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2012年7月16日 (月)

川又千秋『人形都市』論(巽孝之)

Filed under: イベント, 研究, 書評 - 岡和田晃 @ 16:55:21

 2012年7月7~8日、北海道の夕張市で第51回日本SF大会Varicon2012が開催されました。
Varicon2012の公式サイトでは、北海道に関するSF作品を論じていく「北海道SF大全」(http://www.varicon2012.jp/taizen.php?no=01)が開催されていましたが、大会パネルでもそれに合わせ、「北海道SF大全」パネルを開催いたしました。
 ゲストは巽孝之、小谷真理、松本寛大、増田まもるの各氏、そして岡和田晃でした。まず、東京SF大全から始まる大全シリーズが概説され、巽孝之氏は、「小樽」をキーワードに荒巻義雄と川又千秋を論じ、小谷真理氏はアニメ『センコロール』を熱く語り、札幌在住のミステリ作家松本寛大氏は、吉村昭の『羆嵐』と「開拓」の問題に引きつけて映画『Return to Oz』および写真集『Wisconsin Death Trip』を、岡和田晃はアイヌと久間十義の『魔の国アンヌピウカ』についてそれぞれ論じ、最後に増田まもる氏が総括を行ないました。
 今回はパネルの開催を記念し、当日、紹介された巽孝之氏の川又千秋『人形都市』論を、ご本人の許可を得て初出のままに再掲いたします。北海道SFについて本格的に論じた最初期の論考ということで、どうぞお愉しみください。(岡和田晃)

「SFレビュウ」
川又千秋 著 『人形都市』
 巽孝之

 SFにとって美とは何か――。
 仮にあなたが常日頃、そんなこだわりを抱いているとするならば、ここにまとめられた川又千秋初期短篇の数々は、さながらガラス細工の奇跡のように目映く、そして繊細に、応えてくれることだろう。
 センス・オヴ・ワンダーという術語に関して、その一般的諒解に潜む誤謬のひとつは、認識論的次元で捉えるあまりに、それが先在する美学的次元をやすやすと見逃してしまうところにあった。ゆえに五〇年代ハードコアSFに対する六〇年代ニュー・ウェーヴSFの登場というのは、フロイディズム、シュール・レアリスムを根幹にSFを現代文学上に位置づけようとした点で、きわめて暴力的に見えたかもしれないが、実際その本質とは、「科学の文学」のもうひとつの、だが根本的な装いとして「美学の文学」を見出そうとする姿勢と思われる。
 この意味で、ニュー・ウェーヴ体験を基礎に持ち、本号発刊時には文庫版も出ているだろう評論『夢の言葉・言葉の夢』をひっさげて、その路線上で次々と創作を発表していった川又千秋の活動とは、まさにセンス・オヴ・ワンダーの読み方自体に解体/再構成を企てるものだったと言えよう。
 本書収録作品は六篇。全て旧『奇想天外』誌を初出とする。また、全て後の『反在士の鏡』を含むメタSFの原型とみなせるから、昨今彼が中心に据えている冒険小説群からするといささか奇異な印象さえあろうけれども、この方向こそが作家・川又千秋の原点であり究極点であることは、まず疑いえないところだ。
  さて、作者あとがきも述べるとおり、これらのうち最後に収められたレム的モチーフの「種の起源」を除く五篇が、自動人形の徘徊する未来世界に材を採った、見方によってはオムニバス風である点は作者自身の傾倒してやまぬブラッドベリ『火星年代記』を連想させずにはおかぬ物語枠組みを持つ(もっとも舞台設定としては火星のみならず金星もふまえられているが)。川又千秋とブラッドベリ、及び火星。その必然性はどこにあるのか。「夢のカメラ」の一節が暗示的だ。

