2018年2月18日 (日)

思辨改計劃・初期目標達成、完了!

Filed under: 最新情報 - 野阿 梓 @ 23:59:00

関係各位のご声援、ご叱咤激励の中、どうにか、当「思辨改」サイトは、当初の目標であった、旧SPJサイトの回収データ分の復旧を完了し、第一段階は成功裡に終わりました。
ありがとうございます。

トップページにも記しましたように、このプロジェクトは、SPJサイトの創設メンバーだった荒巻老師の、ネット某所での打診に応えて、当方が手を上げて、その「要請」によって開始したもので、その際、同じく創設メンバー並びに、サイトを実際に立ち上げ、アドミニストレータをやっておられた増田まもる氏の了諾の上で、推進してまいりました。
お二人とも、スタート時には、非常に歓んでいただき、これが、なによりの励みになりました。

復旧データとしては、これも開始した時のトップページに記しましたよう、誰でもアクセス可能な、ネット上のタイムマシン、インターネット・アーカイヴから元サイトのデータを回収し、その他、自分でも採取していた補完分もふくめて、約1.7MBほどのテキストファイルを元にして、復旧を行いました。

このたび、一次目標達成につき、全データをエクスポートいたしましたので、これで、いつでも、どこでも(フリーのブログやその他のサイトなど)、旧SPJは、再構築が可能となりました。

こうしたことを付言するのは、不幸にも、現在、当方にはアンチがいて、たまたま、その方が、当該SPJのメンバーだったことから、作業半ばまで進行した時点で、「これは著作権侵害行為だから、ただちに自分の文章を削除されたし」との連絡を受けているからです。

こうした「著作権」を振りかざして相手を恫喝する手口は、パソ通時代から、さんざん目にしており、今に始まったことでもない、ことふりに足りたものですが、当方としては、「削除要求には首肯しがたい」、として、慎んで謝絶もうしあげております。

なんとなれば、このサイトは、もう一人の人間の所有物ではなく、いわば、公共財だからです。
しかも、当方は、創設メンバーから要請と許諾にもとづき、これを代理で行っているわけですし、元サイトがネット上のSFというサブジャンルにせよ、それは文芸批評サイトだったわけで、その学問的水準は、作業しつつ、瞥見しておりましたが、非常に高いものです。すなわち、当方が行っている作業は、文芸批評における「学術的引用」にすぎない。だったらこれは、著作権法上の「例外規程」に入りますから、法的にも、なんら問題ないわけです。当方は、すでに退職しましたが、長く大学図書館に勤めておりましたので、こうした著作権をめぐる法理には、神経質ならざるをえないのですが(文化庁の主催する著作権講習にも参加しております)、その上で、これは著作権法上、なんら問題ないもの、と判断して、作業を開始しました。
よって、特定の個人の言説だけ、著作権をたてに、削除するのは、当方は、これは認めません。だから、削除要求を謝絶した次第です。こうした経緯から、法理の解釈はべつとして、そのアンチな方も含め、関係各位のご理解、ご寛容をいただきたく存じます。

目下、増田氏が呼びかけて、かつての投稿者による、未回収データの補完をお願いしているところです。これにお応えして戴ければ、インターネット・アーカイヴではサルベージ出来なかったデータが、当人、当事者だった投稿者自身によって、補完される予定です。補完データは、そのまま、当方が当サイトにアップロード(インポート)いたします。
なにとぞ、(アンチの方のような狭量な言い条でお応えするのではなく)、旧サイトの完璧なる復旧を目指して、各位の快いご協力をお願いするものです。
どうか、よろしく、ご高配ください。

そもそも、当方は、本来、旧SPJとは、「無関係」な人間です。
旧サイトのサイドバーを見ると、メンバーには名を連ねておりますが、いちども、そこに投稿したことはありません。
当方が、某SNSで書いて、文書中に「この転載を許可する」旨、記した「日本SF評論賞」に関する、過去に書いた文章の過ちを認めて、これを正し、その「正史」というか、賞設立の裏側をつづった文章を、ほぼ全文引用して、某氏が投稿してくれたのが、唯一の例外です。が、しかし、これは、いわば、ツィッターで、「拡散希望」とある文章を弘めたようなものです。あくまでも、投稿者は当方ではありませんでした。
だから、SPJには、当方が積極的に関わったことは一度もないのです。

では、なぜ、当事者でもない、当方がこの作業に挺身したのか?
それは、あくまでも、あの2007年のワールドコンのパネル「Speculative Japan :ニューウェーヴ/スペキュレィティヴ・フィクション」において、かつて論敵同士で、今や盟友同士となった、山野浩一、荒巻義雄の両氏が、ともに手を携えて、壇上に上がり、非常にアグレッシヴで有意義な論議を交わした、あの情景を目の当たりにし、それを心に刻んで、感銘に拍たれたからに他なりません。(歴史が動いた!) そう思えた瞬間でした。

その時のパネルの司会ならびにコーディネータが、増田まもる氏だったのですが(氏は、NW-SF門下生でしたから、その時までには、当方は、山野さんとの交友の中で、いちどならず面識は得ていたと憶えております)、聞くところによりますと、パネルが終わったあと、荒巻さんが、増田さんに「こうした有意義な論争があっても、それは消えてしまう。なんとか、形が残るような方法で、そうした論争の場を作れないものだろうか」と相談して、その意気に感じた増田さんが、同年末に、立ち上げたのが、SPJサイトでした。
すなわち、SPJとは、論客・荒巻義雄氏が、盟友の門下・増田まもる氏とともに、共同創設者として立ち上げたSF批評系サイトだったのです。

増田氏には、パネル当日、当方が、山野さんのすわっていた席近くに、こそっとICレコーダを置いて(それを黙認してもらい)、全発言を録音していたのですが、パネルのまとめを、増田氏がワールドコン総括に際して書く際に、その音声データをMP3とCDに焼いて提供したことがあり、それゆえ、SPJに、メンバーとして当方の名を連ねてくれたのだ、と解釈しています。

一方、その間――、
ほぼ並行して、荒巻氏をはじめ、山野浩一氏や増田さんも、日本SF作家クラブに入ってくれました(荒巻氏は、再入会でした)。特に山野さんのクラブ入会には、70年当時、SF界の検事だなんだ、と否定的に云われ続け、その真っ当な言論が、黙殺され続けていたのを、1ファンとして、歯がみしながら見ていた当方らとしては、欣快至極なる状況が出来したわけであります。
いい時代になったものだ。しみじみ、そう思いました。

しかしながら、その中でも、荒巻さんは、ただ(一時的に離れていた)SF作家クラブや、SF界そのものに形ばかり復帰しただけではありませんでした。
上述した訂正文書にも明記しているように、巽孝之氏を始めとする、何人もの会長をふくめた有志の、たゆまない尽力により、2006年度から早川書房にて発足した「日本SF評論賞」の選考委員長を自ら務め(2007年から2011年まで)、おびただしい数の新人批評家(の卵)を見出し、輩出させたのです。
2006年から2014年まで、9回、9年間つづいた、この賞から、今まで見たこともない新たなるSF批評の新人たちが、簇生した姿は(特別賞などまで含めると、総勢15名にのぼり、また、最終候補となった中からも活躍している人もいると聞きます)、まさしく、いまだかつて日本SF界が経験しえなかった素晴らしいランドスケープでした。

確かに、日本SF界には、過去に優れた批評家はいました。
しかしながら、それは、1世代に一人か二人、といった感じでした。第1世代からは、石川喬司氏、山野浩一氏、第2世代からは川又千秋氏、(少し距離と時差はあるので第3世代かも知れませんが)笠井潔氏、第3世代からは巽孝之氏、中島梓氏、といった印象で、個々に孤立した営為として、それぞれ独自の批評世界を創り上げておられた。

とにかく、SFM2月号事件に淵源するように、日本SF界では、本格的な批評が、「不当に」少なかったのです。それでも、80年代に、米国でアカデミックな体系を背景に、折から巻き起こったサイバーパンクの運動の「現認報告者」として名を馳せた巽氏や、独学で、世間の大学教授よりも遙かに該博な知識体系を身に着けて、SF界というよりも思想界に新進気鋭の批評家として躍り出た笠井氏などは、当時、われわれの目には、非常に斬新に映ったものです。しかし、それでもなお、彼らは「孤独」だったのです。互いに交流していらしたのは確かですが、圧倒的に数が少なかった。これは、否めない事実です。

今のように、10人を超える多勢の新人批評家たちが、しかも、独自に異なる思想背景や、多彩なる専攻ジャンルをもって、輩出し、活躍するなど、まず未踏の世界だった。
最終候補者まで含めた詳細は、下記サイトに記載が有りますので、ご覧ください。壮観です。
http://prizesworld.com/prizes/sf/nsfh.htm
われわれは、そういう意味では、目下、空前絶後の幸福な世界にいるのかも知れない。そう思わせる、それは光景だったのです。

その一助をなしたのが、SPJサイトでした。
むろん、ほぼ同時期、独自に「限界研」を立ち上げて、そうした新人批評家たちに、大きな仕事を次々にまかせて急激な促成をなした、オルガナイザー・笠井潔氏の存在を忘れてはならないにせよ、なんといっても、生まれたばかりの新人批評家たちに、論争の場を与えて、そこで積極的に発言し、互いに切磋琢磨させたことは、おそらく、彼らを急速に生長させた、と思われます。すなわち、SPJなくしては、現在の彼ら、若き批評家たちが、今日あることは無かったでしょう。

その意味では、荒巻老師と増田氏の存在は極めて大きい。
そこで、ネット某所にて、老師から、打診を受けた当方は、ためらいながらも(実際の作業に入ったら、他のことが出来なくなるのは判っていましたので)、手を上げさせてもらった次第です。本来「当事者」ではない自分が、すこしでも、老師たちの成し遂げた営為に、一助となれば、という思いで、その要請に応えたのです。

結果的には、(まだ途上ながら)自分でも、やってよかった、と思います。
なんといっても、若い世代の言説が、めっぽう面白い(笑)! これは、今まで、傍観者としてSPJを漫然と眺めていた当方にとって、その論考の一つひとつまで、熟読する、という得がたい機会でした。むしろ、こうした作業をするチャンスを与えて下さったことで、当方は老師と増田氏に深い感謝と畏敬の念をいだかざるをえなかった。それほど、やっていて楽しく、有意義な仕事でした。

荒巻老師、そして増田氏には、深甚なる感謝の意を表したいと思います。
本当に、ありがとうございました。

そしてまた、すこし個人的なことですが、この拙い仕事を、山野浩一氏の霊前に献げたいと思います。
日本SF批評界は、山野さんが論争し、NW-SFにて育成した人々によって、その支援を受けて、今、いまだかつてない豊饒に賑わっております。
どうか、安らかに、お眠りください。

2018年2月11日 (日)

思辨改 speculativejapanサイトのリブート

Filed under: 趣旨説明 - 野阿 梓 @ 12:00:00

当該サイトは、かつて存在した、「speculativejapan:ニューウェーヴ/スペキュレィティヴ・フィクション・サイト(以下SPJ)」の復旧および復活の準備を目的として作成される。

当作業は、元サイトであるSPJの事実上の創設者メンバーの一人、SF作家・荒巻義雄氏の依頼を受け、同じく創設者メンバーであり、サイトのアドミニストレータ(実質上の管理人)でもあったSF批評家・翻訳家の増田まもる氏の了諾のもと、純然たるヴォランティアで行っており、野阿一個人の恣意的な営為ではない。
さらにいえば、これは、クラッキングされていなければ、今も現存しているはずの永続的な批評サイトであり、創設メンバーの増田氏は、今年中にも、同サイトの再開を期しておられることを、お知らせしておく。
そのためにも、当時、クラッキングにともなうウィルス汚染で壊滅したSPJサイトの復旧は、今日的にも意義のあることだと思うし、また、その復旧は、サイトの主旨や内容からいっても、「学術的引用」行為の域を出るものではない。
往時の関係各位には、増田氏から、ご協力の依頼(未回収データの復元)があっていると思う。SPJ復活をめざして、なにとぞ、ご協力願いたい。
以上、念のため、お断りしておく次第である。

復旧に当たっては、元サイトがクラッキングで壊滅しているため、「インターネット・アーカイヴ」サイトのデータを基に復元作業をすすめている。これは公開データだから、誰でもアクセス可能である。

以下、バックデートで過去ログを復旧しつつ、新たなるSFの思弁的論争の再開を準備する場となしたい。

各位には、よろしく、ご協力その他、お願いする次第です。

                                文責:野阿 梓

2013年3月 8日 (金)

杉山恵一氏追悼「ドンブラコンルポ」掲載

Filed under: 寄稿, 追悼文, イベント - 高槻 真樹 @ 2:10:21

 杉山恵一氏は、静岡大名誉教授にして環境運動家。日本に「ビオトープ」という言葉を紹介した人物でもある。だがそんな杉山氏には、ほとんどSFといっていい幻想的な前衛小説家としての顔もあった。

一昨年の第50回日本SF大会「ドンブラコンL」に地元静岡の作家として颯爽と登場、その独創的な作風でSF界を騒然とさせた。その後『しずおかSF 異次元への扉』でも紹介され、ますます関心を高めている。

そんな中、昨年末、杉山氏が他界されたことを報告しなければならないことは痛恨の極みである。まさしくこれから、というところだったのに……だが、私たちの前には、たくさんの知られざる作品がある。ここに紹介するのもその一本で、ドンブラコン参加直後に書かれ、静岡の文芸同人誌「エプシロン」に掲載された「SF大会参加ルポ」である。ルポであるのにまるでSF小説のような手触り。これほどの書き手がもういないことに無念の思いを禁じえないが、ここに紹介することで、杉山氏追悼に替えさせていただきたい。転載をご快諾くださった美智子夫人、およびエプシロン主宰者の上野重光氏、本稿の意義にご理解をいただいたドンブラコンL実行委員長の池田武氏に感謝いたします。(高槻 真樹)

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SF全国大会探訪(7IX11)

杉山恵一

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昨年(2010)の秋、異界からの声が頭上に聞こえ、「汝静岡のSF作家よ、SF全国大会に来たれよ」と告げたのであった。

