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2012年6月

2012年6月24日 (日)

SFセミナー2010合宿企画「樺山三英と一緒に、樺山三英の小説を語ろう」(第三部)

Filed under: インタビュー, イベント, 報告 - 岡和田晃 @ 4:54:38

■第三部:「きみ」と「ぼく」をめぐる冒険――『ゴースト・オブ・ユートピア』

 第二部では『ハムレット・シンドローム』について語られましたが( http://speculativejapan.net/?p=225)、最後に「S-Fマガジン」に連載された「ユートピア文学」の古典を変奏した連作SF短編群(『ゴースト・オブ・ユートピア』収録作品)について、交わされた議論をまとめたいと思います。今回の議論には、翻訳家の増田まもる氏も加わっています。(岡和田晃)

 各作品のタイトルは以下の通り。

・一九八四年 (S-Fマガジン 2008年2月号、早川書房) (ジョージ・オーウェルを下敷き)
・愛の新世界 (S-Fマガジン 2008年6月号、早川書房)(シャルル・フーリエを下敷き)
・ガリヴァー旅行記 (S-Fマガジン 2008年11月号、早川書房)(ジョナサン・スウィフトを下敷き)
・小惑星物語 (S-Fマガジン 2009年2月号、早川書房)(パウル・シェーアバルトを下敷き)
・無何有郷だより (S-Fマガジン 2009年7月号、早川書房)(ウィリアム・モリスを下敷き)
・すばらしい新世界(S-Fマガジン 2009年12月号、早川書房)(オルダス・ハクスリーを下敷き) ・世界最終戦論(S-Fマガジン 2010年3月号、早川書房)(石原莞爾を下敷き)
・収容所群島(S-Fマガジン 2010年6月号、早川書房)(アレクサンドル・ソルジェニーツィンを下敷き)

岡和田:どうしてこのような連作シリーズを書くことになったのでしょうか?

樺山:『ジャン=ジャックの自意識の場合』を書いてから、実際に本が出るまで1年以上空いていたので、その間に新しいものを書こうと思って書いていたのが「1984年」の原型でしたね。ディストピアっぽいものを書けばSFでいけるんじゃないかと思って(笑)。

一同:(笑)

樺山:ただその時考えていたのは、今の連作とは違うものです。当時の構想していたものは、1984年を境に二つの世界に別れるといったものです。一つは「収容所群島」のように、人々があるシステムの中へ閉じ込められてしまっている世界。もう一つは、通常の「私」の世界が描かれるパート。村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』みたいな話ですね。しかし実際にSFマガジンからお話をいただいて、打ち合わせていくなかで、連作短編という形式が決まり、当初の構想からはだいぶん逸れていきました。

岡和田:その話は、「世界最終戦論」や「収容所群島」にも繋がりますね、「ありえたもう一つの世界」、オルタナティヴとしてのディストピアが描かれます。オルタナティヴのオルタナティヴ……という無限連鎖の迷宮の過程で「大東亜共栄圏」なり「収容所」なりが持っていた暴力性が、突如噴出してくる瞬間があります。
 ヒントになるのは、やはり「1984年」でしょうか。「1984年」のラストの部分を見たら見事に「ミノタウロスもの」になっていますね。佐藤亜紀『ミノタウロス』の解説を書いた時に、カール・ケレーニイの『迷宮と神話』を援用しました。彼はハンガリー生まれの思想家なのですが、ハンガリーの政情がよくなかったのでドイツ語で書いていた人です。75歳でユングと出会った彼の弟子ですね。

樺山:『迷宮と神話』は自分も読みました。

増田:私はケレーニイにはニーチェとの繋がりを感じます。

岡和田:そう、とてもニーチェ的な神なき時代の神秘主義とも言うべきものを感じさせる書き手だと思います。ケレーニイにとって迷宮とは「死」の隠喩なのですが、オーウェルの『1984年』で描かれた20世紀の病理と、迷宮という「死」の空間を彷徨う神話的経験が重ね合わさっているところに「1984年」の新しさを感じました。
 村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ではそうした神話的世界が非常にベタな形で描かれますが、この迷宮の構成には樺山さんならではの歴史への問題意識も感じます。ルソーの問題に戻りますが、小宮彰「ルソーと不可逆の時」(「思想」1978年6月号、岩波書店)に、ルソーの思想を数理的に分析したというものがあります。「自然からの乖離」と「時」がそれぞれ縦軸と横軸になり、逓減曲線のような形で革命の度合いが分析されるんです。つまり単に迷宮をさまようという行為でも、その行為を表に表して微分してみたら、どの程度現状が「暗黒の自然状態」に近いかがわかってしまう。そしてその微分は「革命」によって切断される。こうしたルソー研究のように、古典を神話的に解釈しながら、同時にひどく醒めた目で見ているようにも感じるのです。「笑い」も込みで。

