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2012年7月

2012年7月16日 (月)

川又千秋『人形都市』論(巽孝之)

Filed under: イベント, 研究, 書評 - 岡和田晃 @ 16:55:21

 2012年7月7~8日、北海道の夕張市で第51回日本SF大会Varicon2012が開催されました。
Varicon2012の公式サイトでは、北海道に関するSF作品を論じていく「北海道SF大全」(http://www.varicon2012.jp/taizen.php?no=01)が開催されていましたが、大会パネルでもそれに合わせ、「北海道SF大全」パネルを開催いたしました。
 ゲストは巽孝之、小谷真理、松本寛大、増田まもるの各氏、そして岡和田晃でした。まず、東京SF大全から始まる大全シリーズが概説され、巽孝之氏は、「小樽」をキーワードに荒巻義雄と川又千秋を論じ、小谷真理氏はアニメ『センコロール』を熱く語り、札幌在住のミステリ作家松本寛大氏は、吉村昭の『羆嵐』と「開拓」の問題に引きつけて映画『Return to Oz』および写真集『Wisconsin Death Trip』を、岡和田晃はアイヌと久間十義の『魔の国アンヌピウカ』についてそれぞれ論じ、最後に増田まもる氏が総括を行ないました。
 今回はパネルの開催を記念し、当日、紹介された巽孝之氏の川又千秋『人形都市』論を、ご本人の許可を得て初出のままに再掲いたします。北海道SFについて本格的に論じた最初期の論考ということで、どうぞお愉しみください。(岡和田晃)

「SFレビュウ」
川又千秋 著 『人形都市』
 巽孝之

 SFにとって美とは何か――。
 仮にあなたが常日頃、そんなこだわりを抱いているとするならば、ここにまとめられた川又千秋初期短篇の数々は、さながらガラス細工の奇跡のように目映く、そして繊細に、応えてくれることだろう。
 センス・オヴ・ワンダーという術語に関して、その一般的諒解に潜む誤謬のひとつは、認識論的次元で捉えるあまりに、それが先在する美学的次元をやすやすと見逃してしまうところにあった。ゆえに五〇年代ハードコアSFに対する六〇年代ニュー・ウェーヴSFの登場というのは、フロイディズム、シュール・レアリスムを根幹にSFを現代文学上に位置づけようとした点で、きわめて暴力的に見えたかもしれないが、実際その本質とは、「科学の文学」のもうひとつの、だが根本的な装いとして「美学の文学」を見出そうとする姿勢と思われる。
 この意味で、ニュー・ウェーヴ体験を基礎に持ち、本号発刊時には文庫版も出ているだろう評論『夢の言葉・言葉の夢』をひっさげて、その路線上で次々と創作を発表していった川又千秋の活動とは、まさにセンス・オヴ・ワンダーの読み方自体に解体/再構成を企てるものだったと言えよう。
 本書収録作品は六篇。全て旧『奇想天外』誌を初出とする。また、全て後の『反在士の鏡』を含むメタSFの原型とみなせるから、昨今彼が中心に据えている冒険小説群からするといささか奇異な印象さえあろうけれども、この方向こそが作家・川又千秋の原点であり究極点であることは、まず疑いえないところだ。
  さて、作者あとがきも述べるとおり、これらのうち最後に収められたレム的モチーフの「種の起源」を除く五篇が、自動人形の徘徊する未来世界に材を採った、見方によってはオムニバス風である点は作者自身の傾倒してやまぬブラッドベリ『火星年代記』を連想させずにはおかぬ物語枠組みを持つ(もっとも舞台設定としては火星のみならず金星もふまえられているが)。川又千秋とブラッドベリ、及び火星。その必然性はどこにあるのか。「夢のカメラ」の一節が暗示的だ。

