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2012年9月

2012年9月29日 (土)

ヌーヴォ・ロマンの文体

Filed under: 転載 - 荒巻義雄 @ 8:28:45

 詩誌「饗宴」vol.65より転載

  1 一九五〇年代の情況
 ヌヴォ・ロマンとは、一九五〇年代を中心に、フランスで興った〈新小説〉のことで、〈アンチ・ロマン〉とも呼ばれる。わが国でも多くの訳書が出たが、筋立てのない難解な小説だったため、流行は短期間で終わった。
 しかし、筆者の初期中編『トロピカル』はロブ=グリエの『快楽の館』に、中期の中編『プラトン通りの泥水浴』は同右『幻影都市のトポロジー』に影響された作品である。
 当時、わが国の文学状況は、カミュ『異邦人』にはじまり、サルトルの実存哲学が主流であった。私自身は青春と挫折を経験した東京時代だったが、やがて六〇年安保を経験して挫折し、帰郷して家業をついだ頃、SFの可能性を発見したのとほぼ同時に、ヌヴォ・ロマンと遭遇したのだった。
 今になって振り返るほうが、むしろ情況がはっきりするが、戦後日本を支配したマルクス主義が、スターリン体制下のソ連社会の実態が明らかになるにつれて見放され、一方、戦後思想の双璧であった実存主義も限界が見え始めたころであった。
 一方、伝統的な小説には絶対的な大前提があり、たとえば人間本性の普遍性などであった。さらに整然とした因果関係や時間的順序の問題、一九世紀的な秩序や価値観などに、ようやく疑問符がつき始めていた。
 事実、マルクス主義は市場主義経済に負け、サルトルはレヴィ=ストロース(構造主義)の登場で、欧米的価値観の限界を痛烈に批判されたのである。
 たしかに、五〇年代は思想の転換期だった。日本人の敗戦トラウマは未だつづき、戦勝国民とはなったがフランス人んも第三帝国に占領されるというトラウマを抱いていた。
 当然、国家指導者の〈言葉の嘘〉が曝かれ、〈言葉そのもの〉への信頼が失われた時期でもあった。従って、ヌヴォ・ロマンは、既成文学、既成の価値観の否定で始まる文学の新潮流であった。
 とは言え、ヌヴォ・ロマンの根本原理からも作家たちが団結して文学運動を起こすことはなかった。一群の作家たちは、個々に自分の仕事をしたにすぎない。
 とりあえず、代表的作家の傾向を要約すれば、①小説内世界から人間を消し去ったアラン・ロブ=グリエ。②人物のありふれた瞬間を写し取るナタリー・サロート。③内的心の動きを追跡するクロード・シモン。④都市生活が人間の意識にどう現れるかを描くミッシェル・ビュートル。その他である。