樺山:「ユートピア」という言葉には、「最良の世界」と「どこにもない場所」という二つの意味がありますよね。自分が重点を置いているのは後者なんです。連作の前半は、「きみ」という二人称で呼ばれる人物が、ユートピア想像力に突き進んでいく話ですね。で、それの姿をこちら側で見ている誰かの存在が想定されている。これが第五話の「無何有郷だより」まで続く。そして第六話の「すばらしい新世界」で「ぼく」という一人称が出てきます。「どこにもない場所」に向かったはずの「きみ」。その「きみ」の経験が、「ぼく」にとっての「いま・ここ」を作り変えてしまう。そんな過程を描いています。
 それで第六話目以降でやっているのは「ぼく」という一人称が、どんな動揺をこうむっていくのかといいうことです。同時にこれは、小説の中で一人称というものがどうやって成り立つのかという、方法論的問題でもあります。「収容所群島」では、何度死んでも蘇ってきてしまう「ぼく」が主人公になっている。そうやってありえない想定を重ねながら、一人称の足場のようなものを切り崩していきたいんです。だから次にやるのは、ある種の擬似私小説ですね。バラードの「太陽の帝国」が元ネタになります。

岡和田:なるほど……。個人的には「ガリヴァー旅行記」が気に入っているのですが、この作品では、途中からなぜかテクストがホースラヴァー・ファットことフィリップ・K・ディックに接続されてしまいますね。その理由について考えていたのですが、ご説明によって腑に落ちました。

増田:ユートピア文学の先行作品を検証して出てきたものが、最初に考えていたものよりも違うものに変質していくということと理解しました。その過程は自分でコントロールできないのですか?

樺山:難しいですね。当初はここまで人称の問題にまで踏み込むつもりはなかったんです。ところがどんどんん追い詰められていった結果、最後には私小説しかできることがなくなってしまった。

増田:そうした意外性が、書くことの一番の面白さでしょうね。

岡和田:だからバラードの自伝的作品である『太陽の帝国』が出てきたということでしょうか。今回おっしゃったユートピアと人称というのは、連作短篇を読むうえでまたとないヒントになると思います。それでは、そろそろ時間なので、「樺山三英と一緒に、樺山三英の小説を語ろう」パネルを締めさせていただきます。本日は、どうもありがとうございました。

一同:(拍手)

 「SFセミナー2010」の後に「太陽の帝国」は実際に書かれ、「SFマガジン」に掲載されました。
 『ゴースト・オブ・ユートピア』には、その後に「SFマガジン」上で書かれた「華氏四五一度」も収録されています。

・太陽の帝国(S-Fマガジン 2010年9月号、早川書房)(J・G・バラード、SFセミナー2010を下敷き)
・華氏四五一度(S-Fマガジン2010年12月号、レイ・ブラッドベリを下敷き)

パネリストの岡和田晃は「太陽の帝国」の発表を受けて、「TOKON10公式ブログ」に「太陽の帝国」小論を発表しました。ご興味のある方は、ご覧いただけましたら幸いです。
 なおSpeculative Japanには、「ハムレット・スリップストリーム――樺山三英インタビュー」が掲載されているので、併せてご覧ください。
 それでは『ゴースト・オブ・ユートピア』、および「SFマガジン」2012年8月号での対談をよろしくお願いいたします。(岡和田晃)

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2012年6月23日 (土)

SFセミナー2010合宿企画「樺山三英と一緒に、樺山三英の小説を語ろう」(第二部)