 火星の秋は足早に朽ちていく。街はすでに、すっかりたんぽぽの種子によって埋め尽くされていた。その光景は、深い積雪に似ていなくもない。が、本物の雪はこれからだった。あと難週間かで、本物の雪が空に舞い、屋根屋根と路上をすこしだけ濡らす。すると続いて、耐えがたい寒波が、この土地に襲いかかり、肉体的に衰えた数百人の労働者の生命を奪い去っていく。毎年のことだ。そして長い冬が終れば、また巨大なロケットが、無数の新しい労働者たちをこの星へ捨てにくる。(三六頁、傍点引用者(編注:再録にあたって傍点を太字に替えた))

 きれいな描写だ。ブラッドベリ的文章にSFの美学を認める人ならば、たまらない贈物に違いない。そしてここより解されるのは、ブラッドベリにおける火星が母国・アメリカ大陸だったのと同じく、川又千秋における火星とは故郷北海道に他ならないということ。
 私たちは虚構の時空間に馴れすぎているが、アメリカ大陸が物理的主体であるとともに黙示的想像力の源泉として文字にも大きく影響してきたことは確実なのだ。この図式がこの作家にもあてはまる。川又千秋における北海道も、生活場としての外宇宙であると等しく想像場としての内宇宙であること、だからおそらくは彼自身とりわけ容易にブラッドベリの火星をわがものとして読みかえることができたはずであること。
 ゆえに、ふれればひりひりと痛むような心象風景。そこに棲む「自動人形」たち。ただし、後述する理由で、これらのものたちを、さほど単純に「ロボット」と呼びかえることは差し控えねばならない。
 ロボットの発展史が、機械文明の発展に伴うマルクス的に言うところの社会的「【疎外/エリエネーション】」の歴史と同義であるのは、今やあまりにも自明であろう。本書でも、さらに、サイボーグ化した人間が自己自身からの疎外に甘んじねばならぬ作品、たとえば事故で義足手術を余儀なくされた【跳躍選手/リーパー】の運命を描く「跳躍」、サイボーグ化=不死身化された身を呪い何度となく自殺未遂を反復し、遂には人間としての自己とサイボーグとしての自己が分裂をきたす「死は不死」、ひいては人間/機械の生殖すら可能になりひたすら自走し続ける未来世界で、【冷凍睡眠/コールドスリープ】から目覚めた祖先=人間が檻に監禁される表題作「人形都市」……これらの背景にディックをはじめ、コードウェイナー・スミス、ウィリアムスン、そしてカフカ、安部公房に至るまでの作家を読みとることは困難ではないし、また、一貫したSF的テーマとして、マーク・ローズやゲイリー・ウルフも許容する「科学技術文明の暴走と実存的疎外」を適用することも困難ではないが(ハーバード大出版局刊『異形との遭遇』一九八一年、一四一頁。「人間の機械化」、トマス・ダン他編・グリーンウッド社刊『機械じかけの神』一九八二年、二二三頁)、この作家の場合に看過しえないのは、かような描写からにじみ出てくるのが決して主張のための【疎外状況/エリエネーション】ではなく、あくまで美学的な【異化作用/エリエネーション】である点だ。
 従って、基本的に「自動人形」も「ロボット」として認識論的に解釈されるべきものではなく、「自動人形」は「自動人形」なる単語そのものとして、すなわちこの言葉の持つ驚きなり印象なりを軸に美学的に触覚されるべきものとして、私たちは読まねばならないのである。「自動人形」なる単語には、おそらくドイツ・ロマン派E・T・A・ホフマンの自動人形をはじめ、遠くマニエリスムの遊戯機械のイメージにまでさかのぼる美学的歴史を喚起してやまぬ「力」が隠されているのだから。
 かように、川又千秋の作品からは、単にSF的方法論自体を読もうとする姿勢が離れない。本書刊行を機に、今後は果たしてどんな展開を見せてくれるのか、大いに楽しみなところである。(『人形都市』/著者=川又千秋/二九八頁/¥一二〇〇/四六版上製/光風社出版)

(「SFマガジン」1984年1月号、早川書房。【 / 】はルビと、ルビのかかる範囲を意味する。なお、再掲にあたって傍点部はサイトの仕様のため強調に改めた)