 2 アラン・ロブ=グリエ
 近代フランス文学の原点は、フローベルである。「ボバリー夫人は私だ」という有名な言葉があるが、その意味は、彼が多用した自由間接話法によると考えられる。
 間接話法はイタリア語やフランス語に見られる語法で、直接話法に対する。直接話法では、〈誰それが「ナニナニをする」と言っていたよ〉のように括弧でくくるが、間接話法では括弧ももなくなる。さらに、自由間接話法では〈……と言った〉もなくなる。
 つまり、フローベルでは、作中の人物と作者自身が同化してしまい、たとえば、
 《彼女はもうピアノを引かない。なぜ弾か なければならないのか?いったい誰が聞く というのか?》
のような言い方になる。つまりこの心情は作中人物なのか、作者のものか判然としない。作者が登場人物に同化しきっているからだ。
 さらに、フローベルの特徴は、彼が眼そのものになりきることである。『感情教育』の冒頭、蒸気船がセーヌを下る描写は、まさに没作家的で蒸気汽船しかない。
 もし、作家が、登場人物の内面を描こうとすれば、客観主義では不可能である。例外的にヘミングウェイの試みたハードボイルドの文体、たとえば不機嫌を表すのに〈壁際で寝ていた男はぐるりを背を向けた〉のようなやり方(動作主義)はあるが、普通、心理描写は耳と結託する象徴主義経由で、たとえば、眼では見えない、人間の〈心の声〉を聞く。一例を挙げればプルーストである。
 つまり、〈眼〉か〈耳〉か、作家の資質が視覚優先か聴覚優先かで文学の型が決まる。
 ロブ=グリエはどうか。フローベル直系の視覚型である。作家はムービー・カメラのように写し取るだけである。
 『快楽の館』の直訳題は、『逢い引きの家』だそうだが、香港であって香港ではない街に降り立った〈眼〉が写し取ったシーンの言語による窃視症的描写である。
 《……そのすんなりと背の高い娘たちは、脇の下と首すれすれにきれいに裁断された、小さな立襟つきの袖なしの、黒い絹の衣装に包まれてその姿態を浮き彫りにしている。》
 作中には、もっときわどいシーンが描写されているが、文のほとんどが現在形で終わり、眼はいささかハレーション気味に、あたかも活人画的な女を写すのみで、手が触れることはない。従って、サドのように陰惨ではない。熱帯的な光の下で繰り広げられる眩暈、イルージョンである。
 では次の文は?『幻影都市のトポロジー』の書き出しである。
 《寝つくまでに、またもや、街……
  だがもはやなにひとつ、悲鳴も、鈍い轟音も、遠いどよめきもない。
    (中略)
  寝つくまでに、それでも纏わりつく、死んだような街……
  こうなのだ。私ひとりである。夜更である。眼をひからせている。》
 次は、プルースト『スワン家のほうへ』「第一部 コンブレ」の冒頭である。
 《長いあいだ、私は宵寝になれてきた。ときどき、蝋燭を消すとすぐに眼がふさがり、「眠るんだな」と思う余裕もないことがあった。》
 『失われた時を求めて』は一人称小説の傑作だが、邦訳で読んでも美しいリズムがあり、音楽的である。全編を通じ〈世界〉は内面から語られ、記憶の中のまたその記憶の世界に入りこんでいく。もはや一人称〈私〉すら滑らかに語られる文体の中に溶解してしまうようだ。
 つまり、前述のとおり、フローベルから分岐したもう一つの書き方である。プルーストの文体は象徴主義(サンボリスム)の先達、ボードレール(『悪の華』)のように、ありふれた自然や日常の光景のような具象物のなかに象徴を見、超自然的な宇宙の神秘を感知する態度である。もっとも、端的な代表は天才詩人マラルメである。
 おわかりだろうか。話をもどして、もう一作、ロブ=グリエが一九五三年に発表した『消しゴム』である。この作品は形而上的探偵小説とも言えるもので、近代小説の不可欠要素、筋や人物よりも、先入観も感情移入もなく、当然、人物の内面は無視され、ひたすら事物が描写されるのだ。
 《そこには一人の太った男が立っている。主人だ。彼はテーブルと椅子の間で正気づこうとつとめている。バーの上の方に長い鏡があって、ひとつの病人じみた映像が浮かんでいる。養魚鉢に入った、緑がかった 輪郭のぼやけ、肝臓を病んで肥満した主人の映像だ。
  反対側の窓の奥でも、やはり主人が、街の微光のなかでゆっくりと溶けていく。》
 こんな調子だ。決して翻訳文が生硬いからではない。

 3 ナタリー・サロート
 一九〇一年、ロシア生まれの彼女はかなり厄介な作家である。ヌヴォ・ロマンの先駆的作品『トロピズム』(一九三九年)で、すでに彼女は細部にこだわる。
 トロピズムとは、植物の向日性や向地性をいう。植物は光を好むもの、日陰を好むものなど種の本能を持つ。人間も同じであって、つかの間の感覚や曖昧な感覚など、はっきりと言葉では定義できないもの、意識面に上らぬおそらく前意識的なものに支配されていると言うのである。たとえば、
 《廊下の青い縞模様の古い壁紙に沿って、薄汚れた壁の塗装に沿って自分ところまで伝わってきた、入口のドアの鍵をあけるかすかな物音を、彼女は静寂のなかに聞きつけた。書斎のドアのしまる音を、彼女は聞きつけた。》
 一九五八年の『プラネタリウム』ではさらに完成度を高める。外界の瞬間的な印象を書き連ねることによって彼女は読者側に想像させ、読者に物語りを紡がせるのである。
 実は、最近、サロートを思い出させるような文体に出会った。金井美恵子『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』という長い題名の作品である。
 《なめらかで沈んだような光沢のある黒に近い濃い青と銀白色のストライブのドレスには、白い麻の幅の広いシャツ襟が首を覆う高い位置に付いていて、胸の中央にはループのボタンホールでとめる小さな共布のクルミボタンがびっしりならび、》
 以下、改行なしに服の描写がつづく。
 ここにも〈眼〉だけがある。主人公は物語
世界の中心ではなく、価値観の基準でもない。カメラのように写し取るだけの〈眼〉に思想はない。