Filed under: インタビュー, イベント, 評論, 報告 - 岡和田晃 @ 17:07:19

■第二部『ハムレット・シンドローム』の存在論

 SFセミナー2010合宿企画「樺山三英と一緒に、樺山三英の小説を語ろう」の第二部は、樺山三英氏の『ハムレット・シンドローム』について、共同パネリストの齋藤路恵氏が論じるものです。第一部はこちらをどうぞ。
 『ハムレット・シンドローム』は、久生十蘭の「ハムレット」と「刺客」を本歌取りし、「ハムレットもの」の入れ子構造、解釈の迷宮をなしている作品ですが、齋藤氏は存在論とジェンダーの問題から『ハムレット・シンドローム』を詳細に検討していきました。
 当日発表したレジュメの内容を、齋藤路恵氏に整理をいただき、こちらに論文として再掲させていただきます。最後に、会場で行なわれた質疑応答の模様をご紹介いたします。(岡和田晃)

―――――――――――――――――――――――――
『ハムレット・シンドローム』の存在論

 齋藤路恵

―――――――――――――――――――――――――

 本稿は哲学のフレームをわたしなりに噛み砕いて『ハムレット・シンドローム』の読解に用いたものである。
 『ハムレット・シンドローム』は5章に分かれた作品である。うち1-3章は存在論に関する話として、4-5章は存在論を経た後の実存についての話として読むことができる。
 そこで本稿ではまず存在論についてまとめてみる。その後、登場人物の実存の課題について触れてみたい。

Part 1: 前提としての存在論

① 存在論について

 人間が事物を物事を認識するには比較するものが必要である。比較するものがまったくないものは認識することすらできないだろう。人間は他人がいることで初めて自分の存在を認識することができる。

 ところで存在と比較されうるものはなんだろうか。
 存在と比較されうるものはおそらく無である。

 しかし、無とはいったいなんだろうか。
 無はその定義上、音も静寂も光も闇も時空も概念も認識するわたしも存在してはならない。無とはわたしにとってすべての人間にとって感知しえないものである。

 ここで重要な問題が出てくる。
 人間は無を感知しえないにも関わらず、なぜ存在という概念を理解できるのだろうか?

 わたしはこの問いの答えを示すことができない。

ⅰ:確実に存在するものとは何か

 先ほどの問いの答えは置いておいて少し違うところから考察を進めてみよう。
 存在について考えるために、まず確実に存在していると言えるものについて考えてみたい。
 確実に存在する唯一のものはわたしの意識である。
 「我思うゆえに我あり」と言えばよいだろうか。この意識をここでは「現存在」と呼ぶことにする。
 現存在以外のものはすべて、存在が確実ではない。

 子供のころ「今の自分の生活は夢で、目が覚めたら全く別の自分になっているのではないか?」と想像したことはないだろうか。
 荘子の胡蝶の夢という話がある。荘子は自分が蝶になる夢を見る。夢の中で荘子は蝶になりきり、自分が荘子であるころとは全く念頭にない。
 しかし、目が覚めると自分が荘子であることに気づく。荘子である自分が夢の中で蝶となったのか、蝶である自分が夢の中で荘子になっているのか、いずれが本当かわからない、という話である。

 夢でわたしたちは他人になることもあり、そして、そのことを目が覚めている時の自分の経験と区別することができない。
 また、わたしたちはしばしば自分の夢の中に出てくる他人の言動に驚かされたり、不意をつかれたりする。
 夢の中に出てくる他人は明らかに自分の頭脳の中にしか存在しないにも関わらず、である。

 このように私たちが見ている物や出来事はすべて私の妄想である可能性がある。
 しかし、全部を妄想だと思っていては社会生活が営めない。そこで、確からしいものと確からしくないものを峻別して、確かしらしさの高いものは実在するものとしてふるまっているというわけだ。

 この確からしさは、感覚なので、基本的に自分で強弱をコントロールすることはできない。もし、コントロールするとすれば、何度もそのシーンを繰り返し、確からしさを脳に刻みつけることになる。
 蝶としての自分が荘子としての自分よりも確からしくなるまで、イメージトレーニングを積むということだ。
 『ハムレット・シンドローム』ではこの確からしさをめぐる問題が描かれる。

ⅱ 存在を考える時の時間的な遅れ(差延)

 現存在は、言語というフィルターを通してしか自己も存在も把握できない。

 例えば、私が道を歩いている時に、同行者が突然「あっ、あれ!」と道を指したとする。しかし、同行者の指の先には何も見えない。同行者が「ほら、あの茶色くて、丸くて、縦に白い線の入った小石!」と言って私は初めて小石の存在を把握することができる。
 わたしたちは言語で世界を分割していて、その意味の体系にないものは目に入らない。