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2012年7月 9日 (月)

荒巻義雄「白き日旅たてば不死」の創作理論

Filed under: 解説, 寄稿, 書評 - 増田まもる @ 14:24:36

藤元登四郎著/荒巻義雄校閲解説

 A.四〇年前に発表された作品
 この作品は三七歳の時に発表された荒巻義雄の初長編である。初版は早川書房からハードカバーで刊行され(一九七二年)、翌年第一回泉鏡花賞最終候補作にノミネートされたが、受賞作は半村良「産霊山秘録」と森内俊雄「翔ぶ影」であった。
 その後、一九七六年にハヤカワ文庫、一九八〇年には角川文庫で出版されたが、角川文庫版には波津博明の「解説」と、荒巻義雄に捧げられた歌人の木内敦司の歌「白き日旅立てば不死」が転載されている(「国学院短歌八〇号」)。
 さらに、一九九二年、ファラオ企画から、原点叢書第一二巻として箱入りのハードカバーとして再刊され、新しく荒巻の「漂泊する魂の記憶」が掲載されている。なお原点叢書というのは、企画委員が井上ひさし、藤本義一、松永伍一で、野坂昭如『てろてろ』、寺山修司『臓器交換序説』など斬新な作品がずらりと並んでいる。これだけでも、『白き日旅立てば不死』が、文壇人にも評価されていたことがうかがえる。
 なお、この長編は、中編『ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ』(一九七一年)(2)を土台にして、約一ヶ月の短期間で執筆されたとされる。

 ◆藤元註 荒巻義雄が「SFマガジン」に『術の小説論』と『大いなる正午』で登場したのが、一九七〇年であるから、デビュー後まもない頃に、一気に執筆された作品群のひとつである。
 なお、荒巻は、この作品が発表される三年前の一九六八年、初めてのヨーロッパ旅行を行い、グルノーブル・オリンピックを取材した。

 ◇原著者(荒巻)註 「グルノーブルから札幌へ」を北海道新聞に書く。
 一九七一年にはヨーロッパ単独旅行、さらに一九七二年にもヨーロッパ・ドライブ旅行をした。これらのヨーロッパ体験が、『ある晴れた日の中にウィーンはたたずむ』や『白き日旅立てば不死』として結晶したと言える。

 B.この作品の先駆性―すなわち、間テクスト性
 『白き日旅立てば不死』は、今風にいえば、〈間テクスト性〉の理論に基づいている。
 ①この理論を提唱したのは、フランスの精神分析学者のジュリア・クリスティヴァである。彼女は、また、ポストモダニズムの旗手の一人だが、『セメイオチケ―記号分析の研究』(一九六九年)で提示されている概念である。
 しかし、彼女の『テクストとしての小説』(3)の邦訳は一九八五年であるので、その十数年も前に、荒巻は〈間テクスト性〉に基づく作品を発表していたのであった。(その当時、荒巻は〈間テクスト性〉のことを「総合的」と呼んでいた)
 従って、あまりにも先端的でありすぎたためか、一部の人々にしか理解されなかったが、今となれば、逆にそのことが、この作品の価値を裏付けることになっている。
 さて、〈テクスト〉とはフランス語である。英語ではテキスト。一般に〈テクスト〉は、すべての書かれた文や印刷された文書のことであり、そこから意味を引き出すことは、解釈とか読解といわれる。
 ところが、クリスティヴァの定義はかなり複雑で、彼女にとっては〈超言語的装置〉である。すなわち、〈テクスト〉を構成する言語は、情報伝達を目指す作用に加えて、先行する、あるいは共時的な、多種の言表類型を関連づけて言語の秩序を再配分するのである(3クリスティヴァ 一八頁)。
 従って〈テクスト〉は新しい意味を生産する。テクストは文法的にも論理的にも言語論的にも説明することのできない、意味を持っている。テクストは単独で成立しているのではなく、様々なテクストが相互に関係しており、〈テクスト間相互関連性〉から構成されている。
 以上のように〈テクスト〉は定義するとなると難しいが、クリスティヴァの〈間テクスト性〉の具体的な例をみるとはっきりする。彼女は、一四五六年頃出版されたフランスの最初の小説、アントワーヌ・ド・ラ・サル著の『ジャン・ド・サントレ』を例にあげている。
『ジャン・ド・サントレ』では、その中にすでに出版された様々な書物が潜んでいる。ミレトスのタレス、ソクラテス、スコラ哲学、武勲詩、宮廷恋愛詩、カーニヴァルの演劇などが組合わされて、テクストを構成している。このように、テクストとは、別なテクストとの対話や交叉なのである。要するに、〈間テクスト性〉とは小説の中に潜む複数の〈テクスト〉の重層的混合である。小説とはそれらの並べ替えであり、他の〈テクスト〉から引き出したいくつかの発話が互いに交差し合い中立化しあっている。
 ◆藤元註 荒巻がシミュレーション小説論で展開する〈ブリコラージュ理論(手仕事/器用仕事/あり合わせの工作〉もその系列である(4 荒巻義雄)。