というのは真っ赤なウソで、事実は次のようなことである。ここに高槻真樹氏という若きSF(サイエンス・フィクション)評論家がおられて、2011年度のSF全国大会なるものを静岡グランシップで開催するに当たっての責任者の一人を務められることになった。その関係で静岡県下のSF作家、および静岡を舞台・題材としたSF作品あるいはSF的作品を探索していたのであるが、その触手に私の作品が感知されたということであった。その作品とは1984年の文芸静岡50号に掲載された「黒目のワルツ」という超短編であった。評論家というものの探索力には驚かされたが、生物分類学者である私が専門分野の生物の新種や珍種を探し当てる能力になぞらえて理解することができる。なおSFの全国大会は毎年どこかの都市で開かれ、静岡で開かれる2011年の大会は、50回目という記念すべき大会であるということであった。大会は9月3~4日に開催されることになっていた。

高槻氏とのコンタクトは、氏が藤枝文学館に私の連絡先を問い合わせたことに端を発している。文学館の事務の女性から、そのひとに住所・電話番号を教えて良いだろうかと訊いてきたのであるが、私の方はがぜん緊張した。なぜならば、これまで私の作品に強い関心を示してくれたひとびとの中には、なにやら普通でない人物が少なからずあったからである。私自身はご承知のようにきわめて常識的な人間であるが、私の作品からはどうやら沼地の住人を呼び覚ます波長が発せられるらしく、そのような人びととの対応には苦慮させられた経験があった。これは先手を打つに限る、と判断した私は文学館事務から教えられた相手の電話番号に電話をした。電話に出た相手はハキハキした話しぶりで妖しい雰囲気ではなく胸をなで下ろしたのであるが、その話の内容はやはり驚くべきものであった。それは、「黒目のワルツ」はまぎれもなくSF作品であり、それを書いたわたしはまぎれもなくSF作家である。だから翌年静岡グランシップで開催されるSFの全国大会に地元作家ということで招待したい、というものであった。

その後のやりとりはすべてメールということになったが、漱石をめざしてがんばってきた私にとって、SF作家として評価されるということは、なにやらトカゲに脇腹を舐められるような感じではあった。しかし高槻氏とひんぱんにメールのやりとりをしている間に、しだいにこの大会に対するプラスの認識が深まっていったのである。そのひとつはこのSF大会なるものが好い加減な組織ではなく、1962年という早い時期に筒井康隆氏などをメンバーとして発足し、すでに49回の全国大会を踏み行っているという信用の問題であり、さらにもうひとつのこととして、永年念頭にあった疑問、若手の書き手たちは今どこでどうしているのかという疑問を解く鍵に触れることができるかもしれないという期待であった。

私は1970年代から「文芸静岡」を機関誌とする「静岡県文学連盟」(県文連)という集団に所属し、いちおうは明治以来の文芸の本流とおぼしき純文学の書き手たちの間に身を置いてきた。もちろん本誌もその系統のものである。これまで、自分の作品はどうもいわゆる純文学らしくないところがあるとは思っていたが、SF作品であるなどとは夢にも思っていなかった。ガルシア・マルケスの作品が純文学なら自分の作品も純文学であるとの確信を抱いていたというわけである。ただし、今読み返してみると、同人のなかでは変わり種であったかなという感じはある。
それで、そのようないわば伝統的文芸集団であるが、その悩みの種は後継者たるべき世代の参加がさっぱりないままに年々高齢化しつつあるということである。県文連の平均年齢もおそらく70才になんなんとしているのである。だから、たまたま50代の参加者があったりすると(若手がきた)とざわめき立つというわけである。それで、ときおりその仲間内で、
(いまどきの若者は文学に興味がないのだろうか)
という疑問について話し合うこともあった。しかし、はかばかしい解答は得られないのが常であった。それが、高槻氏の話によれば、毎年のSF全国大会には1000人を越す参加者があるということであり、もっと後になって知ったことだと、その参加費はじつに2万円であるということで、その隆盛に驚くとともに、
(なるほど、若者達はここにいたのか)
という感慨を覚えたのである。この辺から、このSF大会に参加することの積極的な気分が生じたことになる。

そのうち、大会の実行委員会から大会準備の進行を示す冊子が送られて来るようになったのであるが、それによると、SF大会と銘打つものの、その内容はマンガ、アニメ、コスプレ、プラモデルなど最近世界に進出しつつある、わが国サブカルチャーのすべてを含むものであるということが分かって、ますます興味がふくらむのを覚えたのである。
実は私も最近わが国の、すでにサブカルチャーの領域を越えつつある新しい文化の潮流には深い関心を抱き、それなりの勉強はしていたのである。それは、われわれの世代を中核とする世代が構築した、ものつくりを主体とした産業国家日本が、近年周辺の国々の追い上げによって衰退をやむなくされつつあり、ものつくりに代わる国家プレゼンスの手段の模索の中で、この文化的思潮と表現をグローバルに押し出していこうという、いわば国家戦略が成立したのであるが、そのことに関心を寄せていたからである。私などのような戦前・戦中に生を受けた民族主義派にとって国家戦略という感じのことには特別な関心がもたれるのである。それでその向きの書籍などを読みあさっていたのであるが、その実態に触れることはあまりなかったのである。それが、この大会によって向こうから来てくれることになったことは、大きなチャンスであると考えられた。ともかく、参加費の大枚二万円を出して、全国から千人以上の人間が参集するということはただ事ではない。われわれ旧(純)文学に身を置くものはこの大きなギャップの彼方の、エネルギーに満ちた動向におおいに関心を抱くべきである、と私は考えたのである。

高槻氏の静岡県にかかわるSF作品、SF作家の探索はその間にもたゆまなく続けられ、その成果は、大会関係のブログにつぎつぎ掲載されていったのであるが、まず驚かされたことは、その作品の数の膨大であることであった。もっとも、ごく部分的に静岡に触れたものが大部分であることも事実である。また、SFと認定する作品の範囲もきわめて広く、たとえば「かぐやひめ」伝説もSFと認定するといったことである。ご承知のように、かぐや姫の出生地は富士市とされているのである。その中で注目されたのは、藤枝静男の「田紳有楽」、吉田知子の「無明長夜」など県在住の著名作家の作品がSF(的)としてリストアップされていたことである。このことにはある戦略が隠されていることを感じたのであるが、そのことについては後で述べることにする。

高槻氏とのやりとりが始まったのは2010年秋のことだったが、翌2011年はわが国にとってきわめて多難な年になった。ご存じ東日本大震災とそれにともなう前代未聞の大津波、かてて加えての原発事故がそれである。私が役員を務める団体もその後始末にかかわったこともあって、3,4ヶ月はSFのことは忘れていたのであるが、夏も終わりに近づくにつれ大会へ向け手の動きがあわただしくなっていった。
そこで9月3日の当日であるが、その数日前から台風12号なるものが太平洋を本州に向けてゆっくり、真一文字に接近しつつあった、実はこの台風によって紀伊半島はこれまた前代未聞の出水被害を受けることになるのであるが、それが分かるのは大会終了後のことで、当日は台風の余波で風雨が強いといった程度であった。
会場へは10時頃に着いたのであるが、全館貸し切りのグランシップの内部はただならぬうごめきに満ちていた。それは、われわれ世代にはいろいろと濃すぎてプレッシャーになる鳥山 明のマンガの雰囲気といったらよいだろうか。そして、ごった返すこの館内で例のケータイの恩恵によって高槻氏と初めて対面することができた。予想していたように敏感さを秘めた好青年であった。
私の出演は13時からの、「杉山教授の奇妙な冒険~ビオトープから奇想小説まで~」というおどろおどろしいタイトルの対談で、高槻氏の司会でSF評論家の北原尚彦氏との3人で行われた。北原氏とも会場での初対面であった。参加者は50人ほどの会場に30人ほどであった。その内容については別の機会にゆずるとして、ホントかウソかまずまずの出来であった、というのが高槻氏の感想であった。

それでは改めて、あの巨大なグランシップを借り切ってのこの大会がどんなものであったかを簡単に説明することにしよう。ただし、私にとってこの様なイベントはヘソの緒切ってのことであり、頭の固い老人のことであるからして、とうてい十分なものではなく、ざっとした説明にすぎないことご承知おき願いたい。
まず、メインの内容をもつ有料エリアは九階の10部屋、十階の7部屋、そして、私の対談がおこなわれた十一階のひと部屋の合計18部屋で、3日に50、4日に42、合計92の催しがもたれた。そして、一、二、三および六階が無料の一般公開の場として用いられ、ここで、3日に13、4日に14の催しがあった。開会式、星雲賞の授与式もこのエリアで行われた。特筆すべきことは、開会式のおり、最近七月に物故されたSF作家の重鎮、小松左京氏の追悼がおこなわれたことである。

これらのスペースでどのような催しがあったのかということであるが、あまりに多様で総説することは難しい。しかし、おおよその分類として、ロボット・プラモデル系、アニメ・マンガ系、コスプレ系、SF文芸系、その他ということになるが、何とも分類困難なその他が数としてはもっとも多数となる。
ロボット・プラモデル系はその性格上視覚的な大勢を占めるものであった。初めての入場者にはこの種のもののみの催しかと受け取られるかも知れない。表現としても映画、プラモデル展示に加えて、一階の大ホールでは「ホビーロボット コロッセオ」の看板を掲げての、リモコンによるロボットの格闘競技がおこなわれ、子どもたちの人気を呼んでいた。このほか、プログラム所載のタイトルのみで示すと、「ロボット幼年期の終わり」、「攻殻機動隊S.A.C SSS 3D映像シアター」、「ハセガワプラモの部屋」、「タミヤボックスアートの系譜」、『「ロボットと美術」展の裏側』その他、ということになろうか。タミヤ、ハセガワは静岡県に本拠をおくプラモデル企業である。今回静岡でこの大会が開かれたことの理由のひとつにこのことがあるとおもわれる。
アニメ・マンガ系は、タイトルから把握されるところでは、「辻真先さんと体験するSFアニメの半世紀」、「SFアニメ2010年代の展望」、「アニメぐだぐだ企画」、「とっても大好き!藤子・F・不二雄の世界」などであった。
コスプレ系は「コスプレ小谷杯2011」でコンテストが行われたようであるが、一般の会場ではときおり熱帯魚のような服装の女性がちらつく程度であった。代々木公園でのような奇抜プラス豪華なものには私は出会わなかった。
最後にSF文芸系であるが、これはその本質上視覚的には地味な分野である。「SF創作講座」、「机上理論学会発表会」、「ライトノベル2011」「表現と法規制に関するミニシンポ」、「翻訳家パネル」、「電子出版とこれからの出版社」などがそれに該当するであろう。私の「杉山教授の奇妙な冒険」もこの中にふくまれる。

このように盛りだくさんなイベントであったのだが、私はその大部分に参加あるいは見学することができなかった。なぜかというと、六階に設けられた展示ギャラリーに自著の販売ブースを与えられていて、その店番に終始していたからである。
展示場は広いホールに設けられ、一区画は長さ1.8メートル、巾30センチの長机が与えられ、そのようなブースが50ほどあった。それぞれの商品は雑多で、ミニチュアのたぐいが目についたが、私などには意味不明のものも多かった。自著を売るということは早い段階で高槻氏から勧められていたのであるが、私は大いに関心を抱いていた。いままで10種を越える著書を出版していたが、売れたのは具体的事実を扱った、たとえば「南アルプス探検」であるとか、「藤枝物語」のようなものだけで、たいへん空想度の高い、つまりSF的なもの、言語実験的なものが売れたためしがなかったからである。先の対談で、パネリストをつとめていただいた高槻、北原の両評論家がだいぶん持ち上げてくれたことで、期待して待機していたところ、次々に買い手があらわれて、2日間で無慮20数冊が売れたのである。このままシロアリの餌食となるかとあきらめていた本だけに、その感激は大きかった。

翌四日も台風余波の雨はつづき、紀伊半島の被害状況も報道され始めていたが、幸い静岡の被害は軽微で、大会はつつがなく17時をもって終了した。 最後に少々資料的なことに触れておくことにする。
この集会の主体である組織の正式名称は「日本SFファングループ連合会義」という。その規約第三条には会議の目的として、
「日本SFファンダムを構成するグループ間の交流と共同を円滑にし、日本SFファンダムの活動を促進することを目的とする」
とある。そして、その運営は各加入グループから送られる一名の代表からなる「協議会」によるとされる。その具体的な事業としては、毎年各地で開催される「日本SF大会」の準備・運営と、そこで授与される「星雲賞」の決定が主なものであるようである。
このことからも分かるように、この大会の枠組みはきわめてゆるやかなもので、自らのグループなり組織の活動内容がSF的と考えた任意の団体によるパフォーマンスの総体であるとしてよい。一種お花見的な催しであるが、既存の組織では受け皿の役を果たし得ない、新たな芽生えともいえるもののよりどころとして果たした役割は評価すべきであろう。宇宙空間に散在する小物体が集合して星雲を形成するようなもので、この大会で授与される「星雲賞」の名称は卓抜である。そして巧まざる結果として獲得したエネルギーは膨大なものである。旧文化に所属する諸団体は、そのかたくな姿勢によってそれを導入しえなかった、ということであろう。
この組織のもう一つの特色は、海外の先行するSF文化との同調である。欧米とりわけアメリカにおけるSF文芸の歴史は古く、その作品コンテストの第一回が早くも早くも1938年にニューヨークで開催されている。その後第二次大戦で5年の空白があるが、それ以後は毎年開かれ、本年(2011)もネバダ州で開かれている。「日本SF大会」でも 毎年海外作品に対して短編、長編各1作に対して星雲賞」が授与されている。今回の大会のプログラム冊子にも、外国の受賞者の謝辞(英文)が掲載されていた。

さて、以上がわたしの静岡SF報告であるが、このようにエネルギーに満ちた「敵」の状況からすると、われわれ「純文学」系はとうてい太刀打ちできず、高齢化とともに淋しく消えてゆく運命にあるのであろうか。耐え難く哀しいことといわねばならない。しかし一方、「敵」は必ずしも無敵ではない、それなりの弱味を抱えているというのが「純文学」派を自認する私に、直接の興奮が覚めた段階で醸成された感想である。エプシロン同人・読者のためにそのあたりのことを、希望的観測をふくめて申し述べることにしよう。