 ところで、言語というフィルターは常に時間的な遅れを伴うという考えがある。  ある言葉は比較する他の言葉との相関関係で成り立つ。過去の言葉との不断の比較により成り立つということだ。この他の言葉との比較および差異化には必ず時間が伴う。
 また、考えることは「自分が―話すのを―聞く」という過程であるが、話すと聞くとの間に必ず時間が発生する。
したがって、言語は常に既に遅れてしか存在できないと考えられる。英語でpresentは現在のことだが、これに再度を意味するreをつけると、represent 表象・代表という意味になる。こう考えると、わたしたちは現在を直接的に経験することはできず、常に遅れた言わば「痕跡」としてしか経験できないということになる。

ⅲ 無と死について

 現存在は、また、気がつくと常に/既に存在している。現存在は自己の存在の始まりを見ることができないし、自己の存在の終わりを見ることもできない。
 ところで、死は無になることだとは言うが、それはいったいどういうことなのだろうか。無は先に述べたように感知しえないものだ。
 だとすれば、無というものは存在するのだろうか。
 しかし、「無」が「存在する」という言い方自体がすでに矛盾をはらんでいる。
 数多くの宗教が死後の生や輪廻転生を想定しているのは、こうした矛盾と関係しているのかもしれない。

②実存の問題について

 実存とは何か、という問題にも少しだけ触れておこう。
 さて、存在論で大風呂敷に話をひろげたが、実存の問題は逆にわれわれは人生をどう生きるべきかという具体的な問題だ。
 先ほど、他との比較でしか認識は不可能だと述べたが、それは物事には本質などないことを意味している。あるものの定義というのはあくまでも他との相関関係によって決まるということだ。
 人生にも同じことが言え、人の生き方に本質的とされるものはない。「人間は自由という刑に処せられている」というわけだ。

 『ハムレット・シンドローム』は存在論を経た後の実存の問題を扱う物語だ。

Part 2: 存在論を経た後の実存

 複製品(シミュラークル)が溢れ、オリジナルは存在しないかないに等しく、大きな物語(人生を方向付ける社会的な物語)も崩壊したところで個人はどう生きていけばいいのだろうか?

 コマツアリマサは以下のように述べる。以下、セリフの語り手を示す( )は引用者による。

(コマツ)「でもその結果がこれだ。みんなが自分を見失い、どこに帰ればいいのかわからなくなった」
(コトコ)「それは、いけないこと?」
(コマツ)「いいわけないだろ。このままだったらぼくらはほんとに自分を失う」(243頁)

 コマツは自分を失うことを恐れている。コマツは自分を保つ(=失わない)ためには帰る場所=基準点が必要だと考えている。
 では、コマツは帰る場所=基準点をどこに見出すのだろうか。コマツは事故とも自殺ともとれるような窓からの転落を果たす。転落のさなかにコマツは思う。

 きみが誰であれ、ぼくが誰であれ―――なんという名で呼ばれるのであれ、
ぼくは、きみのことが好きだ。(197頁)

 コマツは世界の意味や人生の意味のようなもの、つまり「大きな物語」は発見できない。(筆者は原理的に発見できないと思っている。)コマツが基準点として見出すのは恋愛という個人的で小さな物語である。

 コマツの恋慕の対象、ニシノトイコトコはどうだろうか。

 時々意識に、ひどいノイズが入って、気づくとわたしは、どこか知らない場所で、誰か知らない人たちに入り混じっている。汗ばんだ肌と湿った吐息の臭(にお)い。むせ返るような熱気の最中で、何度も何度もわたしは吐いた。いろんな人たちと寝た。あたたかい泥の中を転げまわるよう。顔も思い出せない誰かと、名も知らない誰かと交わった。わたしはみんなの恋人になった。(222頁)

(コトコ)「妊娠してる」
(コマツ)「誰の子? ぼくの? それとも幽霊が、きみを孕(はら)ませたのか?」
(コトコ)「そうかもしれない。そうじゃないかも。でもこう考えることだってできる。この子自身が幽霊なんだって。だってこの子はまだ誰でもない。何者でもない誰かなんだから」(244頁)

