時間がなくて、残念! 何度も行っているのになぁ。あそこに行くと、異様に暗い気持ちに襲われるんで、「熱帯植物園」でお茶したりして時間をつぶしていました。必要ないと思っても撮っておけば使えたのにね。まさか「第五福竜丸」の画像を原稿とともにアップする機会がくるとは思わないもんなぁ。

 国会議事堂の画像は、今週になってから撮りに行きました。行ったらちょうど高校生の集団が出てくるところでした。ラッキー♪

 夫いわく「面白くない…ってか、これだけかよ?」
……「そうだよっ」としか答えられない自分が悲しい。
ちなみに、彼は光瀬龍の作品を全く評価しません。昔から、宮野の家族は揃いも揃って光瀬龍を評価しません。どうしてなんでしょうね? しくしく。

 さて、次の担当作品について、準備しなくては!
 1月の下旬だけど、あっという間に日は経つからなぁ。
 これはねぇ、「写真」をちゃんと撮ってあるのだよ。
 でもね、18年前の映像なんだよ。
 奇しくも「扱う作品」の中で、タイムマシンが跳ぶのも18年後♪ 使っていいかな?
 原稿を仕上げながら考えますね。

                   宮野由梨香

コメント by 宮野由梨香 - 2009/12/11 金曜日 @ 21:56:26

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結局「18年前の写真」は自粛しました。
「梅ヶ丘駅」の旧舎の階段を、袴を着て降りてくる18年前の宮野…なかなか笑える画像なんですけれどね。

コメント by 宮野由梨香 - 2010/1/23 土曜日 @ 0:52:07

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