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2013年2月

2013年2月 5日 (火)

詩論(『饗宴』掲載

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 9:46:29

 いま考えていること――北海道新聞社文学賞詩部門受賞の弁に代えて

                                     荒巻義雄

 思いがけず、林檎屋文庫で出した第一詩集「骸骨半島」で、二〇一二度北海道新聞文学賞(詩部門)で賞をいただきました。饗宴同人各位はじめ、主宰者の瀬戸正昭さんに厚くお礼申し上げます。実は、新妻博さん(2012年没、詩人・俳人)の霊をも感じています。なぜなら、今回の出来事はサプライズそのものですから。いや、小説家としての受賞歴のない私にとっては、まさに〈事件〉でした。

 すでに四〇年以上、本を書いてきた私ですが、一〇年ほど前から詩作を再開しました。なぜかというと、〈言葉〉そのもの正体に謎があるのではないか、と気になり始めたからです。散文とはちがい、詩では一つの語が幾重もの意味を内包させなければならないのだと、単なる比喩論以上のレベルで考えるようになりました。
 きっかけは言語学の始祖フェルディナン・ド、ソシュール(一八五七~一九一三)の存在でした。もっとも、私の場合は、哲学らしい哲学への入門は、サルトルやハイデガーからでしたが、さらに構造主義やポスト構造主義を読むようになっていました。
 しかし、言語の問題を扱う基礎は、やはりソシュールです。彼は言葉をシニフィアンとシニフィエによって構成されているとします。日本では〈記号表現〉などと訳されていますが、シニフィアンは〈意味するもの〉の意です。たとえば、〈犬〉の発音、つまり〈イヌ〉という音素のことです。私流の理解では、〈イヌ〉という発音を耳で聞いたとたん、われわれの大脳は、めまぐるしくニューロンのネットワークで微弱な電気信号を送り、〈犬〉というイメージを思い浮かべます。これがシニフィエ(意味されるもの)なのです。
 しかし、〈記号表現〉は常に同じ内容を表すとは限りません。脳は白い犬とか、子供のころ噛まれた犬とか、隣で飼われている犬とか、コナン・ドイルの『パスカビルの犬』に出てくる妖犬とか。まだあります、ギリシア神話のケルベロスは冥府の番犬ですし、キリスト教では牧羊犬は信仰者の保護や善導者のシンボルとなり牧師や司祭を表します。
 このように、言葉というものは、一つの単語から無数の意味内容が派生してくるわけで、詩を書く者は、実は言葉を慎重に選び取りながら、右に述べたような無数の内容を同時に物語っているのです。
 言葉というものは地層になっています。累々として意味内容が重なっているのです。詩人は、そのできるだけ深層で、隣接する異なる言葉と連合させなければならない。
 これが、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンが述べた『通底器』の意味でしょう。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが〈リゾーム〉と名付けた概念、日本では〈根茎〉と訳されておりますが、あたかも芝生の根のような水平方向への広がり、あるいは絡み合いのイメージにも通じる概念です。
 普通、隠喩や換喩、提喩など言語学者ロマン・ヤコブソンなどの詩学理論、これには近代美術のルーツでもあるロシア・フォルマリスムも関連するのですが、とは言え、一世紀前の理論なので基礎中の基礎。実は、最新理論は、もう少し先に進んでいます。
 やはりドゥルーズですが、彼はノマドロジー(遊牧論)の哲学を提唱します。
 普通、われわれは〈実在的なもの〉と〈想像的なもの〉との区別や対立で物事を考えがちです。が、そうした第一領域の〈現実界〉と第二領域の〈想像界〉の二項対立構造ではなく、第三の領域〈象徴界〉が重視される社会の中で生きているのです。
 みなさんには聞き慣れない用語かもしれないのでちょっと説明をしますと、右はフランス精神医学の代表者の一人ジャック・ラカンの概念です。うち〈現実界〉とは、名状しがたく不気味な世界です。ここは知覚では認識できず、幻覚で現れることもある。私なりの解釈では『嘔吐』(サルトル)の主人公ロカンタンが、公園のマロニエの樹の根に抱いたあの名状しがたい感覚こそが、それでないかと思います。
 あえて言いますが、リアリズム文学至上主義者が信じて疑わない〈現実〉は、ほんとうは現実ではないのです。現実は、彼らが信じているように〈真理〉ではない。やはりわれわれの意識が紡いだ虚構なのです。
 つまり、われわれ人間の認識とはなにかの問題になります。人間は否応なく言語(langage)によってそのように分節化された世界を見させられている……つまり、われわれの身体能力では〈現実界〉というものを〈素〉のまんま認識することができないのです。
 対して〈想像界〉はわかりやすい。だれもが経験済みだからです。すなわち、赤子が母の胸の中で乳を吸うイメージです。あたかもエデンの園のように幸せです。しかし、赤子と母は分離せず、母子心中死の臭いすらしますけれどもね。
 第三が〈象徴界〉ですが、〈父の法〉がまかり通る世界です。つまり、社会という規則がくまなく支配する世界です。この第三の位相こそが、記号(言葉)に絡みとられた世界なのです。
 文学は〈世界の模倣〉に始まり、さらに〈世界の認識〉へ発展したかのように見えますが、実は〈記号作用〉に他ならないのです。実際、われわれは日常世界において、法律や道徳、規則など蜘蛛の巣に絡みとられているような世界で生きています。この巧妙な仕掛けこそが〈記号の奸計〉なのです。
 ドゥルーズは、このような世界を〈定住的〉といい、ここからの脱出、遊牧的哲学を唱えるのです。
 ここで、パブロ・ピカソの戦術を例にあげましょう。ピカソは一九〇七年にあの有名な『アビニオンの娘たち』を発表します。この題名の本当の意味は、スペインのアビニオンにある娼館の女たちをさします。
 何枚ものデッサンをしながら、ピカソは次第に女の顔を仮面のようにデフォルメしました。これはマチスのアトリエでピカソが見かけたアフリカの仮面だったそうですが、その意味は悪魔払い。当時、流行していた梅毒への恐怖から描いたという俗説もありますが、ピカソは伝統的絵画の基底にある美の基準を打ち破る悪魔払いとして、常識破りの直線で構成された裸婦群像を描いたのです。
 ブルトンらが創始したシュルレアリスムも、実は一九世紀半ばに流行した魔術が根底にあります。第一、ブルトンにヒントを与えたはずのフロイトですら、エジプト魔術の影響を受けているのです。また、ダダ創始者の一人トリスタン・ツァラの詩を読むと、謎めいた呪文が反復して使われています。
 ヨーロッパ文明と魔女狩りや黒魔術の密接な関係に気付けばむしろ当然なことで、われわれが知っている近代社会はその成立のために多くを〈削除〉した。
 たとえば、国家とはなにか。近代社会の嫡子こそが〈国家という装置〉なのです。まさに、前述した〈象徴界〉の貌に他ならず、だからこそ自由を求める近代の芸術家たちは、強い意志で反抗と脱出を試みたのです。
 時には、ピカソやツェラのような呪術の力すら借りて……。
 文明という名の仮面を見破ったレヴィ=ストロースは「文明人の対語としての野蛮人などいない、彼らは野生人だ」と言いました。なぜ、われわれが、縄文の土器に憧れ、万葉集に力づけられるのか。現代の詩人たちは、あまりにも日常性に寄りかかりすぎているのではないでしょうか。
 詩人たる者、文明に飼い慣らされてはいけません。

  (初出/詩誌『饗宴』vol.66/2012年11月)

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