 ◇原著者註/間テキスト性(intertextuality/インターテクスチュアリティ)
 上記、本文(藤元)を言い換えると次のようになる。
 テクストは多種多彩な諸々のテクストの混ぜ合わせであるが、引用をはじめ吸収、変形等のモザイクであるとする考え。この考えはポスト構造主義から来ている。そもそも〈言語〉は変形され翻訳されることはあるが、言語は言語そのものを超越できない。
 構造主義以前、旧来の言語観では、言葉はわれわれの前に現前する対象を指示するものであった。しかし、ポストモダニズムでは、言葉が指し示す内容は無限に戯れつう自己増殖していく。実は、このことにいち早く気付いた作家が、筒井康隆なのである。
 原著者も、この作品を書いたときは、クリスティヴァの存在を知らなかった。が、期せずして時代はほぼ同じだ(一九六九年と一九七二年)。日本SFには先見性があったことになる。

 ◇原著者註 なお、クリスティヴァの重要概念〈アブジェクト〉にも注目。〈おぞましきもの〉のことだが、『白き日……』では闇の勢力など、明と暗の対比で使われる。題名の中の白、白樹の白、雪の白、白の氾濫は小説技法的に意識されたものであり、これに闇・黒が出てくるのは必然である。

 話を戻して、〈間テクスト性〉の観点に立てば、『白き日旅立てば不死』は大まかにいって三つのテクストから構築されている。
 ①第一のテクストは実際に起こった悲劇、すなわちこの作品のモデルとなった十八歳の女子高生が雪の阿寒湖の畔で謎の自殺を遂げたという、当時話題になった事件である。彼女は、荒巻の札幌南高校時代の同級生で、高校生で道展に入選した少女画家であり、学校ではスター的存在であった。このことについては、文庫版の巻末にある波津博明(現大妻女子大教授)の解説がある。
 ②第二のテクストは、発狂して精神病院に入院した主人公の白樹が生きた世界である。
 ③第三のテクストは、裏側の世界(サド小説が本歌取りされている世界)である。実は、ここでも、クリスティヴァの理論〈アブジェクト〉が役立つ。
 ――サドの小説は、渋澤龍彦によれば、「世界一の大悪書であり、たとえ追放されようと、発禁にされようと、焚書にされようと、この世界一の悪書は滅びない、という恐ろしい本である」(5 澁澤龍彦、三四三頁)。あるいはブランショによれば、「図書館に地獄(禁書の棚)というものがあるなら、それはこのような書物のためだ。いかなる時代のいかなる文学においても、これほどスキャンダラスな作品はなかったし、どのような作品もこれ以上深く人間の感情と思想を傷つけたことはなかった」(6 モーリス・ブランショ、一九頁/主著『アミナダブ』一九四二年)。
 実際、澁澤の翻訳したサドの『悪徳の栄え』は一九五九年に出版されたが、翌年四月に警視庁風紀係に押収された。さらに澁澤は、一九六一年に「猥褻文書の販売および同所持」の容疑で起訴され、裁判で争われることになった。八年間ほど裁判が続いたが、一九六九年に最高裁判所の「罰金七万円」の有罪判決が下された。特別弁護人は遠藤周作など、弁護側証人には大江健三郎などの著名な文学者が立ち、三島由紀夫も声援を送るなど、大きな話題を呼んだ。ここで、その時のエピソードを紹介しておこう。