まず、当初私が予想した、うらやむべき「若者」達の集合する場という点であるが、この大会に集合した人びとをつぶさに観察した私の結論としては、そこに参集した人びとは予想していたほどには若くはないということがある。平均したならば30代後半、もしかしたら40の大台に乗っているかも知れない。すでに絶対的には若者とはいえないのである。このことから、この集団にもわれわれと同じ悩み、高齢化の悩みが微かに兆し始めているのではないか、という感じを私は抱いたのである。そういえば、入場後しばらくは渦巻くエネルギー以外には感じなかった会場の雰囲気に、ある自足の気配が感じられるようになったのである。自足はたやすく沈滞に結びつく心的傾向である。そこで、ある定点に位置して観察を始めたのであるが、それはプラモデルを販売するブースを眺められる位置であった。人気のスポットであるらしく、絶えず人の足をとどめていたのである。プラモデルをつくづく眺め、また手に取るのは多く青年晩期の人びとであったが、その目にある種内向きの感慨が宿されているのを私は見逃さなかった。それは幸せに満ちた自らの幼・少年期を懐かしむ気配にほかならなかった。

それと同じような場面を、私はまったく異なる場で経験したことがある。それは毎年九月の秋分の日を期して東京はサンケイホールで開催される昆虫標本のバザールにおいてである。広い会場に設けられた100以上のブースの各々に、昆虫少年の慣れの果てといった人物が陣取って、内外の昆虫の標本を販売するのであるが、押しかけた人びとの大多数の年齢は明らかに60才以上である。つまり終戦後の、まだプラモデルなど見たこともない時代を、昆虫少年として過ごし、自然の思い出をはち切れんばかりにつめこんだ人びとである。老いたる昆虫少年である私は、そこで毎年同じ顔ぶれの昆虫老人達、「夏の森」からさまよい出たような連中と挨拶を交わすことになるのである。
どうやら人間、とりわけ男性は、感受性に富んだ一時期に心に刻んだ世界から一生離れることのできない生きものであるらしい。このSF集団を支える人びとの人格の基盤を形成する幼少時期を想像すると、鉄人28号、ウルトラマンなど登場の時期をすでにはるか後にした、怪獣、怪人、恐竜、そして宇宙、宇宙人、などが大活躍をするマンガ、アニメの最盛期である。つまりわれわれ世代の多くが自然物、自然界そのものを人格構造に組み込んでいるのと同じように、この年代の人びとは今述べた超自然的な存在と一体化した人格を所有していると思われるのである。現在のSF界はこの様な心性の人びとによって支えられているのである。そして、その時代と同様なマンガ、アニメはさらに進化・発展をとげて現在に達しているようにも思えるのだが、私は何かが微妙に変化しつつあるように思える。それについては後で触れることにしよう。

それともう一つ、この大会を総体として眺めたとき、中核として存在するSF文芸とそれ以外の要素との関連性というものが、やや必然性に欠けるような気がした。もちろん、お花見、カーニバル的な催しであるからして、雑多であることに意味があるとは考えられるのである。むしろ私が感じたのは、逆に真の雑多性が欠けているという感じに近いものであった。
この催しの歴史をたどると、東京・目黒1962年に持たれた第一回大会にゆきつくことになる。私が大学を卒業した年で、60年安保の記憶も生々しいころである。参加者180人とあるから大会と名のるのもおこがましいといった感じである。この頃は作家としては小松左京などが知られるのみで、筒井康隆が頭を出したばかりといった状況であったと思われる。その筒井氏が実行委員長をつとめた第3回(1964)の大会の参加者が150人ということでも、そのころの氏の知名度が知られる。この頃会を運営するのは、地味な研究グループであったと想像される。しかし、アメリカでは先に述べたように、すでにSF大会20回という歴史を経ており、相当数の作品も発表されていたであろうから、そのようなものを熱心に研究していた状況が想像される。参加者が常に1000人の大台を越えるようになるのは1980年代になってからで、このころから、若者文化、サブカルチャーとしてのマンガ・アニメが隆盛を迎える。このあたりから同時代性をよりどころとして、それらのすべてがこの大会に寄り集まったと思われる。小惑星が寄り集まって火球を生じたような具合に、現在に見るような巨大なエネルギーを生じたのであろう。それは、自然にそうなったというのではなく、運営者側の意識・無意識での作戦、古代ローマが周囲の民族に市民権を与えることによって巨大化したような「作戦」があったのではないだろうか、と想像される。そして、この巧妙な作戦は現在も受け継がれているように思われる。先に述べた、藤枝静男、吉田知子など純文学の作家の作品を、SF的ということで取り込もうとしていることは、純粋SF作品にはどうしても二の次ぎにならざるをえない内面性というものを、自家薬籠のものにしようという作戦であると考えることもできる。しかし、このような、いわば無原則の拡大が、発足当時のような純粋なSF文学路線の成長に果してプラスに働くのかどうかは、予断を許さないところである。

このようなカーニバル的な大会では、SF文芸の存在感は希薄にならざるをえないのであるが、もともとの根幹である、その現状はどうなっているのであろうか。これは大会報告の枠をこえるものであり、おびただしい数の作品を読まなければ正鵠を射た評価は難しいのであるが、私のこれまでに触れたわずかの作品と、大幅に想像、それも旧文学に有利な希望的観測を交えて最小限のところを述べることにする。
まず想像されることは、この分野では、発足時の伝統を踏まえた研究活動が継続されているということである。それは先に述べたいくつかの集会の名称にもその片鱗を見ることができるのであるが、定期的な事業として、SF評論賞というものも毎年出されているようである。ちなみに高槻氏も近年の受賞者のひとりである。氏の外国SF作品やその著者に対する知識・見識は高いもので、そのことからもSF文学界が決してカーニバル的イベントに終始しているわけではないことが知られるのである。
私のSF文芸に対する認識は非常に浅いもので、海野十三に始まり、小松左京に終るといった程度のものであるが、外国のSF作品をベースにしたであろう映画、たとえば「猿の惑星」や「スターウォーズ」、「ハリーポッター」などは、時にテレビなどで瞥見することで、どんなものであるかを概観することはできたのである。しかし、それらは今のところみないわゆる娯楽作品であって、この様なものを含めての評論活動も表面的な、技術論に終始するものであると想像されるのである。ところが、最近それとは別の方向性をもった現象、言うなればすべての芸術の分野への、従来はSFに固有の要素とされてきたものの拡散という現象である。そのような事は当然純文学の範疇に属するものにも言えることである。つまり、SF文芸と旧あるいは純文芸との境界が不明瞭になってきたのである。このことはおそらく、SF研究界にとってやっかいなことであると同時に新たな発展のきっかけともなるのではないかと考えられるのである。つまり従来の純粋に「空想科学小説」としてのSFに当然のことのように欠如してきた、人間の内面のいとなみといった要素を加味する条件が生じたということにほかならない。先に述べたように、SF評論界では、SF的要素の強い純文学作品を吸収する作戦を決定したようである。今後はSF界内部からの純文学的SF作品の誕生が待たれるというものである。

ところで最後の付け足しとして、少々今大会のことを離れ、もう少し広い視野からSFその他を含む現今の文化事情を考えてみることにしよう。わが国の若者文化、マンガ・アニメ、その派生要素としてのファッション、コスプレなどは、いまやサブカルチャーの域を脱して、グローバルな文化になりつつあるようである。じつは私も偶然その渦の中心を垣間見たことがある。それは東京ビッグサイトにいったときのことである。おびただしい数の少女達が同じ方向に歩いていた。その異様な雰囲気に、私もその流れに巻き込まれるようなかたちで進み、やがて巨大なホールにたどり着くと、そこにはそれこそ何百というブースがもうけられ、何千という数の主に少女達が夢見るような目つきで周遊しているのであった。各ブースにはそれぞれマンガ作家の卵やひな鳥たちが陣取って、自作の展示・販売をしているのであった。つまり、ここはマンガ文化の渦の中心であったのである。その規模と熱気に私は圧倒されたのである。
これと同じような年齢層の少女達の集合する場所として原宿駅を中心とした地域が有名である。私はその横町のマンションにお堅い環境関係のNPOの事務所があるので、時に訪れるのであるが、ここに展開するすべてが私などには異様で不可解である。とりわけ、この近くの代々木公園などで演じられるコスプレと称するものは理解の範囲を超えるものであった。しかし、ここでも私は本物のすごみを感じることができた。それはある日、10人ほどの欧米系のコスプレ少女達の一団に、原宿の陸橋の上でであった時のことである。私は、その扮装の豪華さ、そして何よりもその少女たちの、確信に満ちた倨傲ともいうべき眼差しに圧倒されたのである。たんなる仮装行列ではないなにかを私は感じることができたのである。このような私など古物には想像を絶する文化こそ、プラモデル時代のつぎに位置することになるのであろうと思われるのである。今回の静岡大会でもマンガはそれなりに扱われ、コスプレも演じられたのであるが、それはたんにそれらとの同時代性を誇示する程度のものにすぎなかった。

それで、このような異様な文化の意味・意義についてであるが、このまま引き下がるのも悔しいので、多少の解釈を述べてみたい。残念ながら感覚的にはとうてい理解できかねるので、私自身の専門である生物学的な切り口でひと理屈こねてみることにする。
そもそもマンガ文化というものは子ども向けのものである。しかし、子どもといっても実際には五歳から十五歳くらいまでのあいだにいくつかの層が存在するのである。欧米文化圏では、ルネッサンス以後のある時期に「子ども」の発見があり、それ以後子ども向きの様々な文化、たとえば絵本、人形、おもちゃなどがかなり意識的に生み出されてきた。わが国での伝統文化の中でも、これと平行した流れは存在していたのであるが、戦後と呼ばれるこの数十年にわが国で発達したマンガは、絵本などが限定的な年齢層のもので、ある時期で卒業すべきものであったのに対して、もっと幅広い年齢層、言うなれば子どもから大人までの連続した年齢層をカバーする内容をもつものであったと思われる。マンガをそのように進化させた功労者としては、やはり手塚治虫を挙げなければならないが、マンガと並行的に発達したいわゆる劇画の補完的役割も大きいと考えられる。このような絵解き童話から絵解き小説に発展したマンガが、文学に先んじてグローバル化し得た要因は、誘致年齢層の連続的延長だけではなく、何よりもその言語を越えた絵解き要素があったと考えられる。しかしマンガ文化の拡大要因、たとえば一般女性にまで拡大されファッション革命を起こした要因は、決してそれだけではないと考えられる。その第二の要因と考えられることこそ、きわめて生物学的なものとなるのである。

生物の個体というものはその意識のいかんに関わらず、種の存続、つまりより多くの子孫を残すべく規制されている。そして、現存の個体群が滅亡の危機に向かう事態が生じる場合、とりわけこの規制が強化される。われわれ人間の場合、貧困・飢餓は生命の危機の一現象であるが、そのような場合、むしろ繁殖衝動は強化される。つまり、「貧乏人の子だくさん」の現象である。植物ではミカンなどが、枯死する前に以上に多くの実を付けることが知られている。
現在先進国といわれる国々は、別の言葉でいえば裕福な国々である。それは個人個人にとってきわめて安全な環境を意味する。栄養についてもじゅうぶんをすぎて肥満が問題になるほどである。この様な生活条件下で、雌雄の個体はDNAに組み込まれた信号によって、繁殖衝動を低下させられることになる。そのことはわが国にあっては、男性の「草食動物化」と呼ばれる現象、つまり性的衝動の低下現象を生んでいるのであるが、女性の場合には性的未成熟をしめす記号を発信することでその対応をなしているのである。それは具体的にはいわゆる「かわいい」という印象の発信である。最近の少女達の服装をみると、その一見のけばけばしさにもかかわらず、あきらかに「繁殖拒否」の記号がふくまれているのである。
さらにもう一つの生物学的要素として考えられるのは、同じく先進富裕国における平均寿命の大幅な延長である。このことによって、比例的に各年齢層が延長されたという事実がある。それは従来ごくわずかな時間差でつながっていた子どもと大人の間に、どちらにも属さない新たな年代が相当の巾を持った層として出現し、その過ごし方にどの國でも困惑していたという事実があるのではないか。そのことは、老後時代にも当てはまることであるが、子どもと大人の中間時代に関しては、大昔から子供的要素を温存してきた社会をもつわれわれ日本が、世界に先駆けてそれに対応する文化を提示したのであると考えてよい。
わが国は、現在社会の退行的進化ともいえる現象に関して最先端をいっていると思われるのであるが、とりわけこの繁殖拒否文化の先進性はそのグローバル化の主要な要因であるように思われる。私は一応環境問題の専門家とされているのであるが、いわゆる地球環境の危機を生み出した要因として最大のものは地球人口の増加であると考えている。だから、この様な人口減少に連なるような文化の一般化に対しては、いまのべたような理屈によって、肯定的な感覚的理解の代用とすることができるのである。

最後は静岡SF大会から大幅に脱線してしまったが、これをもって純文学の砦、エプシロンの同人、読者への報告としたい。それでは、やはりわれわれの伝統的文学はこのまま消滅するのかという嘆きに対しては、次のようにお答えしておきたい。なるほど現在はSF文芸が純文学に取って替わる勢いをしめしつつある。そして、それもまた遠からずして、さらに新しい文芸に取って代られるであろう。しかしその先に私が予想するのは、その理由をここで詳しく述べる余裕はないのだが、数十年後における、永遠の存在であり、万物の母胎である自然を基盤とした古くて新しい文化と文芸の復活、つまりはわれわれが立てこもる伝統的文学に本質的にはきわめて接近したものの復活である。そして、われわれがその「文芸復興」に参加できる可能性がないわけでは決してない。それはそれまでの長寿を保つことに他ならない。がんばりましょう、皆さん。最後の栄光を頭上に頂くために!