 火星の秋は足早に朽ちていく。街はすでに、すっかりたんぽぽの種子によって埋め尽くされていた。その光景は、深い積雪に似ていなくもない。が、本物の雪はこれからだった。あと難週間かで、本物の雪が空に舞い、屋根屋根と路上をすこしだけ濡らす。すると続いて、耐えがたい寒波が、この土地に襲いかかり、肉体的に衰えた数百人の労働者の生命を奪い去っていく。毎年のことだ。そして長い冬が終れば、また巨大なロケットが、無数の新しい労働者たちをこの星へ捨てにくる。(三六頁、傍点引用者(編注:再録にあたって傍点を太字に替えた))

 きれいな描写だ。ブラッドベリ的文章にSFの美学を認める人ならば、たまらない贈物に違いない。そしてここより解されるのは、ブラッドベリにおける火星が母国・アメリカ大陸だったのと同じく、川又千秋における火星とは故郷北海道に他ならないということ。
 私たちは虚構の時空間に馴れすぎているが、アメリカ大陸が物理的主体であるとともに黙示的想像力の源泉として文字にも大きく影響してきたことは確実なのだ。この図式がこの作家にもあてはまる。川又千秋における北海道も、生活場としての外宇宙であると等しく想像場としての内宇宙であること、だからおそらくは彼自身とりわけ容易にブラッドベリの火星をわがものとして読みかえることができたはずであること。
 ゆえに、ふれればひりひりと痛むような心象風景。そこに棲む「自動人形」たち。ただし、後述する理由で、これらのものたちを、さほど単純に「ロボット」と呼びかえることは差し控えねばならない。
 ロボットの発展史が、機械文明の発展に伴うマルクス的に言うところの社会的「【疎外/エリエネーション】」の歴史と同義であるのは、今やあまりにも自明であろう。本書でも、さらに、サイボーグ化した人間が自己自身からの疎外に甘んじねばならぬ作品、たとえば事故で義足手術を余儀なくされた【跳躍選手/リーパー】の運命を描く「跳躍」、サイボーグ化=不死身化された身を呪い何度となく自殺未遂を反復し、遂には人間としての自己とサイボーグとしての自己が分裂をきたす「死は不死」、ひいては人間/機械の生殖すら可能になりひたすら自走し続ける未来世界で、【冷凍睡眠/コールドスリープ】から目覚めた祖先=人間が檻に監禁される表題作「人形都市」……これらの背景にディックをはじめ、コードウェイナー・スミス、ウィリアムスン、そしてカフカ、安部公房に至るまでの作家を読みとることは困難ではないし、また、一貫したSF的テーマとして、マーク・ローズやゲイリー・ウルフも許容する「科学技術文明の暴走と実存的疎外」を適用することも困難ではないが(ハーバード大出版局刊『異形との遭遇』一九八一年、一四一頁。「人間の機械化」、トマス・ダン他編・グリーンウッド社刊『機械じかけの神』一九八二年、二二三頁)、この作家の場合に看過しえないのは、かような描写からにじみ出てくるのが決して主張のための【疎外状況/エリエネーション】ではなく、あくまで美学的な【異化作用/エリエネーション】である点だ。
 従って、基本的に「自動人形」も「ロボット」として認識論的に解釈されるべきものではなく、「自動人形」は「自動人形」なる単語そのものとして、すなわちこの言葉の持つ驚きなり印象なりを軸に美学的に触覚されるべきものとして、私たちは読まねばならないのである。「自動人形」なる単語には、おそらくドイツ・ロマン派E・T・A・ホフマンの自動人形をはじめ、遠くマニエリスムの遊戯機械のイメージにまでさかのぼる美学的歴史を喚起してやまぬ「力」が隠されているのだから。
 かように、川又千秋の作品からは、単にSF的方法論自体を読もうとする姿勢が離れない。本書刊行を機に、今後は果たしてどんな展開を見せてくれるのか、大いに楽しみなところである。(『人形都市』/著者=川又千秋/二九八頁/¥一二〇〇/四六版上製/光風社出版)

(「SFマガジン」1984年1月号、早川書房。【 / 】はルビと、ルビのかかる範囲を意味する。なお、再掲にあたって傍点部はサイトの仕様のため強調に改めた)

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