  遠藤周作氏が特別弁護人にきまったとき、弁護士がそのことを裁判官に告げると、裁判官は目を丸くして、「遠藤さんはウソツキで有名なひとじゃありませんか」と言ったそうだ。ウソのようなホントの話である。文学的レトリックの常識で申せば、ウソの真実こそ文学の本質なので、わたしは遠藤氏に裁判所で大いにウソをついていただきたい、とひそかに思っている(7 澁澤龍彦、 二三七頁)

 ここで思い起こされるのは、ジョルジュ・バタイユの「サドのいうことを文字通りに真にうけることほど無駄なことはない」(8 一六九頁)という言葉である。
 ところが、裁判官は、無粋にも、文学作品が非現実な世界の話であるのに、なぜか勘違いした。つまり、この裁判官は、未成熟な正義を振りかざして発禁処分を下したのである。
 一方、『白き日旅立てば不死』においては、小説のなかにサドの小説世界が紛れ込んでくるのだ。さらにヘルダーリンの詩も絡まりついてくる。これら多数の〈テクスト〉が、あたかも色のちがう糸を織り上げるように、混然とした世界。多様な混沌と錯乱が星雲の渦のように形をなして現れてくる世界。まさに〈間テクスト〉の方法である。
 しかも、それらの複雑な形は、観察する角度によって変わってくるのだ。ここに〈ハイパーシステム〉の醍醐味(後出)がある。

 ◇原著者註 藤元氏の〈間テクスト性〉の指摘は正しいが、さらに〈ブリコラージュ〉の技法が使われいることに注目せよ。
 作者がこの長編を初めて試みたとき、準備なしに書きだしたわけではない。
 すでに先行作家がこの新大陸に入植し、各自に領土を広げていた。私は一期半でSF界入りしたが、当然、前例のない分野を開拓しなければならなかった。結果、精神分析テーマを考えついたのである。
 さらに『白き日……』を書くにあったり、絵画におけるマックス・エルンストのようなコラージュの技法が応用できるのではないかと考えた。
 当時は実存主義全盛期だったが、後年、これが構造主義に至り、サルトルも否定される時代となり、初めてレヴィ=ストロースが紹介され、私は改めて〈ブリコラージュ〉という概念を知ったのである。
 これは、あり合わせの材料でする工作、器用仕事などと訳す。重要なのは、さらにレヴィ=ストロースは、神話もまた根本的構造を変えずに、自在に物語の部品(要素)を交換することで成り立ち、多様性を生みだすと指摘した。
 四〇年ぶりに読み返してわかったが、作者だけにわかる部品が多々埋め込まれている。まさに〈ブリコラージュ〉である。
 たとえば、サドは黒、赤はソフィーであるが、これは作者の脳の中ではスタンダールの『赤と黒』だ。この場合は兵隊と僧侶の象徴だが、『白き日……』では暗黒と犠牲を表す。さらに文学理論の〈対位法〉をも考慮、こうすることで作品世界に深みが増す。作者は絵画理論も使っているのである。
 部品は海外旅行の経験、過去に読んだ本や映画の場面。身近な人たち。なんでもである。
 これを組み合わせていく小説作法をこの時考えついた。(私が一八〇冊近い著作を出せたのも、実はこの技法を使っているからである)
 現実、を一度、解体し、再構成すること。巽孝之が後年アメリカ留学から帰国し、〈デコンストラクション〉という言葉を言いだしたずっと以前に、私は創作技法として使っていることになる。