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2013年2月 5日 (火)

詩論(『饗宴』掲載

Filed under: 評論 - 荒巻義雄 @ 9:46:29

 いま考えていること――北海道新聞社文学賞詩部門受賞の弁に代えて

                                     荒巻義雄

 思いがけず、林檎屋文庫で出した第一詩集「骸骨半島」で、二〇一二度北海道新聞文学賞(詩部門)で賞をいただきました。饗宴同人各位はじめ、主宰者の瀬戸正昭さんに厚くお礼申し上げます。実は、新妻博さん(2012年没、詩人・俳人)の霊をも感じています。なぜなら、今回の出来事はサプライズそのものですから。いや、小説家としての受賞歴のない私にとっては、まさに〈事件〉でした。

 すでに四〇年以上、本を書いてきた私ですが、一〇年ほど前から詩作を再開しました。なぜかというと、〈言葉〉そのもの正体に謎があるのではないか、と気になり始めたからです。散文とはちがい、詩では一つの語が幾重もの意味を内包させなければならないのだと、単なる比喩論以上のレベルで考えるようになりました。
 きっかけは言語学の始祖フェルディナン・ド、ソシュール(一八五七~一九一三)の存在でした。もっとも、私の場合は、哲学らしい哲学への入門は、サルトルやハイデガーからでしたが、さらに構造主義やポスト構造主義を読むようになっていました。
 しかし、言語の問題を扱う基礎は、やはりソシュールです。彼は言葉をシニフィアンとシニフィエによって構成されているとします。日本では〈記号表現〉などと訳されていますが、シニフィアンは〈意味するもの〉の意です。たとえば、〈犬〉の発音、つまり〈イヌ〉という音素のことです。私流の理解では、〈イヌ〉という発音を耳で聞いたとたん、われわれの大脳は、めまぐるしくニューロンのネットワークで微弱な電気信号を送り、〈犬〉というイメージを思い浮かべます。これがシニフィエ(意味されるもの)なのです。
 しかし、〈記号表現〉は常に同じ内容を表すとは限りません。脳は白い犬とか、子供のころ噛まれた犬とか、隣で飼われている犬とか、コナン・ドイルの『パスカビルの犬』に出てくる妖犬とか。まだあります、ギリシア神話のケルベロスは冥府の番犬ですし、キリスト教では牧羊犬は信仰者の保護や善導者のシンボルとなり牧師や司祭を表します。
 このように、言葉というものは、一つの単語から無数の意味内容が派生してくるわけで、詩を書く者は、実は言葉を慎重に選び取りながら、右に述べたような無数の内容を同時に物語っているのです。
 言葉というものは地層になっています。累々として意味内容が重なっているのです。詩人は、そのできるだけ深層で、隣接する異なる言葉と連合させなければならない。
 これが、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンが述べた『通底器』の意味でしょう。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが〈リゾーム〉と名付けた概念、日本では〈根茎〉と訳されておりますが、あたかも芝生の根のような水平方向への広がり、あるいは絡み合いのイメージにも通じる概念です。
 普通、隠喩や換喩、提喩など言語学者ロマン・ヤコブソンなどの詩学理論、これには近代美術のルーツでもあるロシア・フォルマリスムも関連するのですが、とは言え、一世紀前の理論なので基礎中の基礎。実は、最新理論は、もう少し先に進んでいます。
 やはりドゥルーズですが、彼はノマドロジー(遊牧論)の哲学を提唱します。
 普通、われわれは〈実在的なもの〉と〈想像的なもの〉との区別や対立で物事を考えがちです。が、そうした第一領域の〈現実界〉と第二領域の〈想像界〉の二項対立構造ではなく、第三の領域〈象徴界〉が重視される社会の中で生きているのです。
 みなさんには聞き慣れない用語かもしれないのでちょっと説明をしますと、右はフランス精神医学の代表者の一人ジャック・ラカンの概念です。うち〈現実界〉とは、名状しがたく不気味な世界です。ここは知覚では認識できず、幻覚で現れることもある。私なりの解釈では『嘔吐』(サルトル)の主人公ロカンタンが、公園のマロニエの樹の根に抱いたあの名状しがたい感覚こそが、それでないかと思います。
 あえて言いますが、リアリズム文学至上主義者が信じて疑わない〈現実〉は、ほんとうは現実ではないのです。現実は、彼らが信じているように〈真理〉ではない。やはりわれわれの意識が紡いだ虚構なのです。
 つまり、われわれ人間の認識とはなにかの問題になります。人間は否応なく言語(langage)によってそのように分節化された世界を見させられている……つまり、われわれの身体能力では〈現実界〉というものを〈素〉のまんま認識することができないのです。
 対して〈想像界〉はわかりやすい。だれもが経験済みだからです。すなわち、赤子が母の胸の中で乳を吸うイメージです。あたかもエデンの園のように幸せです。しかし、赤子と母は分離せず、母子心中死の臭いすらしますけれどもね。
 第三が〈象徴界〉ですが、〈父の法〉がまかり通る世界です。つまり、社会という規則がくまなく支配する世界です。この第三の位相こそが、記号(言葉)に絡みとられた世界なのです。
 文学は〈世界の模倣〉に始まり、さらに〈世界の認識〉へ発展したかのように見えますが、実は〈記号作用〉に他ならないのです。実際、われわれは日常世界において、法律や道徳、規則など蜘蛛の巣に絡みとられているような世界で生きています。この巧妙な仕掛けこそが〈記号の奸計〉なのです。
 ドゥルーズは、このような世界を〈定住的〉といい、ここからの脱出、遊牧的哲学を唱えるのです。
 ここで、パブロ・ピカソの戦術を例にあげましょう。ピカソは一九〇七年にあの有名な『アビニオンの娘たち』を発表します。この題名の本当の意味は、スペインのアビニオンにある娼館の女たちをさします。
 何枚ものデッサンをしながら、ピカソは次第に女の顔を仮面のようにデフォルメしました。これはマチスのアトリエでピカソが見かけたアフリカの仮面だったそうですが、その意味は悪魔払い。当時、流行していた梅毒への恐怖から描いたという俗説もありますが、ピカソは伝統的絵画の基底にある美の基準を打ち破る悪魔払いとして、常識破りの直線で構成された裸婦群像を描いたのです。
 ブルトンらが創始したシュルレアリスムも、実は一九世紀半ばに流行した魔術が根底にあります。第一、ブルトンにヒントを与えたはずのフロイトですら、エジプト魔術の影響を受けているのです。また、ダダ創始者の一人トリスタン・ツァラの詩を読むと、謎めいた呪文が反復して使われています。
 ヨーロッパ文明と魔女狩りや黒魔術の密接な関係に気付けばむしろ当然なことで、われわれが知っている近代社会はその成立のために多くを〈削除〉した。
 たとえば、国家とはなにか。近代社会の嫡子こそが〈国家という装置〉なのです。まさに、前述した〈象徴界〉の貌に他ならず、だからこそ自由を求める近代の芸術家たちは、強い意志で反抗と脱出を試みたのです。
 時には、ピカソやツェラのような呪術の力すら借りて……。
 文明という名の仮面を見破ったレヴィ=ストロースは「文明人の対語としての野蛮人などいない、彼らは野生人だ」と言いました。なぜ、われわれが、縄文の土器に憧れ、万葉集に力づけられるのか。現代の詩人たちは、あまりにも日常性に寄りかかりすぎているのではないでしょうか。
 詩人たる者、文明に飼い慣らされてはいけません。

  (初出/詩誌『饗宴』vol.66/2012年11月)

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2013年1月 1日 (火)

筑波大学理論・比較文学会講演会「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」報告(2012年12月22日)

Filed under: イベント, 研究, 報告 - 岡和田晃 @ 18:50:51

 去る2012年12月22日(土)、筑波大学理論・比較文学会講演会「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」が開催されました。
 speculativejapanの場をお借りしまして、簡単に概要を紹介させていただきます。概要ですので、もろもろ掘り下げが足りない部分があるかもしれませんが、本講演の内容は、現在執筆中の批評に反映させる予定ですので、あらかじめご海容ください。

 今回の講演「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」は、学術出版社・未來社のPR誌「未来」で岡和田晃が連載している批評「向井豊昭の闘争」がらみで依頼されたものです。
 「向井豊昭の闘争」については、日本SF作家クラブ公認ネットマガジン「SF Prologue Wave」に紹介記事を掲載いただいたことがありますので、ご存知ではない方は、まずはこちらをご覧いただけましたら幸いです。

 講演では、連載で扱った問題の射程を、より平易に整理してお伝えすることを主眼に置いていました。
 ただし、最初に来場者の方へ意識して「アイヌ文学」とされるものを読んだことがあるかをお聞きしたところ、手が挙がったのはわずか2名でしたので、大雑把な見取り図ではありますが、まず、近代の「アイヌ文学」を一部、ご紹介させていただきました。

 取り上げたのは、知里幸恵、知里真志保、違星北斗の仕事です。彼らは外側から「アイヌ」が「滅びゆく民族」として規定されたなか、あるいは「アイヌ」が激烈な社会的差別を受けたなか、「アイヌ」の立場から発言していくことを余儀なくされていました。
 ですから彼らの仕事は「ユーカラ」のような口承伝統の翻訳という形をとったり、あるはメッセージ性の強い口語短歌という形式になっていました。
このうち違星北斗については、「違星北斗.com コタン」で詳しく解説されています。日本語文学の和歌の伝統とはまるで異なる書き方で、私は衝撃を受けました。ご一読を強くお勧めいたします。

 続いて「アイヌ」初の近代小説の書き手である鳩沢佐美夫の仕事の重要性をご紹介しました。鳩沢佐美夫は、三十代半ばで夭折しましたが、きわめて才能豊かな書き手で、「農村」と文学について鋭い問題意識を有していました。生前最後の小説となった「休耕」(1971年)は「アイヌ」の文脈とは関係ない作品ですが、紛れもない傑作です。そんな彼が没後「アイヌのジャンヌ・ダルク」として受け取られた「状況」について、1960年代から70年代にかけての「政治の季節」における地方文芸誌の隆盛と絡めながら、遺稿集『若きアイヌの魂』(1972年)を軸にして紹介させていただきました。

 そのうえで、「アイヌならざる者」による「アイヌ文学」の代表的な仕事として、鶴田知也の代表作「コシャマイン記」(1936年)の紹介に移りました。
 鶴田はまず、キリスト教社会主義を出発点とし、その後「人民戦線」誌でデビューしたプロレタリア文学の書き手として評価されました。そして叙事詩的手法を駆使し――既存の歴史認識は「和人」の観点によるものだという批評ゆえか――史実への明確な「ずらし」を含んだ「コシャマイン記」で第3回芥川賞を受賞。
 この「コシャマイン記」を記した後、鶴田は「アイヌ」を主たる題材とした作品を完成させることを断念してしまいます。それは、「大東亜共栄圏」から「戦後」に至る状況が、彼に「アイヌ」の問題を語ることを許さなかった、と言ってしまうことも可能でしょう。
 実際、鶴田は戦前への「反省」を籠めて、戦後は、農民文学の書き手から東北における農業問題の評論家へと転進し、小説家としては筆を折ってしまいます。

 おそらく鶴田知也が突き当たったのと同種のジレンマに、「アイヌならざる」「現代アイヌ文学」の書き手である向井豊昭も引き裂かれてしまいました。「アイヌ」を語る際、「代理=表象」の問題は避けられないからで、それはどうして当事者の気持ちを勝手に代弁できるのだという「何様のつもり問題」(東條慎生)と言い換えてもよいでしょう。

 今回は、向井の作品から「御料牧場」(1965年)、「うた詠み」(1967年)、「耳のない独唱」(1969年)、「怪道をゆく」(2001年)といった代表作をピックアップし、舞台となった北海道南部(旧静内町)や東部(風蓮湖)の情景を、プロジェクターを使って紹介していきながら、この問題を掘り下げていきました。

 向井豊昭の祖父は向井夷希微という詩人でした。その第二詩集『胡馬の嘶き』(1917年)では北海道の開拓に伴う矛盾を、最も早い時期に糾弾するという離れ業を成し遂げていました。向井の「アイヌ」へ向ける眼差しは祖父から学んだところが大きかったのですが、一方で彼は、赴任した土地が北海道で最も「アイヌ」の人口が多い場所だったという事情から、「アイヌ」の子供たちへの教育に当事者として関わります。
 「アイヌ」の子どもたちがクラスの多数を閉める小学校の教師として、「同化教育」の総仕上げをしたのだと、彼は、自分を苛んでいたようです。すなわち、彼は二重の意味で「近代」にまつわる呪いをも引き受けてしまっていたのでした。

 戦前の状況抜きで鶴田を語れないように、向井は1960年代から70年代にかけての「アイヌ」がらみの文脈抜きでは紹介することのできない書き手です。実際、向井は、北海道を代表する写真家の掛川源一郎、そして鳩沢佐美夫らとも交流を持っていました。
 とりわけ70年代前半の「アイヌ革命論」に影響を受けた東アジア反日武装戦線の活動は――間接的にであれ――向井に大きな傷を残しました。
 講演では、東アジア反日武装戦線に大きな影響を与えたと言われる太田竜の『アイヌ革命論』(1973年)の荒唐無稽な言説の問題点を指摘しました。それに加えて、『アイヌ民族抵抗史』(1972年)で「闘争史観」を打ち出した新谷行の小説「ペウタンゲの情念」(1973年)を紹介しました。向井の「怪道をゆく」に出てくる「アイヌ」の「ペウタンゲ」(言葉にならない呪詛)は、新谷のテクストに充溢する苦しみと通底しているように思われてならないからです。
 「怪道をゆく」が書かれて10年、向井が直面を強いられたジレンマは、現在、いっそう切実さを増しているようです。

 その他、今ではあまり語られない「アイヌ文学」の書き手を紹介いたしました。「怪道をゆく」に登場する歌人の江口カナメ(要)、太田竜の誘いを撥ねつけたアイヌ伝承研究家の金丸継夫の二名です。現在、彼らがピックアップされる機会がまったくなく、研究も進んでいないのは、ひとえに残念なことだと思えてなりません。