 コトコは恋愛をコマツのようには考えていない。恋愛を帰るべき場所=基準点ともとらえていないようだ。強いて言うならコトコの基準点は可能性の多寡にある。より多くの可能性を持つものがコトコの好みとなる。

 しかし、なぜコトコの好みは可能性の多寡なのだろうか。コトコの他の側面からこれについて考えてみよう。
 コトコにはいくつかの側面がある。

 コトコは「ヘソムラアイコ」として被虐的な想像をしている。

 冷たい鉄の器具の感触をよく憶(おぼ)えています。とても鮮明に。彼はわたくしの全身の穴という穴を、器具で押し広げ、その一々(いちいち)を検分しました。わたくしは鳥肌が立つのを感じ、早くも魂と離脱させる必要がありました。(120頁)

 一方でコトコは加虐的な行為で興奮してもいる。

 彼の顔が青ざめていくのがわかる。わたしはいくらでも残酷になることができた。なおも、言葉で責め立てる。傷口を開き、舌で嬲(なぶ)って、ズタズタに引き裂く。わたしはだんだん興奮して、彼がその場でうずくまり、涙を流しても容赦しなかった。そしてとうとう動かなくなるまで続ける――。(230頁)

 被虐的な想像にせよ加虐的な行為にせよ、共通するのは身体の快楽である。
 大きな物語に意味を見いだせなかったコマツは小さな物語である恋愛に意味=価値を見出した。それは恋愛の対象であるコトコに価値を見出すということでもあった。
 だが、コトコは特定の個人に価値を見出さない。コトコの想像の中でソフエヒカルとニシノトイアユコの恋は実らない/実る必要がない。
 コトコは物語も意味も必要としない。コトコに多少なりとも価値があるのは快楽である。

 また、コトコは輪廻のモチーフを愛好する。

(「ヘソムラアイコ」がハムレットことコマツアリマサの言ったことを回想するシーン)
「澄み切った修行僧の声で、殿下は仰しゃいます。
「輪廻(りんね)は教える。一つの魂が、いくつもの肉体に生まれ変わって世を生きるのだと。だが、何もかもさかしまなこの城では、摂理さえもが覆された。たった一つの肉体を、いくつもの魂が共有している」
 厳密な舞踏家の声で、殿下は仰しゃいます。
「意識の気取りは、運動の重心を移してしまうわ。自我というのは過(あやま)てる中心。それさえなければ、わたしたちは軽やかに、蝶(ちょう)や鳥のごとくに羽ばたける。だからそう、わたしはなるの。鉱物の花嫁になるの」(後略)(135-136頁)

 コトコは常に既に存在していることへの悲しみを抱いている。

 わたくしはそう、とても同時で複数でした。いえおそらくは、わたくしばかりではなく、この城のすべてがそうです。そうだった。わたくしは知ったのでした。この城は一つに見えて実はちっとも一つではない。お客様ご自身でさえ、けっしてお一人なのではなくて、わたくしたちの前にたたずむ、幾人ものうちのお一人なのです。
 昨日のわたくしと今日のわたくし。二つが同じわたくしだなんて、いったい誰に言えましょう?そう、ある意味ですべての時間は過ぎ去っています。わたくしたちは取り残された過去の断片。不完全な記憶。瞼(まぶた)の裏に見た、あの淡い残像でした。(140頁)

 いいえでも心配はありません。わたくしはあの月の正体を知っています。わたくしは見たことがある。いつかの夜に。わたくしの目の前で月は、急な突風にくるくると回転を始めたのです。ああ、とわたくしは思いました。本当にペラペラの偽物だったのだと。
 同時にわたくしは足元を見ました。月光に照らされた影は薄っぺらで、指でつまんでめくれそうです。わたくしもまた、きっとよくできた偽物でした。わたくしはどこかほっとした思いで、しかしひどく悲しくて泣きました。(148頁)

安定は人を落ち着かせる。一方でオリジナルもコピーもなく、永遠に変化のない連続というのはどこかむなしく悲しい。コトコはコマツのように限りある生に意味を充足させようとは思っていないようだ。

 すべてが存在し続け、すべてがコピーであると感じられるコトコにとって、世界は平板である。意味を充足しようと思う隙もないほどに平板である。そして、それは世界に住む他者もどこか平板であるということではないか。コトコは自己と他者の区別があいまいなのではないか。もう一度この文章を引こう。