 C.時空を超える青春小説
 波津博明が解説で指摘しているように、『白き日旅立てば不死』は青春恋愛小説である。しかし、この作品は、陳腐な感情的なセンチメンタルな青春小説ではない。異質なのである。
 なぜなら、青春の激しい恋を、きわめて冷静に知的に〈間テクスト性〉の創作技法で、総合的に描き出しているからである。
 このような恋愛の悲劇を表現するには、従来のメインストリームの伝統的な方法ではとうてい不可能であり、常軌を逸した青春の心の時空を表現するにはSFの手法しかなかった。のみならず、SFのS(科学)の部分が、従来の自然科学・社会科学テーマとは一線を画し、精神分析学という心の科学が駆使されているのだ。
 これが大きな特徴だし、精神分析学という科学をSFに導入したのは、私(藤元)の知る限り、おそらく世界で最初であろう。
 まさに、心の迷路〈インナースペース〉の世界への転移と遍歴。主人公白樹はまったく何が何だかわからないうちに、現実とマルキ・ド・サドの世界を行き来っするのだ。しかし、彼は自由に往来できるというわけではなく、サドの世界は、ルーレットの黒のように偶然に出現してはまた消える。さらに、ルーレットが回転しているとき、黒と赤の判別がつかなくなるように、主人公の現実とサドの世界とは混合する。この錯乱した世界から垂直に立ち上がるのは、主人公白樹直哉の青春の恋である。

 ◇原著者註 その意味でもこの作品は画期的で、一九八〇年代に登場する〈サイバーパンク〉の先駆けでもある。

 物語は、主人公の白樹が精神病院に入院しているところか始まる。
 白樹には記憶障害があり、入院当時のことすら覚えていない。
 そこで、彼は、狂気の中にありながら、懸命に、部分的に残された記憶の断片をつなぎ合わせて、ジグゾーパズルのように欠落を埋めながら、過去を再現しようと試みていた。
 これは、精神医学的にもあり得ることである。実際、心理的な健忘においては、記憶は全く消滅しているのではなく孤立したままなのである。その孤立した記憶をいかにして、全体と結びつけて想起するかが問題なのである。
 白樹は、自分でも理由のわからぬまま、運命に導かれ、ヨーロッパ各地のカジノで放浪生活の資金を稼いでいたのだ。やがて、ベニスのカジノで大儲けをした後、フィアット一二四スポーツ・クーペを買い、ウィーンへ向かった。その理由は、ベートーヴェンやモーツァルトなどの楽聖を生んだ街の古びたカフェでウィンナーコーヒーを飲みたかったからである。
 五月のウィーンの空は故郷の北海道の空を思い起こさせた。しかし、白樹は気づかなかったが、ルーレットで儲けたこと自体がすでに、幻の都ウィーンに開いている異次元の世界へ入っていく、その序曲のようなものだったのである。
 小雨降るヘレンカッセ通りの近くで、ルーレットの黒が出たように偶然に、白樹はソフィーと出会った。

  ……その白いレインコートが暗闇の中でわずかに動いた気配に驚いて立ち止 まった。丁度、車道を走りすぎた自動車のヘッドライトが人影をとらえ、光暈 の中に顔をまぶしそうにした女が浮かんだ。
  令嬢のような気品をそなえた若い女だったので、白樹はハッとさせられた。 女が、夏の離宮でみかけた絵の中のマリー・アントワネットの面影に、あまりにも似通っていたのだ。その顔は、立ちとまった白樹に向かって泣きだしそうにゆがんでいた。何かをいいかけようとして口をつぐんだ。(1.文庫版59 頁)