 質疑応答では、留学生の方から――向井豊昭が「ドレミの外」(2007)という小説で問題としたような――五七五七七の「韻律」について、鋭い質問をいただいたので、「アイヌ」の歌人バチェラー八重子のアイヌ語を入り混ぜた短歌をご紹介しました。
 また、別の方からは、「ヌーヴォー・ロマン」と向井豊昭のテクストの関係について問われたので、クロード・シモンの『三枚つづきの絵』(1973年)や『盲たるオリオン』(1970年)の生成論的なイメージ連鎖から、向井のテクストは学んでいる部分があるとお答えしました。
 補助線として、「ヌーヴォー・ロマン」に出逢う直前の向井豊昭の仕事であるアイヌの口承伝統を擬した「千年の道」(執筆年不詳)にも言及しました。この「千年の道」は「向井豊昭アーカイブ」にて、無料で読むことができます。

 当日はあいにくの雨天で、霧も出ており、最低気温は氷点下に達すると予報されていました。にもかかわらず、学部生、大学院生、留学生の方々がご来場くださり、また、わざわざ東京から駆けつけてくださった一般来場者の方もいらっしゃいました。
 ご来場いただいた皆さま、また、今回の講演をコーディネートしてくださった筑波大学の齋藤一先生、および企画者のNさんに、改めて御礼申し上げます。(岡和田晃)

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2012年9月29日 (土)

ヌーヴォ・ロマンの文体

Filed under: 転載 - 荒巻義雄 @ 8:28:45

 詩誌「饗宴」vol.65より転載

  1 一九五〇年代の情況
 ヌヴォ・ロマンとは、一九五〇年代を中心に、フランスで興った〈新小説〉のことで、〈アンチ・ロマン〉とも呼ばれる。わが国でも多くの訳書が出たが、筋立てのない難解な小説だったため、流行は短期間で終わった。
 しかし、筆者の初期中編『トロピカル』はロブ=グリエの『快楽の館』に、中期の中編『プラトン通りの泥水浴』は同右『幻影都市のトポロジー』に影響された作品である。
 当時、わが国の文学状況は、カミュ『異邦人』にはじまり、サルトルの実存哲学が主流であった。私自身は青春と挫折を経験した東京時代だったが、やがて六〇年安保を経験して挫折し、帰郷して家業をついだ頃、SFの可能性を発見したのとほぼ同時に、ヌヴォ・ロマンと遭遇したのだった。
 今になって振り返るほうが、むしろ情況がはっきりするが、戦後日本を支配したマルクス主義が、スターリン体制下のソ連社会の実態が明らかになるにつれて見放され、一方、戦後思想の双璧であった実存主義も限界が見え始めたころであった。
 一方、伝統的な小説には絶対的な大前提があり、たとえば人間本性の普遍性などであった。さらに整然とした因果関係や時間的順序の問題、一九世紀的な秩序や価値観などに、ようやく疑問符がつき始めていた。
 事実、マルクス主義は市場主義経済に負け、サルトルはレヴィ=ストロース(構造主義)の登場で、欧米的価値観の限界を痛烈に批判されたのである。
 たしかに、五〇年代は思想の転換期だった。日本人の敗戦トラウマは未だつづき、戦勝国民とはなったがフランス人んも第三帝国に占領されるというトラウマを抱いていた。
 当然、国家指導者の〈言葉の嘘〉が曝かれ、〈言葉そのもの〉への信頼が失われた時期でもあった。従って、ヌヴォ・ロマンは、既成文学、既成の価値観の否定で始まる文学の新潮流であった。
 とは言え、ヌヴォ・ロマンの根本原理からも作家たちが団結して文学運動を起こすことはなかった。一群の作家たちは、個々に自分の仕事をしたにすぎない。
 とりあえず、代表的作家の傾向を要約すれば、①小説内世界から人間を消し去ったアラン・ロブ=グリエ。②人物のありふれた瞬間を写し取るナタリー・サロート。③内的心の動きを追跡するクロード・シモン。④都市生活が人間の意識にどう現れるかを描くミッシェル・ビュートル。その他である。

 2 アラン・ロブ=グリエ
 近代フランス文学の原点は、フローベルである。「ボバリー夫人は私だ」という有名な言葉があるが、その意味は、彼が多用した自由間接話法によると考えられる。
 間接話法はイタリア語やフランス語に見られる語法で、直接話法に対する。直接話法では、〈誰それが「ナニナニをする」と言っていたよ〉のように括弧でくくるが、間接話法では括弧ももなくなる。さらに、自由間接話法では〈……と言った〉もなくなる。
 つまり、フローベルでは、作中の人物と作者自身が同化してしまい、たとえば、
 《彼女はもうピアノを引かない。なぜ弾か なければならないのか?いったい誰が聞く というのか?》
のような言い方になる。つまりこの心情は作中人物なのか、作者のものか判然としない。作者が登場人物に同化しきっているからだ。
 さらに、フローベルの特徴は、彼が眼そのものになりきることである。『感情教育』の冒頭、蒸気船がセーヌを下る描写は、まさに没作家的で蒸気汽船しかない。
 もし、作家が、登場人物の内面を描こうとすれば、客観主義では不可能である。例外的にヘミングウェイの試みたハードボイルドの文体、たとえば不機嫌を表すのに〈壁際で寝ていた男はぐるりを背を向けた〉のようなやり方(動作主義)はあるが、普通、心理描写は耳と結託する象徴主義経由で、たとえば、眼では見えない、人間の〈心の声〉を聞く。一例を挙げればプルーストである。
 つまり、〈眼〉か〈耳〉か、作家の資質が視覚優先か聴覚優先かで文学の型が決まる。
 ロブ=グリエはどうか。フローベル直系の視覚型である。作家はムービー・カメラのように写し取るだけである。
 『快楽の館』の直訳題は、『逢い引きの家』だそうだが、香港であって香港ではない街に降り立った〈眼〉が写し取ったシーンの言語による窃視症的描写である。
 《……そのすんなりと背の高い娘たちは、脇の下と首すれすれにきれいに裁断された、小さな立襟つきの袖なしの、黒い絹の衣装に包まれてその姿態を浮き彫りにしている。》
 作中には、もっときわどいシーンが描写されているが、文のほとんどが現在形で終わり、眼はいささかハレーション気味に、あたかも活人画的な女を写すのみで、手が触れることはない。従って、サドのように陰惨ではない。熱帯的な光の下で繰り広げられる眩暈、イルージョンである。
 では次の文は?『幻影都市のトポロジー』の書き出しである。
 《寝つくまでに、またもや、街……
  だがもはやなにひとつ、悲鳴も、鈍い轟音も、遠いどよめきもない。
    (中略)
  寝つくまでに、それでも纏わりつく、死んだような街……
  こうなのだ。私ひとりである。夜更である。眼をひからせている。》
 次は、プルースト『スワン家のほうへ』「第一部 コンブレ」の冒頭である。
 《長いあいだ、私は宵寝になれてきた。ときどき、蝋燭を消すとすぐに眼がふさがり、「眠るんだな」と思う余裕もないことがあった。》
 『失われた時を求めて』は一人称小説の傑作だが、邦訳で読んでも美しいリズムがあり、音楽的である。全編を通じ〈世界〉は内面から語られ、記憶の中のまたその記憶の世界に入りこんでいく。もはや一人称〈私〉すら滑らかに語られる文体の中に溶解してしまうようだ。
 つまり、前述のとおり、フローベルから分岐したもう一つの書き方である。プルーストの文体は象徴主義(サンボリスム)の先達、ボードレール(『悪の華』)のように、ありふれた自然や日常の光景のような具象物のなかに象徴を見、超自然的な宇宙の神秘を感知する態度である。もっとも、端的な代表は天才詩人マラルメである。
 おわかりだろうか。話をもどして、もう一作、ロブ=グリエが一九五三年に発表した『消しゴム』である。この作品は形而上的探偵小説とも言えるもので、近代小説の不可欠要素、筋や人物よりも、先入観も感情移入もなく、当然、人物の内面は無視され、ひたすら事物が描写されるのだ。
 《そこには一人の太った男が立っている。主人だ。彼はテーブルと椅子の間で正気づこうとつとめている。バーの上の方に長い鏡があって、ひとつの病人じみた映像が浮かんでいる。養魚鉢に入った、緑がかった 輪郭のぼやけ、肝臓を病んで肥満した主人の映像だ。
  反対側の窓の奥でも、やはり主人が、街の微光のなかでゆっくりと溶けていく。》
 こんな調子だ。決して翻訳文が生硬いからではない。

 3 ナタリー・サロート
 一九〇一年、ロシア生まれの彼女はかなり厄介な作家である。ヌヴォ・ロマンの先駆的作品『トロピズム』(一九三九年)で、すでに彼女は細部にこだわる。
 トロピズムとは、植物の向日性や向地性をいう。植物は光を好むもの、日陰を好むものなど種の本能を持つ。人間も同じであって、つかの間の感覚や曖昧な感覚など、はっきりと言葉では定義できないもの、意識面に上らぬおそらく前意識的なものに支配されていると言うのである。たとえば、
 《廊下の青い縞模様の古い壁紙に沿って、薄汚れた壁の塗装に沿って自分ところまで伝わってきた、入口のドアの鍵をあけるかすかな物音を、彼女は静寂のなかに聞きつけた。書斎のドアのしまる音を、彼女は聞きつけた。》
 一九五八年の『プラネタリウム』ではさらに完成度を高める。外界の瞬間的な印象を書き連ねることによって彼女は読者側に想像させ、読者に物語りを紡がせるのである。
 実は、最近、サロートを思い出させるような文体に出会った。金井美恵子『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』という長い題名の作品である。
 《なめらかで沈んだような光沢のある黒に近い濃い青と銀白色のストライブのドレスには、白い麻の幅の広いシャツ襟が首を覆う高い位置に付いていて、胸の中央にはループのボタンホールでとめる小さな共布のクルミボタンがびっしりならび、》
 以下、改行なしに服の描写がつづく。
 ここにも〈眼〉だけがある。主人公は物語
世界の中心ではなく、価値観の基準でもない。カメラのように写し取るだけの〈眼〉に思想はない。

4 クロード・シモン
 シモンはノーベル賞作家である。
 一九六〇年の作『フランドルへの道』を読んでみよう。まず改行がないと言っていいほど少なく、会話もない。物語の物理的時間は数時間か一夜でしかなく、この中に主人公が体験した記憶がぎっしり詰まっているが、作者は戦争を書くにしても、肉眼で見える範囲での光景や出来事(フッサールの直接経験の世界)を、記述するのみである。
 『アカシア』(一九八九年)も、今と記憶が錯綜する。文体は濃厚である。
 《彼女はまだ若く、四十代には間があるよ うで、そのたっぷりした肢体をつつむ衣装の好みは(黒い靴、黒いストッキング、黒いマント、細い縁どりからヴェールを垂らした黒い縁なし帽といい)その地味さにもかかわらず――というか、以下略》
のように、改行少なくつづく。

 5 ミッシェル・ビュトール
 マンチェスターがモデルらしいブレストンの生活を七ヶ月送った主人公ルヴェルは、都市の呪いを払拭するため到着からの今日までを遡って再構成する。題名『時間割』の由来は、一年間の七曜表のことで記録は日記風に書かれている。ここには旧約のカインとアベルの神話も含まれ、四角い塔にはそれを表すステンドグラスもある。
 《ひとすじの陽光が、アベルの傷口からしたたった血のかたまりを横切り、ぼくらの左側の、翼廊の内壁の上に落ちて砕け、赤いしみとなったが、そのしみもやがて消えた。(中略)
  ……とげのある葉の茂みを背景に、砂利地に鋤を打ち込んでいるほとんど裸体の男を指した。
 「あれが荒れ地を開墾するカインです。以下略》
 プルーストをより複雑にした時間の迷路、土地の魔力など、重層する多くの謎が魅力的である。

 6 モーリス・ブランショ
 多くの日本人がブランショを知ったのは、サルトルが紹介した『アミナダブ」によってであろう。が、最近になって右以前の第一作、ヌーヴォロマンの先駆作『謎のトマ』(第三帝国占領下の一九四一年)が刊行された。
 《トマは座った。そして海を眺めた。しばらくのあいだ、動かずにいた。まるで他の泳ぎ手たちの動きを追うためにそこへ来たかのように。そして、なにしろ霧が邪魔で、》以下略
 〈世界〉の無意味性、むしろ空無性をブランショは見抜いているのだ。

 7 ジュリアン・グラック
 『シルトの岸辺』は一九五一年発表なので、ヌーヴォロマンと同時代であるが、シュールレアリズム運動に属したとされる。だが、作風はゴシック・ロマン主義幻想文学で、ヌーヴォ・ロマンの先駆作にも入る。
 《こうした無言の瞑想にふけっていると、時間はまたたくまに過ぎてしまう。海がかげり、水平線が薄い靄に閉ざされる。私は秘密のあいびきからもどるように、外壁の上の歩廊を辿って引き返してくる。》
 宿命をテーマにした陰鬱な文体が格別である。言葉の喚起力、言葉のテンション、傑作である。

 [この原稿のために読み直した本]
①『今日のフランス作家たち』P・F・ボワデッフル著/平岡篤頼+安斎千秋共訳/文庫クセジュ ②『ヌヴォー・ロマン論』J・ブロック・ミシェル著/島利雄+松崎芳隆訳/紀伊国屋書店 ③『不信の時代』N・サロート著/白井浩司訳/紀伊国屋書店 ④『焔の文学』ブランショ著/重信常喜+橋口守人訳/紀伊国屋書店 ⑤『来るべき書物』ブランショ著/粟津則雄訳/現代思潮社 ⑥『文学空間』ブランショ著/栗原則雄+出口裕弘訳/現代思想社 ⑦『快楽の館』若林真訳/河出書房新社 ⑧『幻影都市のトポロジー』江中直紀訳/新潮社 ⑨『消しゴム』中村真一郎訳/河出書房新社 ⑩『現代フランス文学13人集2』収録「トロピスム」菅野昭正訳/新潮社(トロピカルは、現在、書庫より失踪中) ⑪『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社) ⑫『フランドルへの道』平岡篤頼訳/白水社 ⑬『アカシア』平岡篤頼訳/白水社 ⑭『時間割』清水徹訳/中公文庫 ⑮『謎のトマ』篠沢秀夫訳/中央公論新社 ⑯『唯物論と革命』サルトル著(「アミナダブ」/佐藤朔訳/人文書院) ⑰『シルトの岸辺』安藤元雄訳/集英社