 彼の顔が青ざめていくのがわかる。わたしはいくらでも残酷になることができた。なおも、言葉で責め立てる。傷口を開き、舌で嬲(なぶ)って、ズタズタに引き裂く。わたしはだんだん興奮して、彼がその場でうずくまり、涙を流しても容赦しなかった。そしてとうとう動かなくなるまで続ける――。(230頁)

 自分の生が平板である以上、それが投影された他者の生もまた平板である。したがって嬲(なぶ)ることも容易である。ただし、それは他者の可能性は自分の可能性であると感じることでもある。

 わたしたちはみな、誰かを真似て誰かになるんだ。だから虚(うつ)ろで、中身を欠いている。それはそれでもかまわなかった。それが悲しい理由じゃなかった。わたしがどうしても我慢できなかったのは、もっと単純なことだ。
何かを得るには、何かを失わなければならない――たとえばそういう、ひどくありきたりな言葉で言うこともできた。わたしたちはたしかに、この世に生まれて、成長をして誰かになっていく。けれど誰かになるのを選ぶってことは、別の誰かになれた自分を消してしまうってことでもある。
 誰もがきっと生まれる前は、誰でもない誰かだったはず。それなのにただ生まれるだけでも、多くの可能性を失(な)くしてしまう。そんなふうにわたしたちはずっと、生きている限り失い続ける。わたしたちの手のひらから、こぼれ落ちていった世界。わたしにはそれが、ひどく懐かしく愛(いと)おしく、涙が出るほど悲しいものに見えた。(218-219頁)

(コトコ)「でもわたしたちが生きているのは、そのあてにならない未来のためではないの?死んだ人のことなんて忘れたっていい。生きている人のことだって、もう。でもわたしたちはまだ生まれていない誰かのために、ここにいると思うの。わからない?」(244頁)

 連続した存在に悲しみをおぼえるコトコは、変化の可能性に希望を見出す。自他の区分があいまいなコトコにとって、他者を生むとは自己の変化の可能性を広げることである。

 わたしは虚空へのあゆみを止めて引き返す。大丈夫、わたしは小さくそうつぶやいた。
あなたはまだ生まれてもいない。ちゃんと産んであげるから大丈夫。だってあなたは。まだ誰でもない王子。これまでに話したすべてが、あなたが生まれてくるまでの物語。でもぜんぶを忘れてまっさらな余白に、あなたはただ生まれてくればいい。まだ始まっていない、あなた自身を始めるために。もう一度、始めるために。
 だからわたしは、新しい王子(ハムレット)を産んだ。(245頁)

 自他の区別がつかないコトコの子育てがどのようになるかは考えると恐ろしい。
 だが、それは本稿のテーマではない。(齋藤路恵)

―――――――――――――――――――――――――

●質疑応答

齋藤:ひと通り発表が終わってこちらは質問なのですが、ヘソムラアイコはなぜ陵辱されるのでしょう?

樺山:これは単純な理由で、ゴシック小説の定形だからです。凌辱される侍女、というのは典型的なパターンですよね。ここはあえてその定形を使っています。

齋藤:ありがとうございます。続いて、「死んだ父と狂った歴史」、というのがあの作品(編注:『ジャン=ジャックの自意識の場合』)の主要なモチーフだったわけです。ただそういう意味で、前作が《父性と歴史》を扱っていたとすれば、今回の『ハムレット・シンドローム』が扱っているのはむしろ《母性と回帰》みたいなものですね。恋人=オフィーリアと母親=ガートルードという二面性がいちばんの問題になってくる」とインタビューで話されていたのはとても不思議な感じがしました。この小説に母性なんかあったっけ? と素朴に思ってしまったのですが、母性とはなんでしょうか? また、この疑問とも関わりがあるので一緒にお聞きしますが、ヘソムラアイコはなぜ妊娠するのでしょう?

樺山:……難しい質問です。岡和田さんはこの点、どのように読まれました?