 白樹はソフィーと一夜を過ごす。そこで彼女は、「愛してはいけないのだわ」と謎の言葉をつぶやいた。だが、彼女は詳しいことは語りたがらなかった。
 白樹は、彼女がある闇の組織に監視されていることを察して、一緒にパリへ逃げようと計画した。逃走に必要な資金を用意するために、彼はカジノで稼ごうとした。ところがカジノでは、稼ぐどころか、別離のしるしである、赤、19、すなわちソフィーの年齢が出て、大負けしてしまった。ルーレットの玉の赤色は、組織に裏切りを罰され、鞭打たれてひきさかれた白い背中からにじみ出る苦悶の色であった。
 ここで白樹の記憶は途絶えた。しかしソフィーへの激しい思いは変わらなかった。ソフィーは白樹の千々に乱れた心をまとめる支えであった。ソフィーとは一体何者だろうか、彼は精神病院のベッドで懸命に記憶を追いつづける。

 ◇原著者註 後に現れた哲学者ジル・ドゥルーズの〈ノマド〉が先取りされている。ドゥルーズはカント等の定住型哲学とニーチェらの生の哲学遊牧型哲学を区別した。
 なお、『白き日……』が書かれたころは若者国外への脱出が流行していた。(五木寛之『ソフィアの秋』『さらばモスクワ愚連隊』など)

 D.今後の展開
 原著者によれば、『白き日旅立てば不死』は、計画では三部作になる予定である。既刊第二部『聖シュテファン寺院の鐘の音は』につづく第三部の題名は、『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』であるが、まだ書かれていない。(没後発表なるかもしれない)
 これはなぜであろうか。おそらく荒巻は、美と死すらも、〈ハイパーシステム〉の中に組み込もうという野心を持っている。死と美いう異世界を認識し万物交流(コレスポンダンス)する方法は、〈ハイパーシステム〉による以外には考えられないだろう。彼は、直接は捉えられない異世界を包含する宇宙の迷宮を鏡で映しだすように、詩として隠喩的に捉えようとしていると考えられる。第三部は、飛躍に満ちた「雷としての真理」、霊感の世界を開くと予想されるが、私(藤元)には想像もつかない困難な作業にみえる。

 ◇原著者註 処女作が作家のすべてである。もし泉鏡花賞がとれていれば、自分の作家人生も別のものになっていたかもしれない。
 処女長編『白き日……』で作家人生をはじめた自分としては、人生の中間点で第二部を書き、最後に第三部を書いて生涯の終わりとしたい気持が強い。  人はどう成長するのだろうか。むろん、精神の領域で。
 小説家になってよかったと思うのは、人は書くことによって人間であるゆえの大きな病を治療しているのである。フロイトの〈昇華〉の考えである。芸術活動の意味がそれだ。なによりも、自分自身を純粋精神へ浄化されせる修行とでも言えばいいだろうか。
 果たして第三部が書けるかどうか。
 おそらく、限りなく〈グノーシス〉に近付くと思う。