             荒巻義雄(2012年9月)

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2012年8月13日 (月)

荒巻義雄の伝奇リスト

Filed under: 資料リスト, 研究 - 岡和田晃 @ 0:07:47

 荒巻義雄の伝奇リスト

 限界研編『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』(南雲堂)を読みましたが、特に、収録論文「現代「伝奇ミステリ」論――『火刑法廷』から〈刀城言耶〉シリーズまで」(岡和田晃)については、1970年代伝奇ブームに参加した一人として、当時の状況を証言をしておきます。

 新書版と言えばカッパブックスの推理小説が主流であった1970代はじめ頃、光文社でストがあり、いわゆる7人のさむらいと呼ばれる同社幹部が新しく会社を興しました。それが、神田九段下付近にあった祥伝社です。
 まだSFの新人であった私のところにも電話があり、まったく名前を知らず、ショウデンシャというので電気工事の会社かと思ったほどです。
 やがて伊賀編集長が札幌に来て、新会社の特徴を出すため伝奇+推理という新ジャンルを始めたので参加しないかと誘われた。
 すでに平井和正氏が狼シリーズを始め、これが大ベストセラーとなり、半村良氏も伝説シリーズで参加していた。
 私は、まだ早川のみで仕事をしていたので、信頼していた森優SFM編集長の推薦だと聞き承けることにした。
 約一年後、完成したのが①『空白の十字架』(1975年)。書き出しは千軒岳(北海道松前の裏手)にある切支丹伝説。ここで、当時、噂になっていたUFOを目撃する。
 一応の成功を見て、結局、8巻まで書いた。
 以下、②『空白のアトランチス』(1976)、③『空白のムー大陸』(1976)、④『空白のピラミッド』(1978)、⑤『空白の黙示録』(1982)、⑥『空白の失楽園』(1984)、⑦『空白のメソポタミヤ』(1985)、⑧『空白の大涅槃』(1985)
 こうして、祥伝社の新書版ノンノベルの伝奇推理部門から志茂田景樹、加堂秀三が登場、さらに夢枕獏と菊地秀行なども出現し、伝奇第一期の時代が終わるのである。

 その後、祥伝社は、担当編集者の部署かえで縁が切れた。(半村良などは残ったようですが)
 幸い、すでに徳間書店が新書戦線に参戦、トクマノベルスを始めたし、SFブームにもあやかり「SFアドベンチャー」誌が発刊され、私にも誘いがあった。これに応じたのが、スーパー伝奇と銘打たれたキンメリア七つの秘宝シリーズである。
 ①『黄金繭の睡り』(1976)、②『黄金の不死鳥』(1977)、③『黄金の珊瑚礁』(1978)、④『黄金の回帰線』(1979)、⑤『黄金の水平線』(1981)
 なお、同時期、奇想天外社からは、『神州白魔伝―九来印之壺の巻』(1979、奇想天外社/註、クラインの壺と読む)刊行。もとは「SFマガジン」に昭和49年、読み切り(183~188号)で連載「新妖幻記・白魔傳控帖」として書いたものが、奇想天外社で単行本になった。なお、「奇想天外誌」で、第2部(迷尾臼正邪鏡之巻/メビウス正邪鏡とよむ)を開始、「壱之巻 白魔宮益坂」(1979)42号、「弐之巻 白魔時穴秘宝」(1980)46号に書いたが、同誌刊行が中断したので、作品も中断した。
 さらに、徳間書店から秘宝シリーズ、①『ソロモンの秘宝』(1980)、②『始皇帝の秘宝』(1982)、③『シルクロードの秘宝』(1985)など。『古代かごめ族の陰謀』(1985)
 講談社のノベルからも①『義経埋宝伝説殺人事件(1985)』、②『日光霊ライン殺人事件』(1986)、③『黄河遺宝殺人事件』(1988)、④『「マ」の邪馬台国殺紀行』(1989)(文庫題『新説「邪馬台国の謎」殺人事件』)、⑤『能登モーゼ伝説殺紀行』(1990)
 実業之日本社からは、嶋成シリーズ、①『天女の密室』(1977)、②『石の結社(1979)』
 有楽出版社からは、明王シリーズ、①『殺意の明王』(1981)、②『明王戦記/悪魔の議定書』(1986)、③『明王魔界戦記/妖獣王子』(1987)
 ①『心霊師団出撃ス』(1989)、②『心霊潜水艦出撃セヨ』(1990)、③『心霊戦艦「武蔵」出撃』(1991)、  角川書店からは、①『ムー大陸の至宝』(1984)、②『ムー大陸情死行』(1986)、③『ムー大陸摩天楼』(1987)
 以上、伝奇SFも含む。
 最近の伝奇は読んでいなかったので様子がわかりませんでしたが、岡和田氏のまとめで輪郭が掴めました。以上。(荒巻義雄)

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2012年8月 8日 (水)

バラード架空インタビュー

Filed under: 海外交流, インタビュー, 文庫解説 - 岡和田晃 @ 16:32:27

 J・G・バラードの『夢幻会社』(1979年)は、まさしくバラードの転回点とも言うべき中期の代表的傑作ですが、1981年にサンリオSF文庫から最初の日本語版が刊行されました。その訳業には、いま読んでもなお読み手を瞠目させる表現が多々用いられており、日本語文学としても、ひとつの完成を見ているとしても過言ではないでしょう。
 当時、増田まもる氏は32歳。大江健三郎が『万延元年のフットボール』を、中上健次が『枯木灘』を書いた年齢で、増田まもるは『夢幻会社』の完訳を為したというわけです。その雰囲気をわずかでも知っていただくため、ご本人の許可を得て、サンリオSF文庫版『夢幻会社』の巻末に収められた「架空インタビュー」を再録させていただきました。
 お読みになった方は、古書肆をあたって、サンリオSF文庫版『夢幻会社』の現物を入手し、実際の「危険な」訳文に触れてみてください。
 なお、増田まもる氏の翻訳リスト(2011年時点)を、下記リンク先にて無料ダウンロードすることが可能です。(http://issuu.com/yurikamiyano/docs)。(岡和田晃)

架空インタビュー
J・G・バラード
聞き手:増田まもる

――この作品は、あなたのこれまでの全作品を統合したうえに、新たな局面が展開されている画期的な作品だと思います。とりわけ、これまで内意識の奥底へ沈潜していくという、精神病理学的なイマジネーションが、現実を超えていく壮大なイマジネーションの飛翔に転嫁したところに、この作品の重要性があると思います。「終着の浜辺」で内宇宙の終末をみいだし、「ウェーク島へ飛ぶわが夢」のなかで終末を抱きつつ失われた夢に執着していたあなたが、いかにしてこの転換をなしとげたのか、おおいに興味あるところですが。

バラード そこにはいくつかの要素があるのだが、なかでも夢の全能性への信頼を回復したことが最も重要なことだろう。「終着の浜辺」で内宇宙の窮極に存在するものが現実にほかならぬことを発見したわたしは、それ以後、この現実と呼ばれるものの姿をさまざまに描きつつ、その虚構性をあばくことに努めてきたそれは同時に内意識の虚構性をあばく作業でもあり、その虚構をつきぬけたむこうに、超虚構的な、一切の心のメカニズムから解放された夢の自由を獲得したわけだ。

――シュールレアリズムの限界を突破したわけですね。

バラード シュールレアリズムとは、最終目標には決して到達しない一つの運動であるとわたしは考えている。夢の自由と昂揚は、一切の既成の事実を超えて幻想を絶えず超虚構化していく過程のうちにしか存在しないのだ。従って限界を突破したという表現は正確ではない。硬直化した既成のシュールレアリズムを打ち破って、新たな局面へ展開させたと言うべきだろう。なぜなら、おのれの全能性を過信したブレイクは破滅しなければならなかったのだ。「ヒューブリス」ゆえに破滅に導かれたのだ。

――「ヒューブリス」とは何ですか。

バラード 「ヒューブリス」とは、ギリシャ語で「傲慢の罪」「慢心の罪」をあらわす言葉だ。だが、この言葉にはそれ以上の意味がこめられている。ある人物が自己の能力を過信して、あたかも全能のごとく振る舞うならば、かれは「ヒューブリス」ゆえに悲劇的破局をむかえる運命にあるのだが、その破滅を生き延びることさえできれば、彼はデモーニックな聖性を獲得することができるのだ。

――この作品のなかでは、浜辺の骨層に眠る化石の夢が主人公の身体を身にまとい、その直後にみずからブレイクと名のりますが、この名前はウィリアム・ブレイクを連想させます。また、殺されて蘇ったブレイクが最後に再び骨層に戻ってゆくとき、かれは「生けるものと死せるもの、生物と無生物の窮極の結婚を見た」わけですが、これもウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』を想起させます。ウィリアム・ブレイクについてはどう考えていますか。

バラード その卓越した想像力と形而上学において、彼はまぎれもない天才であったと思っている。対立し、矛盾する二つのものを彼の内宇宙のなかでひとつに溶け合わせることを生涯のテーマとして、キリスト教的神秘思想を存在論的にとらえ直し、独自の形而上学を展開している。深い洞察と論理性に裏づけられたその圧倒的な情念の奔流は、じつに素晴らしいものがある。ある意味では、わたしがめざすものは彼の生涯のテーマと同じであるということができるだろう。

――この作品では、冒頭の一語をはじめ、天地創造の七日間、ブレイクの死と復活、水のおもてを漂う霊のイメージなど、随所にキリスト教のアレゴリーがみられますね。

バラード 言うまでもないことだが、内宇宙を存在論的に考えるということは、とりわけわたしにとっては、キリスト教的形而上学を考えることと同じ意味を持っている。「結晶世界」をはじめとするわたしの主要な作品のテーマは、ある意味ですべてその考察にあると言ってもよいだろう。この作品の最も重要なテーマもそこにある。ブレイクに第二の生を与えた目に見えぬ力。射殺されたブレイクの復活。これらは形而上学的なキリスト教のメタファーであり、その意味は様々なレベルで読むことができるだろうし、また、そう読まれるべきなのだ。

――以前のNW-SF誌のインタビューのなかで、あなたは現代のセックスが技術主義に支配されはじめており、技術主義によって再生産されていると述べていますが、この作品では、セックスが主人公の幻想を生み出す駆動力をひきおこす力として、メタセックス的にとらえ直されていますね。

バラード わたしはセックスという言葉を全生体的駆動を意味するものとしてとらえている。セックスをそのようにとらえたとき、それは無限の幻想を生みだす豊饒の泉となり、夢と現実、日常と非日常、聖と俗との窮極的結婚の原動力ともなる。われわれの内宇宙でとりおこなわれるこの結婚式こそが、われわれの生命の無限の可能性を約束してくれる祝典ではないだろうか。

――最後になりましたが、以前、松岡正剛氏との対談の席上で、鉱物が見る夢といった観点から描かれた作品を書くことを約束しておられましたが、この作品でみごとに約束を果されましたね。

バラード 彼には良いアイデアを提供してもらった。彼に会う機会があったら礼を言っておいてほしい。

(初出:『夢幻会社』、サンリオSF文庫)

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2012年8月 5日 (日)

川又千秋「幻詩狩り」読解新解釈

Filed under: 書評 - 荒巻義雄 @ 15:10:18

                Who is Who May?/フー・メイは誰か
                                荒巻義雄

 2012年7月4日 城西国際大学紀尾井町キャンパス地下ホールを無償で貸していただき、〈日本SF作家クラブ創立50周年〉記念事業の一環としてのキックオフが行われた。このテーマが「日本・SF・翻訳――川又千秋『幻視狩り』英訳を記念して」
 なお英訳題は「Death Sentences」である。
 運営には、(株)イオはじめ、多くの関係者が携わった。
 筆者にも20分の時間が割り当てられが、あまりにも時間が足りず、ここに自説を公開することにした。なお、ブログ〈speculative japan〉にも掲載を予定。

 Ⅰ『幻詩狩り』英訳のきっけ
 きっかけは、巽孝之がアメリカ、コーネル大学留学中、たまたま同大で学んでいた日本女性カズコ・ベアレンツと知り合い、筆者の『柔らかい時計』の英訳を頼んだのがそもそものはじまりであった。その後、彼女が札幌出身だったことから、この後、帰省のたびに筆者と会うことになった。
 一方、巽は日本SFの英訳プロジェクトを試み、筆者以外の作家の翻訳も依頼するようなった。そろそろ書いてもいいと思うが、この際、それなりの翻訳料を支払う必要が生じ、巽の依頼で私が負担したのを覚えている。
 とにかく、私の「柔らかい時計」の翻訳が彼女とSF作家ルイス・シャイナーの共訳になっている理由は、日本語からの直接訳は難しく、カズコ訳が下敷きになっているからである。私の記憶では、確か、山野浩一の作品もそうだが、この「幻詩狩」も彼女の下訳をもとにトマス・ラマール教授が翻訳、ミネソタ大学で出版したものである。
 多分、多くのSF関係者は知らないと思うが、カズコ・ベアレンツの存在がなければ、日本SFの翻訳は進なかったはずだ。従って、彼女は日本SF史の中に記録されてよい存在である。(詳しくは巽英訳本紹介に)
 彼女は巽も在籍していたコーネル大を卒業後、ビジネススクールをも卒業、一時期、ニューヨークで金融関係の仕事に従事していたが、一念発起して西海岸に移りバークリー大学で心理学を学び直した。ここでドクターを得て、現在はテキサス州ラボックの大学で教鞭をとっているが、この秋からニューヨーク州のSUNY(State Univeristy of New York)へ移籍、引きつづき親子関係の研究(大脳生理学的手法で可視化するらしい)をつづけるという。
 こうした窓があると海外の事情がわかるが、日本文壇は言うまでもなく、日本SF界もいまだ21世紀モードのままではないだろうか。
 しかし、世界が急速に21世紀モードに変わりつつある。意外に早く、故小松左京が夢見た文学と科学の融合が、当時は想像もしなかった電子書籍や大脳生理学(脳地図的検査技術の発達)等で実現するのではないだろうか。
 なお、従来の科学のイメージも変わりつつある。原発問題にかかわった専門家と呼ばれる科学者の人格の問題(真実を隠す)の追求も、今まではそれぞれの村に引きこもっていればよかったが、今後は、知識を蓄えた賢い大衆の眼に、政治家と共に曝されるなどの現象が起きるのではないだろうか。これは科学そのものの倫理問題とは別で、科学以前の問題、すなわち人間としての良心の問題である。
 などと考えると、旧来の性善説的科学認識のまま、あるいは鵜呑みにして、SFが科学との融合を目指すのは危険かもしれない。いろんな理由があるが、巨額の研究費のいる現代科学は、国家や巨大企業と結びつかざるをえない。一方、SFの本義は、あくまで自由な立場を維持しつつ、批判精神を維持し、貫くことである。
 こうした自立心を維持すれば、SFは外部から注目されるであろう。20世紀モードは2010年で終わり、いよいよ21世紀モードに入った。SFと先端科学の思考過程は同周波だからだ。