岡和田:おそらく齋藤さんが引っかかっているのは、『ハムレット・シンドローム』が、歴史を一種の観念として捉えている部分ではないでしょうか。登場キャラクターに名前や来歴は付与されている一方で、なぜ身体は受け継がれていないのか。ハムレットで言えば、ハムレットを演じる役者の身体性は無視できないはずですが、それはどうなったのか、という問題ではないでしょうか。
 ここから考えると「生むこと」の問題にも繋がる。出産って、いわば身体性の極地だと思います。女性だけの問題ではありませんよ。男が子どもを生む、というSFもありますから。その点、この小説はあえて「生むこと」をメタファーとして捉えているのではないでしょうか。歴史を観念として捉えている。そこが、身体性にこだわる齋藤さんの問題意識とぶつかる部分ではないかと思いました。
 登場キャラクターに名前や来歴は付与されているが、なぜ身体は受け継がれていないのでしょうか。ハムレットの例で言えば、ハムレットを演じる役者の身体性は無視できないはずです。私の読解では『ハムレット・シンドローム』は、身体感覚というよりも発生論的な歴史を中心にした作品ではないかと考えています。突然、何かがポコっと生まれる。そのことの連鎖で歴史が発生することへの驚きと言いますか。
 最近、佐藤亜紀『ミノタウロス』(講談社文庫)の解説を書いたのですが、あの作品はロシア革命の余波を受け、一見革命とは無関係な村落共同体から農民反乱が突如発生し、それに巻き込まれてしまう話なんですね。それを『ミノタウロス』は、徹底して観念を排した形で描きますが、むしろ『ハムレット・シンドローム』は再帰的に観念へ向き合っているように思えます。

樺山:ありがとうございます。おそらくお二人に集約されるのは「母性」とは何か、という話ですよね。
 でもこの小説がやっているのはわりと小さいことで、発生論的な問題でもありますが、どちらかといえば精神分析的な色彩の強いものです。『ハムレット』は、お母さんが再婚して寂しいという、そう読んでしまえばひどくつまらない話でしょう。いじけた王子様の話で、自分としては、そういうせせこましい部分が好きなんです。
 『ハムレット・シンドローム』は枝葉を切り落としていくと、すごくシンプルな話だと思っています。つまりハムレットの演技を始めた男の子と、それに巻き込まれた女の子の話。でも実際に演劇が始まってみると、巻き込まれた女の子の方がナチュラルに演技をしてしまっている。男性の側から見ると、これってなんだかすごく不安な現象に思えるわけです。もちろんこれは、いくぶんベタな精神分析的な枠組みに乗っかった話なわけですが……。
 ジャック・ラカンに「女は存在しない」という有名なテーゼがありますよね。つまり女性というものは、どこまでも変容していくものであって、確固たる存在を持たないのではないか?という考え方です。男性にとって演技というのは、演技をしている自分とそれを見ている自分というものをはっきりわけた上で成り立つ行為であるわけですね。どこかに自意識という担保を置いておかないと不安になってしまう。ところが女性というのは、そんなつまらないものを必要としていない生き物なのではないか――。
 話を『ハムレット・シンドローム』に戻しましょう。主人公の少年は、お互いが演技をしているという前提のもとで、少女との二者関係に入るわけです。「キミとボク」の二者関係ですね(笑)。ところが少女の方は、そんな前提などなかったかのように、次々に「違う自分」に変わっていってしまう。少年はそんな彼女を追いかけて捕まえようとするがそれできない。自分が始めた演技だったのに、相手のほうがずっと先にいってしまった――。そういう混乱がお話の中心にあるわけです。
 この女性なるものの不気味さ、わからなさというものがつまり、ここでいう「母性」なんです。いや、イコール母性というと言いすぎかもしれないけれども。でもいとも簡単に、自分以外のものを自分の中に産み出してしまう能力、これは広い意味での「母性」にあたるのではないかと。自分がインタビューで言っていたのは、だいたいそんな意味合いですね。

岡和田:カール・シュミットの『ハムレットもしくはヘカベ』に、ハムレットには原(ウル)ハムレットという元ネタがあるが、当時の政治的事情のために母親を悪く書けなかったという事情がテクストの成立に入り込んでいる、という意味のことが書かれています。
 お話を享けて、樺山さんの言う個人の関係性が、こういう大きな歴史の制度的問題による抑圧という広い文脈にも接続できるのではないかな、ということも考えました。

(第三部:「きみ」と「ぼく」をめぐる冒険――『ゴースト・オブ・ユートピア』へ続く)

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