4 クロード・シモン
 シモンはノーベル賞作家である。
 一九六〇年の作『フランドルへの道』を読んでみよう。まず改行がないと言っていいほど少なく、会話もない。物語の物理的時間は数時間か一夜でしかなく、この中に主人公が体験した記憶がぎっしり詰まっているが、作者は戦争を書くにしても、肉眼で見える範囲での光景や出来事(フッサールの直接経験の世界)を、記述するのみである。
 『アカシア』(一九八九年)も、今と記憶が錯綜する。文体は濃厚である。
 《彼女はまだ若く、四十代には間があるよ うで、そのたっぷりした肢体をつつむ衣装の好みは(黒い靴、黒いストッキング、黒いマント、細い縁どりからヴェールを垂らした黒い縁なし帽といい)その地味さにもかかわらず――というか、以下略》
のように、改行少なくつづく。

 5 ミッシェル・ビュトール
 マンチェスターがモデルらしいブレストンの生活を七ヶ月送った主人公ルヴェルは、都市の呪いを払拭するため到着からの今日までを遡って再構成する。題名『時間割』の由来は、一年間の七曜表のことで記録は日記風に書かれている。ここには旧約のカインとアベルの神話も含まれ、四角い塔にはそれを表すステンドグラスもある。
 《ひとすじの陽光が、アベルの傷口からしたたった血のかたまりを横切り、ぼくらの左側の、翼廊の内壁の上に落ちて砕け、赤いしみとなったが、そのしみもやがて消えた。(中略)
  ……とげのある葉の茂みを背景に、砂利地に鋤を打ち込んでいるほとんど裸体の男を指した。
 「あれが荒れ地を開墾するカインです。以下略》
 プルーストをより複雑にした時間の迷路、土地の魔力など、重層する多くの謎が魅力的である。

 6 モーリス・ブランショ
 多くの日本人がブランショを知ったのは、サルトルが紹介した『アミナダブ」によってであろう。が、最近になって右以前の第一作、ヌーヴォロマンの先駆作『謎のトマ』(第三帝国占領下の一九四一年)が刊行された。
 《トマは座った。そして海を眺めた。しばらくのあいだ、動かずにいた。まるで他の泳ぎ手たちの動きを追うためにそこへ来たかのように。そして、なにしろ霧が邪魔で、》以下略
 〈世界〉の無意味性、むしろ空無性をブランショは見抜いているのだ。

 7 ジュリアン・グラック
 『シルトの岸辺』は一九五一年発表なので、ヌーヴォロマンと同時代であるが、シュールレアリズム運動に属したとされる。だが、作風はゴシック・ロマン主義幻想文学で、ヌーヴォ・ロマンの先駆作にも入る。
 《こうした無言の瞑想にふけっていると、時間はまたたくまに過ぎてしまう。海がかげり、水平線が薄い靄に閉ざされる。私は秘密のあいびきからもどるように、外壁の上の歩廊を辿って引き返してくる。》
 宿命をテーマにした陰鬱な文体が格別である。言葉の喚起力、言葉のテンション、傑作である。

 [この原稿のために読み直した本]
①『今日のフランス作家たち』P・F・ボワデッフル著/平岡篤頼+安斎千秋共訳/文庫クセジュ ②『ヌヴォー・ロマン論』J・ブロック・ミシェル著/島利雄+松崎芳隆訳/紀伊国屋書店 ③『不信の時代』N・サロート著/白井浩司訳/紀伊国屋書店 ④『焔の文学』ブランショ著/重信常喜+橋口守人訳/紀伊国屋書店 ⑤『来るべき書物』ブランショ著/粟津則雄訳/現代思潮社 ⑥『文学空間』ブランショ著/栗原則雄+出口裕弘訳/現代思想社 ⑦『快楽の館』若林真訳/河出書房新社 ⑧『幻影都市のトポロジー』江中直紀訳/新潮社 ⑨『消しゴム』中村真一郎訳/河出書房新社 ⑩『現代フランス文学13人集2』収録「トロピスム」菅野昭正訳/新潮社(トロピカルは、現在、書庫より失踪中) ⑪『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社) ⑫『フランドルへの道』平岡篤頼訳/白水社 ⑬『アカシア』平岡篤頼訳/白水社 ⑭『時間割』清水徹訳/中公文庫 ⑮『謎のトマ』篠沢秀夫訳/中央公論新社 ⑯『唯物論と革命』サルトル著(「アミナダブ」/佐藤朔訳/人文書院) ⑰『シルトの岸辺』安藤元雄訳/集英社

             荒巻義雄(2012年9月)

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