 Ⅱ 開演に先立ち
 開演に先立ち講師陣とスタッフ一同は、城西国際大理事長室に呼ばれ、水田宗子理事長に挨拶、短時間であったが面談の栄に浴した。実はこの大学で小松左京全集が刊行されているのだ。今回、会場を提供されたことにも、深く感謝しなければならない。

 Ⅲ トマス・ラマール教授の「時の渦巻」講演。
 SFM8月号に訳文があるのでそちらを参照されたい。
 筆者が興味を抱いたのは、開演前に主催者から渡されたラマール氏の論文の中に、自由間接法が出てくることだった。これはわれわれ日本人にとっては、大変、不得手。大学でもイタリア語、フランス語などを履修しない限り、学ぶことがない。
 ●直接話法 同上のとき引用符(「」や〝〟)を用いる。
 ●間接話法 文章中において他人の発言を引用するとき、そにままの言い回しで引用することせず、自分の立場に置き換えて書きあらわす方法
 ●自由間接話法 伝達節(……と、言った。)(……と、訊ねた。)を欠いた間接話法を言う。
 A氏が/明日までここにいる。
 このAの発言を、 Bが、あいつ(A)、あのとき、「明日までここにいる」って言ってたよ。[直接話法。(「」がある)]
 Bが、あいつ(A)、あのとき、翌日まであそこにいるって話だったよ。[間接話法。(「」がないが、伝達節はある]

 ラマール教授は自由間接話法の例として、フローベル(1821~1880)の『ボバリー夫人』を挙げる。
 例/彼女はもうピアノを弾かない。なぜ弾かなければならないのか?いったい誰が聞くというのか?
 もはや、作中人物の心情なのか、フローベル自身なのかは区別できない。作者自身が感情移入し、同化しているのだ。
 『幻詩狩り』では、この自由間接話法が多用されていると、ラマール教授は指摘する。
 例/が、そのまま、運ばれていく。
(どこへ?)
 ……分からない。……原戸の面影が彼の目の前に浮かんだ。
 こうした語法的詩的は、わが国ではほとんど行われないので、学ぶべき点であろう。

 Ⅳ 荒巻説では……
 しかし、筆者の読解では、この作品には漫画の技法が使われていると考える。
 『幻詩狩り』の冒頭は、漫画の駒割りあるいは映画の手法ではないだろうか。手塚治虫の手法はデズニーに学んだと言われる。
 ◇冒頭のシーン
 女が――マンションから出てきた。
 坂元は火をつけずにくわえていた煙草を地面に投げ捨て、靴の先で踏みにじった。
 それが合図だった。
 何食わぬ顔の取締官三人が、彼女と入れ違いにマンションに入った。
 それを見届け、坂元はゆっくりと女を尾けて歩きだした。

 何台も設置したカメラの映像を編集したような描き方だから、これは映画であり漫画の手法である。
 川又は視覚型だ。作者は〈眼〉だ。〈眼と化した〉作者だらこそ、作中人物の心理、内面に侵入、同化する。これがラマール教授が指摘した自由間接話法の正体ではないだろうか。

 《付記》実は、ラ教授の指摘しなかった重要な問題がある。
 プルースト(1871~1922)がフローベルの文体を論じているのだ。(「フローベルの文体について」)
 第一文節の中心を受けて、第二文節へ、さらに第一+第二の文節を受けて第三文節へ。
 これが接続詞なしに文を書く秘伝である。
 引用すれば、
 〝①アレクサンドロスの悪徳は彼の美徳と同じく極端だった。②怒ったときの彼はすざましかった。③怒りは彼を残酷にした。〟
 ①の文の中心は悪徳と極端である。これを②で、すざましかった、と承ける。さらに①+②を③で承ける。
 プルーストは言う。〝これらの文章は、一つの文節の中心からほとばしり出たものが半円をえがいて次の文節の真中にかならず落ちてくるように組み立てられており、それによって緊密に弛みなく継続する文体を確保したからであった。〟

 Ⅴ 巽孝之の『幻詩』論
 英訳本の英文序文の訳文「幻詩力一九八四年――シュールレアリスムからポストモダニズムへ」があらかじめ渡されてした。
 本稿読者もなんらかの機会に読めると思うが、巽は論構成をサイバーパンクにおく。
 この見方ははたして正しいか。
 というよりは、サイバーパンクに限定することによって〈それ以外の面〉を見落とす危険性は完全にないだろうか――という疑い。
 『幻詩』をサイバーパンクの系列に置く見方に、ほんとうに原著者川又は納得しているのだろうかという疑念。

 実は、巽論『ジャパノイド宣言』にある「柔らかい時計」論だが、もしこの作品をサイバーパンクえ解釈すると、(サイバーパンク作家)ルイス・シャイナー訳のように、別な作品になってしまう。
 翻訳当時はサイバーパンク全盛であった。原著者も改訳を承認していたので異議申し立てをするつもりはない。第一、作品は時代や地域、読者個人の背景で様々に読めるものだということを証明する一例でもある。
 しかし、一つの読み方だけが唯一として伝わるのはよくない。それでいい機会なので原著者の発言をこの場をかりて載せることにした。
 まず、大きなちがいがある。(まちがいではない)。
 サイバーパンクは情報である。情報はモノではない。従って手では触れられない。
 この〈情報〉と〈モノ〉のちがいは先の原発事故でますます際だってきた。われわれに伝わってくるのは、東電や政府の発表つまり情報でしかなかった。肝心の事故現場には汚染のために近づけない。つまり、〈現場〉が欠落していた。現場にはモノが瓦礫として散乱しているが、実態は不明のままだった。この情況では、情報を独占する側が有利である。隠蔽が可能である。われわれ国民は、東電や政府発表が正しいと信じていたが、欺かれていたのだ。
 余談を戻して、しかし、情報ではなく物質として作中では扱われている〈柔らかい時計〉は、手で触れることができる。
 ①この作品を執筆した当時、考えていたのは物性論(レオロジー)だ。さらに位相幾何学で考えているから、この時計は二つ折りにしてもチクタク動く。シャイナーはここを読み違えた。
 ②実は舞台背景にも手が加えられているが、執筆したときは、まだ火星の映像はなかった。ヴァイキング1号到着は1976年7月。書かれたのは1968年であった。
 原著者にとってこの火星は本物の火星ではなく、ダリの絵の世界なのだ。ダリの方法、偏執狂的理性批判でみたカダケスやポルト・リガドの景色である。
 ③シャイナーの第三の読み違いは日米の文化の差、日本的和解の仕方である。ヴィヴィと祖父の和解を暗に促すために孫を見せる方法は、日本社会ではよく見られる。ほんとうは、祖父を銅像にされては困るのである。

 以上、余談が長くなった。が、これには理由がある。
 『幻詩』はサイバーパンクではなく、実体のあるシュールレアリスムの運動との鏡面像として読むことができるのだ。むろん、幾とおりの読み方があってもいい。

 Ⅵ 笠井傑の『幻詩』論(『詩的言語と例外状態』)
 前出ラマール論文でも触れられた、『幻詩狩り』に登場するカール・シュミットに注目、呪文(ドゥバド)とナチスのプロパガンダを結びつける、笠井氏らしい(SF)政治学的な解釈を行った。
 註、カール・シュミットは、国家における非常事態を意味する例外状態を自己の政治思想の背景に置いた。結果、ナチス法学理論に加担するが、後に追放される。
 つまり、幻詩が社会を例外状態に陥れる。それはナチスのスローガンと同じだということだろう。
 筆者も戦時下を知ってる世代なのでよくわかるが、カリスマ独裁者の言葉は魔力をもつ。幻詩と同じだ。戦時に作られた新語「玉砕」「特攻」などには、なぜか〈死〉が纏い付く。抗しえない魔力を持つのだ。死への賛美。呪文ドゥバドは人の魂を麻痺させる。原理的には同じである。

 Ⅶ 作者川又千秋の見解は省略。(作者は自作について語るべからずということだろうか)

 以上が前置きである。これからが荒巻説だ。すなわち、ダダからシュルレアリスムにいたる時代状況に身をおいて『幻詩』を解析する美術史的見方があるということだ。

 Ⅷ ブルトンの魔術性
 実はブルトンには『魔術的芸術』という解説つき画集があるが、日本での翻訳初版は1997年、11月(巌谷国士監修/河出書房新社)であるので、『幻詩』(中央公論社C★NOVELS)が世に現れた1984年のずっと後である。
 フランス版の初版は、ブルトンが亡命先のアメリカからパリに戻ってから後、1957年である。この稀刊本はフランス図書クラブの会友に向けて企画されたもので、執筆に協力したのはジェラール・ルグランであった。
 おもしろいのは、同年にはグスタフ・ルネ・ホッケが『迷宮としての世界』を世に出す。かたや日本では渋澤龍彦が活躍していた時代であった。(拙作『白き日旅立てば不死』1972年初版の参考文献)
 邦訳の企画は初め人文書院であったが、わが国のシュルレアリスト滝口修造1979年死去、1987年澁澤龍彦も死去して立ち消えになったが、その一〇年後に復活したのである。
 ここで『幻詩』の刊行年1984年と比較しよう。邦訳以前であり、原著は好事家の手で押さえられていたので入手困難であろう。
 とすれば、川又は読んでいないはすなのに、なぜ多くの付合があるのか。
 『幻詩』の中では1943年、ニューヨークでブルトンはパトリック・ワルドベルグが連れてきた幻詩の作者、フー・メイと会う。
 一方、実生活では1940年パリ陥落の翌年、ブルトンらシュルレアリストらはアメリカへ亡命する。帰国は1946年パリに戻る。したがって矛盾はない。
 第二次大戦中、アメリカにいたとき、先の『魔術的芸術』の構想を抱いていたことは、十分、想像できる。
 ほかでもない、作中のフー・メイは魔術師である。
 一方、ブルトンは一般的に考えられているように、フロイトから学んだわけではない。ウィーンまで会いに行ったのは事実だが、会ったあと、「なんだ、あのくそ親爺」くらいの程度で尊敬したわけではない。おそらく都合がいいので利用した程度のことだろう。
 ブルトンはむしろ18世紀半ば英仏に流行した魔術に関心を抱いていた。おそらくこちらが本音だろう。
 シュルレアリスムを、フロイト主義の影響にあったとする考えは止したほうがいい。
 前述の『』をひもとけばわかる。この本では古代からの魔術の実例、中世た近世の魔術、そして最後にシュルレアリスムをおく。
 見出しであるが「ふたたび見出された魔術シュルレアリスム」、つづいてて節題は、「芸術におけるシュルレアリスムとの魔術シュルレアリスムの意識の普遍的な呪文は解かれぬままのこるのだ」など。
 明らかに西欧社会の魔術文化の延長線に、ブルトンはシュルレアリスムを考えていたのである。
 もっとも、フロイトは古代エジプトの神像をたくさん持っていた。とすれば、彼の精神分析は古代精神文化の発掘と似たところがあり、矛盾しないのだ。

 Ⅸ 『幻詩』の呪文「ドゥバド」の出自はダダイズムだ。
 ダダは第一次大戦時にチューリッヒに亡命してきたルーマニア人の詩人トリスタン・ツァラを中心に花開いた。このツアラの『七つのダダ宣言とその周辺』(小海永二+鈴木和成訳/土曜美術社)のなかに、擬音語(オノマトペ)「ヌドゥムバ」「ムバンプー」がある。

 ヌドゥムバには トリトリルーロには ヌコグンルダには
 大きな光輪があって そこを虫たちが黙って行き来する
                    (「アンチピリン氏の最初の天上冒険」)

 聞け 聞けよ 聞け 僕は呑み込む ムバンプー 君の善意を    (「運動」)

 『幻詩』では(中公文庫270ページ)

 魚だ。ドゥバド。その目玉を直角に切り裂け。断面の震え。破裂する水晶玉は血にまみれて映しだす。ドゥバド。茜色に染まった鏡人たちの都。負の圧力が、ドゥバド、そら!おまえを連行する……

 なお、この詩のイメージは、ダリのシュールな短編『アンダルシアの犬』冒頭の雲が月を横切ったとたん女の眼を剃刀が切り裂く、あの衝撃的なシーンを連想させる。

 註 アーシル・ゴーキー
   アルメニア生まれ。1920アメリカ亡命。自殺(火事・癌・自動車事故が重なる)  最初はミロ風。デ・クーニングやS・デービスと交友。
  彼はシュルレアリストから抽象表現主義絵画へ、先駆けになった人。
   1943年ごろから、生物形態的抽象画/バイオモーフィック・プストライション
  彼自身の記憶や恐怖の感情のフィルターで自然界のイメージを。植物や昆虫の変形過 程を追ったデッサンをもとに自然の生成を形象化。ブルトン激賞、自然の前で描くことのできた唯一のシュルレアスト。