 ◆藤元註/試論〈ハイパーシステム〉
 最後に、以下、難解となるが、私の専門である精神医学の分野からの一解釈を付記したい。
 私が基づいている理論は、フランスの精神医学者ピエール・マルシェのシステマル法である。これは、精神エネルギーを基本とする難解なもので、『精神活動』(9)に詳細に説明されているが、簡潔に説明しよう。
 たとえばSFの場合、従来、科学と小説という異種の分野を「総合的」にしたものと考えられていた。すなわち、SFは科学としても中途半端あるいは荒唐無稽であり、文学として空想が強すぎて現実性がないという理由で、文学のゲットーの中に押し込まれてきた。しかしシステマル法からみるとそうではなく、SFはきわめて先端端的なものとなる。
 その理由は次のようである。もし、私たちが科学と小説の歴史的起源をたどっていくとすれば、この二つの起源は、一般に考えられているほど異質なものではないことがわかる。最終的にそれらの源流は神話に結びつくだろう。これはSFにおける科学と小説ばかりではない、一般的な化学や物理学や医学や心理学など独立した科学とされているものも、実際に起源をたどれば、境界はあいまいになり、はっきりと異なる集合をなし得ないのである。
 このことは、最近数学の世界で、英国のアクゼルらによって提唱された超集合論にみることができる。超集合論は、古典的な集合論の限界を超えるものである(9 ピエール・マルシェ、一七一頁)。古典的な集合論は、集合は無数の部分集合に再分割されるが、必ず、それ以上分割できない最後の部分集合が残るという基礎公理に基づいている。ところが、アクゼルらの超集合論は、この基礎公理を取り除いてしまった。それ以外は、古典的集合論と同じである。そうすると、超集合を考察できるようになる。
 〈ハイパーシステム〉の概念は、この超集合論に基づいてが生まれた(9 ピエール・マルシェ、一七一-一七四頁)。〈ハイパーシステム〉は、多彩な性質に富むそれぞれ異なる既知や未知の領域から形成されている。そこでは、巨大で不調和な機能システムを考察することができるという利点がある。化学や物理学や医学や心理学は、それぞれの境界を失ってしまい、まったく独立した異質の専門分野ではなくなってしまう。そうなると、哲学的、科学的、技術的、芸術的、倫理的、宗教的など、多種多様な要因を同時に検討できる。しかもそればかりではなく、未来の予測、個人の様々な飛躍、霊感など、荒唐無稽であるとされ、貶められていた空想的な思考までもが検討の対象になる。
 結果、類推的思考が可能となり、認識論的つながり、価値評価、内因的な特性、外因的な特性などが明らかになり、認識の創造的な統合が可能となるのだ。
 具体的な例をあげると、たとえば私が、ある人が自分をだましたと疑ったとしよう。そうすると、証拠のあるなしにもかかわらず、その人に対する見方は根本的に変わり、つき合い方までも変わってくる。それが進んでいくと、周囲の見方や人生観までが大きく変わるだろう。このとき、疑いも真実も私の世界観も〈ハイパーシステム〉を構成しているのである。
 精神医学において妄想を検討する場合、脳の代謝異常やネットワークの機能異常、遺伝子などばかりではなく、政治社会的状況、経済的状況、生活や家族環境、教育など、様々な異質な分野のことを「総合的」に、すなわち〈ハイパーシステム〉において考察する。これは、精神医学ばかりではなく、現在では、すべての科学や芸術の領域について当てはまることである。
 実は、荒巻のいう「総合的」とは、〈ハイパーシステム〉という意味に近い。『白き日旅立てば不死』の場合、前述のように三つの異質なテクストが〈ハイパーシステム〉を構成している。これらのテクストは、論理的な内容や時間・空間を越えて交換するのである。自殺したヒロイン、そしてヨーロッパをさまよい精神病院に入院した白樹、そして〈裏側の闇の世界〉が〈ハイパーシステム〉を構成する。ソフィーと加能純子、ルーレットや幻都ウィーンやヘルダーリンの詩もハイパーシステムを構成するのだ。しかも、これらのテクストは、論理的ではなく類推的に結びついているのだ。さらに、荒巻義雄という作家自身の要因も〈ハイパーシステム〉に加わる。

 ◆参照文献
1 荒巻義雄『白き日旅立てば不死』早川書房、1972。ハヤカワ文庫、1976。角川文庫、1980。ファラオ企画、1992。(本書に記した頁は角川文庫版による)
2 荒巻義雄『ある晴れた日にウィーンは森の中にたたずむ』、SFマガジン145号(1971)、SF自選集「ある晴れた日のウィーンは」カイガイ出版部、1978。
3 ジュリア・クリスティヴァ著、谷口勇訳『テクストとしての小説』国文社、1985。
4 荒巻義雄「シミュレーション小説の発見」中央公論社、1994。
5 マルキ・ド・サド著、渋澤龍彦訳『悪徳の栄え(続)』現代思潮社、1976。
6 モーリス・ブランショ、小浜俊郎訳『ロートレアモンとサド』国文社1973
7 澁澤龍彦、「裁判を前にして」『澁澤龍彦集成Ⅱ』桃源社、1970。
8 ジョルジュ・バタイユのジョルジュ・バタイユ著、山本功訳「サド」『文学と悪』、160-204頁、ちくま学芸文庫、1998。
9 ピエール・マルシェ著、藤元登四郎訳『精神活動』創造出版、2012。

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