 Ⅹ 『幻詩』の背景
 ダダイズムは第一次大戦時、戦火を逃れ、チューリッヒ(スイス)に亡命した芸術家のらんちき騒ぎから生まれた運動で、チューリッヒ・ダダと呼ばれる。中核は前述のダダの理論家ツァラでルーマニアの詩人、アルザス生まれのアルプだった。なお、この名はデタラメに辞書を開いて見付けた幼児語お馬さんに起因すると言われる。
 戦後、彼らがパリに戻り継続したものがパリ・ダダである。
 さらに、ニューヨーク・ダダと呼ばれるものがある。これは1913年から一ヶ月、NYのダイ9歩兵連隊屋内練兵場で行われた〈アーモリー・ショウ〉でヨーロッパのフォーヴィズムやキュビズムが紹介され、アメリカ絵画の後進性が印象づけられたとき、アメリカ側はマルセル・デュシャンが『階段を降りる裸体』を発表、観衆の嘲笑をかうとともにどきもを抜いた。
 さらに第一次大戦中、マン・レイ(無用な機械シリーズ)、反芸術のピカビアや騒音音楽のバレーズらとニューヨークダダを起こした。
 さて、ブルトンである。彼はパリでダダと接触、洗礼を受けたが裏切り、独自の教義に基づきシュルレアリスムを作ったと言われる。

 註 なお、ダダとシュルレアリスムのちがいは、
 ダダはリゾーム的(根茎/遊牧/道化/分裂症/脱構築)
 シュルレアリスムは(ツリー型/定住/祭司/パラノイア/構築)
 とされる。

 註 年表を作ろう。
 1940年パリ陥落(第二次世界大戦、第三帝国軍) /(現実)
 1941年8月ブルトンNY。 前後してデュシャン、タンギー、エルンスト、マッソン、マッタなども亡命/(現実)
 1942年10月シュルレアリスム国際展/(現実)
 1943年2月マンハッタン パトリック・ワルドベルグの連れフーメイとブルトン会う。/『幻詩』
 同6月who May 「異界」/デュシャン呼ぶ、読む。/『幻詩』
 ●実はデュシャンは四次元を考えていた。彼の全著作集(一冊)の中に一個所この言葉がある。ダリ『磔刑』の超立体も、四次元立方体の三次元展開図だ。キリストを思わせる男の処刑図。
 これはハインラインの「歪んだ家」と同じ。八つの立方体が四次元的に過剰空間の面を形成。(第四次元の小説/三浦朱門訳/紀伊国屋書店)と同じだ。(現実)
 ●フー・メイは時間を支配できる呪文だが、これは先述のアーモリー・ショウにデュシャンが出品した「階段を降りる裸体」の時間の経過表現を思わせる。

 その一週間後「鏡」
  視よ!
  おまえのその目
  おまえの眼

 川又は鏡をよく使う。たとえば、反在士の鏡。

 1944年
 ブルトンがゴーキーとあったのは1944年でNY、イサム・ノグチが連れてきた。
 フーメイ姿を消す。『幻詩』
 1945年ゴーキーの個展のカタログにブルトンは、「眼のバネ――アーシル・ゴーキー」を書く。(現実)
 1946年3月ブルトン、パリに戻る。/『幻詩』
フー・メイ電話/ゴーキーにパリの住所を聞いた。/『幻詩』
 「時の黄金」を探す。
 1948年 養父サディコ、「時の黄金」受け取る。気分わるくなる。/『幻詩』
 呪文/光の影の陰。 光の奥の底。光の底。

 1940~50年代は、アメリカでは、抽象表現主義の時代。抽象表現に依りつつも感情、内面性、精神性を追求するようになる。
 実は、ブルトンが絶賛したゴーキーも抽象表現派に分類されれている。他、デ・クーニング、ポロック、ロスコなど。
 なお、50年代末から①ポップ・アート(ラウシェンバーグ、リクテンスタイン、ウォーホル)の時代へ突入する。

 ではフー・メイはだれか?
 18世紀中葉、フランスやイギリスでは霊媒が流行した。たとえば、ビクトリア朝時代のシャーロック・ホームズものにも、第一次大戦後のポアロものにも、霊媒が出てくる。
 シュルレアリスムの特徴である自動筆記も、実は霊媒が起源である。ダダのピカピア(前述)の自動詩も、ミロの自動デッサンも、ブルトンお気に入りだが、起源は霊媒だったのである。
 川又はこのへんのヨーロッパの事情をよくわきまえて、『幻詩』を書いたと推量される。
 ちょっと余談をいうと、フロイドの方法は、ユダヤ教、旧約の原理に支配されてると言える。旧約世界では神が犠牲を求める。神は善良なアベルに対してわが子を生贄にせよと命ずる。こうした恐怖感が、割礼の恐怖をともない、フロイトにはあったのかもしれない。
 ヒトラーにしても霊媒師という噂は、当時、あった。彼は祭司だったのかもしれず、となると犠牲を求めた。これが600万人もの人々を殺した、近代的合理主義では理解できないナチスの犯罪の真因だったのかもしれない。
 つまり、笠井潔が重視したカール・シュミットの例外状態なるものも、神の意思ならばわれわれは逆らえないのである。われわれ日本人も戦時下、そうして、批判などゆるされるはずはなく、敗戦必然にもかかわらず死へと駆り立てられたのである。
 ひょっとすると、川又がまだ明らかにしていない何かが『幻詩』にはあるのかもしれない。

 ⅩⅠ だれがモデルか。
 アンドレ・マッソンがもっともフー・メイに近い。
 マッソンは、フランスの有名な精神医学者で、フロイトの徹底的読み直しを行ったジャック・ラカンの義弟である。
 マッソンはアメリカが誇るアクションペインティングの画家、ジャクソン・ポロックの先駆者でもある。ブルトンお気に入りの画家で賞賛の批評も書いている。
 フランソワーズ・ルヴァイアン著『記号の殺戮』(谷川多佳子他訳/みすず書房)という本があるのをご存じだろうか。1996年12月刊である。そのⅠ章が「シュルレアリスム直前のフランス人における狂人と霊媒のデッサン」である。
 さらに、Ⅲではマッソンの石榴を巡って「オブジェの絡み合いにおける渦巻きと幻影」と題して論を進める。実際、マッソンの絵には渦巻きがよく現れる。古代では渦巻きは呪術的シンボルであり、たとえば太陽である。あるいは二つの渦からなる隼人の楯のようなシンボルもある。
 ここでラマール教授に講演題「時の渦巻き」を思い起こそう。渦巻きは銀河であるが、前述のとおり、ニーチェの〈永劫回帰〉であり、明らかに反キリスト教てきである。なぜならキリスト教では時は一直線で回帰しない。始源から終末に一方通行である。であるから、たしかに反キリストであり、ならば魔術的である。
 以上から、Who is WHO MAY?の答えは、マッソンがふさわしい。

 結語/目下、『幻詩』は絶版状態だが、神田など古書店を探すと見つかるかもしれない。傑作であると保証する。(2012年8月5日)

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2012年7月16日 (月)

川又千秋『人形都市』論(巽孝之)

Filed under: イベント, 研究, 書評 - 岡和田晃 @ 16:55:21

 2012年7月7~8日、北海道の夕張市で第51回日本SF大会Varicon2012が開催されました。
Varicon2012の公式サイトでは、北海道に関するSF作品を論じていく「北海道SF大全」(http://www.varicon2012.jp/taizen.php?no=01)が開催されていましたが、大会パネルでもそれに合わせ、「北海道SF大全」パネルを開催いたしました。
 ゲストは巽孝之、小谷真理、松本寛大、増田まもるの各氏、そして岡和田晃でした。まず、東京SF大全から始まる大全シリーズが概説され、巽孝之氏は、「小樽」をキーワードに荒巻義雄と川又千秋を論じ、小谷真理氏はアニメ『センコロール』を熱く語り、札幌在住のミステリ作家松本寛大氏は、吉村昭の『羆嵐』と「開拓」の問題に引きつけて映画『Return to Oz』および写真集『Wisconsin Death Trip』を、岡和田晃はアイヌと久間十義の『魔の国アンヌピウカ』についてそれぞれ論じ、最後に増田まもる氏が総括を行ないました。
 今回はパネルの開催を記念し、当日、紹介された巽孝之氏の川又千秋『人形都市』論を、ご本人の許可を得て初出のままに再掲いたします。北海道SFについて本格的に論じた最初期の論考ということで、どうぞお愉しみください。(岡和田晃)

「SFレビュウ」
川又千秋 著 『人形都市』
 巽孝之

 SFにとって美とは何か――。
 仮にあなたが常日頃、そんなこだわりを抱いているとするならば、ここにまとめられた川又千秋初期短篇の数々は、さながらガラス細工の奇跡のように目映く、そして繊細に、応えてくれることだろう。
 センス・オヴ・ワンダーという術語に関して、その一般的諒解に潜む誤謬のひとつは、認識論的次元で捉えるあまりに、それが先在する美学的次元をやすやすと見逃してしまうところにあった。ゆえに五〇年代ハードコアSFに対する六〇年代ニュー・ウェーヴSFの登場というのは、フロイディズム、シュール・レアリスムを根幹にSFを現代文学上に位置づけようとした点で、きわめて暴力的に見えたかもしれないが、実際その本質とは、「科学の文学」のもうひとつの、だが根本的な装いとして「美学の文学」を見出そうとする姿勢と思われる。
 この意味で、ニュー・ウェーヴ体験を基礎に持ち、本号発刊時には文庫版も出ているだろう評論『夢の言葉・言葉の夢』をひっさげて、その路線上で次々と創作を発表していった川又千秋の活動とは、まさにセンス・オヴ・ワンダーの読み方自体に解体/再構成を企てるものだったと言えよう。
 本書収録作品は六篇。全て旧『奇想天外』誌を初出とする。また、全て後の『反在士の鏡』を含むメタSFの原型とみなせるから、昨今彼が中心に据えている冒険小説群からするといささか奇異な印象さえあろうけれども、この方向こそが作家・川又千秋の原点であり究極点であることは、まず疑いえないところだ。
  さて、作者あとがきも述べるとおり、これらのうち最後に収められたレム的モチーフの「種の起源」を除く五篇が、自動人形の徘徊する未来世界に材を採った、見方によってはオムニバス風である点は作者自身の傾倒してやまぬブラッドベリ『火星年代記』を連想させずにはおかぬ物語枠組みを持つ(もっとも舞台設定としては火星のみならず金星もふまえられているが)。川又千秋とブラッドベリ、及び火星。その必然性はどこにあるのか。「夢のカメラ」の一節が暗示的だ。

 火星の秋は足早に朽ちていく。街はすでに、すっかりたんぽぽの種子によって埋め尽くされていた。その光景は、深い積雪に似ていなくもない。が、本物の雪はこれからだった。あと難週間かで、本物の雪が空に舞い、屋根屋根と路上をすこしだけ濡らす。すると続いて、耐えがたい寒波が、この土地に襲いかかり、肉体的に衰えた数百人の労働者の生命を奪い去っていく。毎年のことだ。そして長い冬が終れば、また巨大なロケットが、無数の新しい労働者たちをこの星へ捨てにくる。(三六頁、傍点引用者(編注:再録にあたって傍点を太字に替えた))

 きれいな描写だ。ブラッドベリ的文章にSFの美学を認める人ならば、たまらない贈物に違いない。そしてここより解されるのは、ブラッドベリにおける火星が母国・アメリカ大陸だったのと同じく、川又千秋における火星とは故郷北海道に他ならないということ。
 私たちは虚構の時空間に馴れすぎているが、アメリカ大陸が物理的主体であるとともに黙示的想像力の源泉として文字にも大きく影響してきたことは確実なのだ。この図式がこの作家にもあてはまる。川又千秋における北海道も、生活場としての外宇宙であると等しく想像場としての内宇宙であること、だからおそらくは彼自身とりわけ容易にブラッドベリの火星をわがものとして読みかえることができたはずであること。
 ゆえに、ふれればひりひりと痛むような心象風景。そこに棲む「自動人形」たち。ただし、後述する理由で、これらのものたちを、さほど単純に「ロボット」と呼びかえることは差し控えねばならない。
 ロボットの発展史が、機械文明の発展に伴うマルクス的に言うところの社会的「【疎外/エリエネーション】」の歴史と同義であるのは、今やあまりにも自明であろう。本書でも、さらに、サイボーグ化した人間が自己自身からの疎外に甘んじねばならぬ作品、たとえば事故で義足手術を余儀なくされた【跳躍選手/リーパー】の運命を描く「跳躍」、サイボーグ化=不死身化された身を呪い何度となく自殺未遂を反復し、遂には人間としての自己とサイボーグとしての自己が分裂をきたす「死は不死」、ひいては人間/機械の生殖すら可能になりひたすら自走し続ける未来世界で、【冷凍睡眠/コールドスリープ】から目覚めた祖先=人間が檻に監禁される表題作「人形都市」……これらの背景にディックをはじめ、コードウェイナー・スミス、ウィリアムスン、そしてカフカ、安部公房に至るまでの作家を読みとることは困難ではないし、また、一貫したSF的テーマとして、マーク・ローズやゲイリー・ウルフも許容する「科学技術文明の暴走と実存的疎外」を適用することも困難ではないが(ハーバード大出版局刊『異形との遭遇』一九八一年、一四一頁。「人間の機械化」、トマス・ダン他編・グリーンウッド社刊『機械じかけの神』一九八二年、二二三頁)、この作家の場合に看過しえないのは、かような描写からにじみ出てくるのが決して主張のための【疎外状況/エリエネーション】ではなく、あくまで美学的な【異化作用/エリエネーション】である点だ。
 従って、基本的に「自動人形」も「ロボット」として認識論的に解釈されるべきものではなく、「自動人形」は「自動人形」なる単語そのものとして、すなわちこの言葉の持つ驚きなり印象なりを軸に美学的に触覚されるべきものとして、私たちは読まねばならないのである。「自動人形」なる単語には、おそらくドイツ・ロマン派E・T・A・ホフマンの自動人形をはじめ、遠くマニエリスムの遊戯機械のイメージにまでさかのぼる美学的歴史を喚起してやまぬ「力」が隠されているのだから。
 かように、川又千秋の作品からは、単にSF的方法論自体を読もうとする姿勢が離れない。本書刊行を機に、今後は果たしてどんな展開を見せてくれるのか、大いに楽しみなところである。(『人形都市』/著者=川又千秋/二九八頁/¥一二〇〇/四六版上製/光風社出版)

(「SFマガジン」1984年1月号、早川書房。【 / 】はルビと、ルビのかかる範囲を意味する。なお、再掲にあたって傍点部はサイトの仕様のため強調に改めた)

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